« 大河ドラマどうする家康・(21)長篠を救え! ~走れ強右衛門! 武田包囲の城に織田・徳川分裂~ | トップページ | プレイバック徳川家康・(25)伊賀越え »

2023年6月 6日 (火)

プレイバックおんな太閤記・(21)本能寺の変

天正10(1582)年6月1日、翌2日早朝の「本能寺の変」を前にして、長浜は平和であった。長浜城内に作った畑も、長く続いた雨のせいで菜に虫がつき、なかがせっせと取り除いています。羽柴秀吉たちは高松城攻めに出たままで、織田信長自ら出陣するとあって城代の杉原家次も戦に向かっているのです。

手習いの稽古が終わったと、あさひと子どもたちがやって来ました。あさひが教えているのではなく、あさひも子どもたちに交じって手習いを受けているのです。小吉は「手習いを致さねば嘉助どのに文を書くこともかないませぬ」と笑い、あさひに追いかけられています。一方で小吉の兄・孫七郎は難しい書を呼んでいるようで、ともがつきっきりです。長浜城の一日は、いつもと変わらず静かに暮れようとしていた。

そのころ、明智光秀の居城・丹波の亀山城では中国出陣の準備が整い、光秀は1万3,000の兵を率いて亀山城を後にし、備中に向かった。が、老ノ坂にさしかかった突如方向を転じ、本能寺にある信長と合流するためと称して京都に向かった。そしてその途中、光秀は重臣たち5人を呼び寄せ、重大な決意を打ち明けたのである。

「我らの敵は本能寺にある。信長を討つ」 徳川家康への饗応役の叱責や母を見殺しにされたことを考えれば、娘婿の明智秀満も光秀の気持ちを分からなくもないです。光秀はそんな小さなことではなく、信長に信頼されていないと感じるのです。丹波と近江の領地を召し上げて出雲と石見に国替えと言われ、次第に京から遠ざけられる光秀の未来は見えたも同然なのです。

織田家の重臣・佐久間信盛でさえ、いきなり高野山に放逐し殺してしまう信長です。いつ信長に討たれてしまうか分かりません。信長に討たれる前に討つ、それが光秀が出した結論です。光秀のこの考えに従えなければ無理に引き止めることはしないとつぶやく光秀に、光秀の覚悟を聞いて家臣たちは同行を宣言します。

 

本能寺では信長が就寝しています。ふと物音に気が付いて目を覚ました信長は、戸を開けて外に出てみると、大軍の雄叫びのような声が聞こえます。森 蘭丸が信長の元に駆け付けて来て、信長の間近に火矢が飛んできました。これは謀反かと信長は悟り、攻め手は誰かと尋ねると、蘭丸は悔しそうな表情を浮かべながら明智勢と返答します。「なに! 光秀となッ……是非に及ばず!」

本能寺の寺壁を乗り越え、明智の兵が次々と乱入してきます。奥に戻った信長は弓矢を取って返り、軍勢に向けて矢を放って応戦します。小姓や家臣たちも必死に戦いますが大軍すぎて歯が立ちません。信長の弓も弦が切れてしまうと、槍に持ち替えて敵を次々と倒していきます。信長は左肩に矢を受け一瞬狼狽(うろた)えますが、傷口を押さえまま敵の刀を奪い取って斬っていきます。

寺の各所から火の手が上がります。奥に戻った信長は刀台から短刀を手にすると、そっと目を閉じます。若き日の信長が『敦盛』という幸若舞を待っている姿が思い出されます。
人間五十年
 下天の内を くらふれば 夢幻の如くなり
  ひとたび生を得て、滅せぬものの あるべきか

信長は腹に刀を突き刺し、やがて本能寺の建物を火が包みます。この時信長49歳、信長はその波乱の生涯を炎の中に閉じた。

 

6月2日の夜が明けた。が、京から遠く離れた備中高松城攻めの秀吉には、信長の死など知るすべもなかった。秀吉の陣では、夜が明けて秀吉が呑気にも大きなあくびをしています。

隠密のみつが急報を持って長浜城へ急ぎます。田畑を捨てて商人になる農民がいて、田畑を耕す者がいなければ国は成り立たないと、ねねは厳しく詮議し穏便に取り計らえと家臣に命じていました。そこにみつが大汗をかきかき「お方さまに急ぎお耳に入れたいことが」と到着しました。みつの尋常ではない様子を察したねねは、家臣たちを下がらせてみつを呼びます。

