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2023年6月 2日 (金)

プレイバック徳川家康・(24)本能寺の変

信長の招きで、安土を訪れた家康に対して、信長が直接家康のために宴を催したのは、天正10(1582)年5月18日、総見寺の能見物からであった。

能舞台では能役者がお囃子に合わせて演じていて、見所(客席)正面にいる徳川家の家臣たちも、それぞれがワクワクした面持ちで能楽を楽しんでいます。見所の奥では織田信長と徳川家康が並んで座し、信長は「いつか二人で泰平の世を楽しむ日があると思っていたが」と目を細め、家康もまた、これまでのさまざまな出来事が去来していきます。

翌19日、信長は家康一行を自身で安土城に案内した。山頂にそびえた七層の城、後に“幻の名城”と言われた安土城である。城の豪華さで肝を奪われた徳川の家臣たちに、信長は手ずから帷子を2枚ずつ配った。1枚は国の女房どもへの土産という心憎いまでの気の配り方であった。

信長を先頭に家康と家臣団が連なり、安土城内を一つひとつ見学していきます。城の柱には彫刻が施され、鶴の絵の障子など金をふんだんに使用した絢爛豪華なつくりです。中国創世記の帝王、老子、孔子、七賢人なども描かれ、見る者の度肝を抜きます。気分のいい信長は、安土城上階から安土の街並みを家康一行に見せます。

膳を持て! との信長の号令で、膳が運ばれてきます。膳の中央には鯛が一尾、その周囲のものも含めて漆黒の器で綺麗に飾り付けがなされてとても華やかです。「みな遠慮のうやってくれい!」と信長は機嫌よさそうです。そして料理も、当時前代未聞と言われた高価なもので、家康のための大饗宴は果てしなく続けられた。そして3日目、場所は高雲寺に移された。信長はようやく、くつろいだ二人だけの席を家康のために設けたのである。

のう浜松どの、と信長が親しげに話しかけます。このような日がまたあるかと信長はつぶやきますが、家康は信長の天下平定を目前に、次は京でこのようなご馳走に与(あずか)りたいと言って信長を笑わせます。備中への出陣がなければ信長自ら京から奈良、堺への見物にも同行するつもりでしたが、それができなくなったため、しばしの別れと杯を傾けます。

宴の後、信長は家康をわざわざ玄関まで送って出た。異例のことである。玄関から出ていく家康に信長は「あれから35年経つぞ」と微笑みかけます。「では」「ごめんくだされ」「あれから」とは、二人が最初に会った家康6歳、信長14歳の時のことである。二人が同盟してからすでに21年が経つ。これがこの世で二人が交わした最期の言葉である。家康41歳、信長49歳であった。

 

同じその夜、近江の坂本城では光秀を囲んで重臣たちの会合が続いていた。未だ敵の所領である出雲と石見の二国を賜るという信長の命令は、すでに信長の気持ちは光秀から離れていると悟った重臣たちは、光秀に決断を迫ります。考えつくす光秀は、重臣たちを見据えます。「今や当家は危急存亡の時を迎えた……当方より兵を挙げるにしかずと考えが決まった」

ついに光秀は信長に反旗を翻す決意をしたのである。一方、中国への出陣のため信長が近侍50人ほどを従えて京の本能寺に入ったのは5月29日。すぐにも長子信忠とともに備中に赴きたい信長であったが、都に来るとそれはそう簡単には運ばない。何よりも信長を恐れる公家たちが慇懃(いんぎん)に巨礼を重ねてくるからである。

同じ日、京・大坂の見物を終えた家康一行は、堺に到着した。この町の風紀には大名も町人もない。しかし、このみるからに田舎びて肩を怒らせた家康の一行に、出迎えた豪商たちは落胆を誘われた。大坂から数人の男たちが家康をつけている。それを察知したからこそわざわざ陸路を来るように触れさせておいて、船旅に変えたが、出迎えの列に同じ顔を発見して不愛想な堺到着劇を演じた家康であった。

船から降り立った家康が、それを見守る町人のほうを振り返ると、その中に怪しい人影を何名か確認します。そして花束を持って家康の前に進み出たのは、堺の会合衆のひとり納屋蕉庵(竹之内波太郎)の娘・木の実でした。たやすく家康に近づくなと本多忠勝が木の実をたしなめますが、家康は花を受け取ってさっさと通れと忠勝に命じます。家康に花を直接渡せなかった木の実は、忠勝に舌を出して嘲(あざけ)ります。