光秀の謀反で信長が最期を遂げたとねねに報告します。使いで京に立ち寄ったみつが見たところ、京は蜂の巣をつついたような騒ぎで、光秀軍による落武者狩りも行われています。ねねは衝撃的過ぎて気を失いそうになります。秀吉の身を案じるねねですが、天下を狙う光秀にとっては秀吉も敵であり、安土に向かった明智勢がいつ長浜に来るとも分からないと、ねねもこほも早く長浜を立ち退くように勧めます。

急いで一家が集められます。どうすればいいのかと混乱するともたちですが、こほは女と子どもだけの方が逆に目立たないと、農民の姿にやつして長浜城を落ちて大吉寺に向かうことを勧めます。なかは中村に帰れば田も畑もあると呑気なことを言っています。ねねは物に心を残さないように号令しますが、あさひは手鏡が惜しいと持っていこうとしてなかにたしなめられます。

 

みつと進之介を先頭に、ねねたちが一斉に落ちのびます。うわさを聞きつけたか長浜城下では町人たちがすでに大混乱に陥っていました。その混乱に乗って一行はすばやく城下を抜け、ひたすら歩き続けます。山道を永遠と登り続け、あさひは足が痛いと愚痴を言いますが、もう少しで大吉寺に着くとねねは励まします。

すると目の前に盗賊が現れます。持っているものを置いていけと言うと、みつと進之介が一行をかばっています。わけのありそうな者たちだと、盗賊はねねたちが長浜の城の者かと疑います。ねねは懐に入れた銭を放り投げますが、浅井の残党である盗賊たちは長政の恨みを晴らそうと襲い掛かります。背中に刀を隠していたみつは盗賊たちを刺し、そのすきに逃げるように叫びます。

来た道を急いで戻る一行ですが、盗賊たちはしつこく追ってきます。みつと進之介が応戦しますがなかなか倒せません。なかが盗賊に襲われて窮地に陥っているのを見て、ねねは覚悟を決めて刀を手にし、盗賊に体当たりします。虫の息だった盗賊が落命し、ねねは右手に持つ刀を見て、人を殺してしまったとガタガタ震えています。この襲撃で一行は散り散りになり、半分ほどの人数になっていました。

夕刻、ようやく大吉寺に入った一行を、寺の坊主たちが迎え入れます。寺にはすでにややとこいがねねの到着を今や遅しと待っていました。ねねは住職の姿を見ると、自らの手で盗賊を殺したと打ち明けます。あの男にも妻や子がいたであろうにと思いやるねねを、住職はただ黙って話を聞いてあげています。ねねはつくづく戦はいやだと泣き崩れます。

放心状態のねねに、こいはしっかりするように叱咤します。ともはこれだけの人数が路頭に迷うとはとお先真っ暗です。家次には5人の子があり、ねねの従姉にあたるはるは一番下の乳飲み子を抱いて落ち延びてきました。長浜が明智側に取られたら、秀吉たちが助けに来てくれない限りはどうしようもないと不安に感じるあさひです。

 

高松城に講和に持ち込もうと秀吉は悪戦苦闘していました。6月3日夜、嘉助と森 弥五六が怪しいものを捕らえて秀吉の前に連れ出していました。恐らく陣を間違えたものと見え、衣服を改めたところ小早川隆景宛ての密書を携えていました。それを手にした秀吉は一読すると、「誅信長」の文字に顔色を失います。秀吉は男の首を刎ねよと命じ、普段の秀吉には考えられない言動に家臣たちは動揺します。

「上様が……光秀にの……謀反じゃ」 浅野長政は何かの間違いではとつぶやきますが、信じたくないのは秀吉も同じです。家次は長浜城のことを心配しますが、備中にいては長浜のことは遠すぎると、秀吉はまず京に取って返し光秀を討つことにします。そのためには一刻も早く高松城を離れなければならず、信長の死を毛利方に悟られない上である程度の譲歩をして和議を急がせます。