堺滞在中の家康の世話役・松井有閑の屋敷に入った家康は、蕉庵と久々の対面を果たします。蕉庵は京から家康の身辺を探る怪しげな者がいることを察知していて、調べさせたところ光秀の家中の者と突き止めます。茶屋四郎次郎は気にかかると不安げな表情を浮かべ、京の様子を探ると言って出ていきます。

堺にいれば日本中の大事な目鼻にあたり、天下の諸侯の動きがよく分かると豪語する木の実は、光秀の一の姫は尼崎の城に嫁いでいて、尼崎の使者がしきりに往来していること、根来宗徒が鉄砲の弾薬を仕入れ筒井順慶が隠れ屋敷から引き上げたことを家康に教えてくれます。つまりどんな小さなことでもこの町では隠せないと言いたいわけですが、家康はその動きについてうーんと考え込みます。

万一、光秀に謀反の心があるならば、手勢を連れずに京に留まっている信長は……。家康の胸は騒いだ。家康は忠勝を呼び、予定を早めて2日には京に帰り信長の出陣を見送ると伝えに行かせます。何事があったのかと忠勝は訝(いぶか)りますが、家康の意向を聞いて瞬時に察します。「無事であればよいが……。わしに忍べたことが光秀に忍べようか」

そして最愛の息子・信康を切腹に追い込んだ信長、だがあの時家康がかろうじて自分を抑え得たのは、信長の心が戦乱の終息という万民の祈りの上に凝縮されていたからである。いま信長を失うことは旭をそのまま落とすに等しい。たちまち群雄が競い立って蜂の巣をつついたような騒乱が国中に広がってゆくに違いない。

一方、信長は続々集まった公家たちを夕刻までに追い返すと、濃姫が設けた久々の親子水入らずの宴を前に、この上なく上機嫌であった。6月1日の宵である。無礼講で酒をふるまうと言う信長は、小姓衆まではとたしなめる濃姫を笑います。昔と違ったと考えながら、濃姫はそうした夫になぜか胸騒ぎを感じていた。

「人の一生、進むも引くも電光石火でなければならぬ」と嫡男信忠と五男源三郎勝長に諭す信長は、濃姫の鼓に合わせて幸若舞『敦盛』を舞います。
人間五十年
 下天の内に くらふれば 夢幻の如くなり
  ひとたび生を受け、滅せぬものの あるべきや

 

そのころ光秀は中国出陣と見せかけて1万の軍勢を京の町に進攻させていた。一方信長は、信忠と源三郎を二条城へ帰した後、深夜まで機嫌よく盃を重ねて酔いしれていたのである。眠っている信長でしたが、突然ムクッと起き上がり大きくため息をつきます。下郎たちが酒の諍(いさか)いを起こしたようで静めてこいと小姓たちに命じますが、遠くで馬のいななきが聞こえてきました。

信長は小姓たちが行くのを止め、あまたの兵が寺に侵入しつつあると、何者のしわざか森 蘭丸に物見するように命じます。壁の上から、水色に桔梗の紋の旗印が目に入ります。「光秀めが……惟任光秀が謀反! かくなる上は是非もなし、目にもの見せて腹斬ろうぞ!」 外では明智軍が門を破ろうと破城槌をぶつけている中、信長は手にしていた弓矢で軍勢に向かって放ち始めます。

さすが、信長が選りすぐって連れて来た小姓たちである。誰もこのような事態を予想した者はなかったはずなのに、一瞬にして最善と思える防備の体制を取っていた。小姓たちは信長の周囲を取り囲み、鉄砲や矢からの襲撃の盾となります。信長の手勢は足軽・小者までを含めてせいぜい300、これに対し明智方は1万の大軍を3隊に分け、このうち3,700を明智左馬介が率いて本能寺を押し進めていた。

信長は弓矢で応戦し、小姓たちは次々と明智勢に斬りかかりますが、多勢に無勢、光秀軍にじりじりと押され始めます。濃姫が弓の束から信長に手渡し、信長が次々と射ていく連係プレーで攻撃を防ぎますが、そのうち信長の弓の弦が切れてしまいます。槍を持ってきた濃姫に、寺から落ちるように命じる信長ですが、濃姫が聞かないと分かると槍を持って敵陣に突入していきます。