4日、秀吉は毛利方の外交僧・安国寺恵瓊を招きます。和議の条件から備後・出雲を放棄し、備中・美作・但馬三国の割譲と、城主清水宗治の切腹のみとします。宗治を助けたくて援軍として嫡陣している毛利には呑めない条件ですが、いずれ信長や光秀が加勢に加わるとそれどころの話ではなくなると黒田官兵衛が諭します。「毛利と戦はしとうない。一肌脱いでくださらぬか」

恵瓊の説得で清水宗治は城兵の助命と引き換えに切腹して果てた。毛利との講和は成立し、その日のうちに秀吉の姿は備中から消えた。秀吉と3万の大軍はひたすら山陽道を東へ走る。「中国の大返し」と後世までの語り草となる強行軍である。そしてこの時を境に秀吉の新しい時代が始まったのである。

 

もちろん光秀謀反の知らせは諸国にも届いていた。折り紙を折るおたまの元に、備中へ出陣したはずの夫の細川忠興が戻って来ました。おたまの父(忠興の義父)の光秀が信長に謀反したことを告げ、細川家としての去就を決めなければならないのです。光秀のやり方には賛同できないが、舅と婿の関係もあって忠興は大いに悩みます。

おたまは、どんな事情であれ主君を手にかけた父の行動は許されるはずもなく、父の武運はこれまでとつぶやきます。細川家として光秀と運命をともにすることを避けるため、おたまは忠興に離別を申し出ます。終生をともに歩むと決めていた忠興は離別は認めませんが、義父を裏切ることになっても許してくれるかと問いかけます。「それは……父の運命にございます」

忠興は父・細川藤孝とともに髪を下ろして謹慎することにします。そしておたまには丹後の味土野(みとの)へ行ってほしいと伝えます。忠興は、たとえおたまが逆心の娘の汚名を着たとしても、忠興の妻として守り抜きたいわけです。忠興がおたまを幽閉したということにすれば、他への面目も立ちます。光秀を父に持ったばかりに、おたまは戦乱の世の犠牲者のひとりとして悲劇の道を歩むことになります。

浅野又右衛門が大吉寺に落ち延びてきました。長浜城も敵の手に落ちたようです。なかは、そもそも秀吉も敵の領地を取り上げたのだから奪い取られただけだし、城に残した物も昔は何もなかったのだからと全く気にする様子はありません。ややは何もかも奪われて光秀が討たれればいいと暴言を吐きますが、又右衛門は、秀吉が手をこまねいているわけもなく、自分たちは今ここで時を待つしかないと諭します。

そのころ摂津尼崎に布陣した秀吉は、信長の三男・信孝、丹羽長秀らと合流。着々と光秀討伐の準備を進めていた。ねねは紫陽花の花を見つめています。又右衛門はねねを気遣いますが、ねねにはいろいろなことがありすぎて、秀吉や家臣たちともう会えないのかと考えると心配で仕方がないのです。


天正10(1582)年6月2日、明智光秀が本能寺で織田信長を、二条御所で織田信忠を討つ。本能寺の変。

慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、

あと20年8ヶ月──。

 

作:橋田 壽賀子
音楽:坂田 晃一
語り:山田 誠浩 アナウンサー
──────────
[出演]
佐久間 良子 (ねね)
中村 雅俊 (羽柴秀長)
尾藤 イサオ (浅野長政)
せんだ みつお (嘉助)
浅芽 陽子 (やや)
──────────
藤岡 弘 (織田信長)
石濱 朗 (明智光秀)
岡 まゆみ (おたま)
──────────
赤木 春恵 (なか)
長山 藍子 (とも)
泉 ピン子 (あさひ)
前田 吟 (蜂須賀小六)
西田 敏行 (羽柴秀吉)
──────────
制作:伊神 幹
演出:宮沢 俊樹

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『おんな太閤記』
第22回「長浜の別れ」

|

« 大河ドラマどうする家康・(21)長篠を救え! ~走れ強右衛門! 武田包囲の城に織田・徳川分裂~ | トップページ | プレイバック徳川家康・(25)伊賀越え »

NHK大河1981・おんな太閤記」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 大河ドラマどうする家康・(21)長篠を救え! ~走れ強右衛門! 武田包囲の城に織田・徳川分裂~ | トップページ | プレイバック徳川家康・(25)伊賀越え »