今や小姓たちは、信長の自害の時を稼ぐことしか考えていなかった。蘭丸は信長に奥へ行くよう勧め、明智の兵に立ち向かいますが、ついに斬られて絶命します。濃姫はなぎなたを手に明智勢に向かいます。この間に信長は充分奥に入れる。そうしてくれることを濃姫は祈った。安田作兵衛は濃姫と対峙し、濃姫は斬られてしまいますが、最期の力で作兵衛を斬り倒します。

奥に入った信長は燭台を倒して火をかけ、その中で切腹して果てます。「生きたい……もうしばらく生きたかったぞお濃! もう二年だけ……そうしたら必ず日本を平定してみせてやる! いや二年が無理ならば一年、一年が無理ならばひと月でよい……ひと月あれば、俺は中国を平定できる男なのだ! ひと月が無理ならばあと10日、5日、3日……」

 

虫の知らせというのであろうか。その時家康の六感は確かに信長の最期の声を聞き取っていた。むくりと起き上がった家康は石川数正と酒井忠次を呼び出し、堺を出発すると伝えます。その時服部半蔵が家康の寝所に駆け込んできます。うろたえて言葉が出ない半蔵ですが、そこに忠勝も京から急ぎ戻って来ました。

明智光秀が謀反! 忠勝とともに堺に走った四郎次郎が報告します。そして信長が最期を遂げたと知り、家康はしまったという表情です。嫡子信忠も二条城で討ち死にし、本能寺や二条城は焼失し生き残った者はほとんどいない状況です。京の入口は明智勢によって全て押さえられ、都の内外は明智勢であふれ返っているそうです。家康が京へ取って返したとしても京には近づけません。

信長の死は、いち早く蕉庵の元にも届いた。吉法師の昔から心血を注いで育ててきた信長の死を、最も悼んだのはこの納屋蕉庵こと竹之内波太郎であったかもしれない。蕉庵は金蔵を呼び出します。

信長の悲運の最期は運命を共にする自分自身も終わりを迎えたことと悟った家康は、堺から京に入って信長に殉じて切腹すると言い出します。最期に明智勢と切り結べば、後の世に“徳川家康は兵法も知らぬうつけ者”と笑われるだろうし、切腹のためとあらば明智勢も家康一行を京に入れてくれるかもしれません。知行院にはまだ明智勢も達していないだろうという希望的予測もありました。

そして“信長死す”の知らせは、衝撃となって備中高松城攻めの秀吉にも伝わった。床に突っ伏して泣き崩れる羽柴秀吉に黒田官兵衛は同情します。信長はすでに亡く、織田信孝は海路で四国に向かう途中であり、備中攻めは秀吉の手で何とかしなければなりません。信長の死が毛利に知れれば身動きできなくなると、秀吉は喪を隠し通して講和を結び、光秀討伐に向かわねばなりません。

秀吉は軍監の森 秀政に、自分が指揮することに異存はないかと確認を取り、秀政は口ごもりながら承諾します。秀吉は官兵衛に毛利方の軍師である安国寺恵瓊を呼び、城主清水宗治の切腹で城兵5,000の命は助けることを高松城攻めの講和条件とします。講和が成れば城の囲みを解いて姫路へ引き、そこで軍勢を調えて一気に京に攻め上るつもりです。

「信長公は喜んで天下をわしに下さる」そう言いかけた秀吉である。事実、素早く毛利方との講和を成功させるや、秀吉は全軍を引き連れただちに備中を引き払った。手を合わせて信長の冥福を祈る秀吉は、カッと目を見開きます。

 

一方、堺を出発した家康一行は京を目指してひたすら歩き続けた。迂闊に立ち止まると特に乱波(らっぱ)や野伏(のぶせり)に狙われる恐れがある。さらに京に政変が起こったと分かったら、百姓も漁師もすぐさま暴民化していくに違いない。

四郎次郎は蕉庵配下の金蔵を伴って家康一行を追ってきます。京までの要所要所に蕉庵の手の者を配置していて、家康がどの道を通っても案内できる手はずには蕉庵が調えてくれています。ちなみに家康が信長に殉じる気がなければ明智の手の者が追ってきていたはずで、殉じると態度を明らかにしたからこそ、家康一行はここまで無事に進めたのかもしれません。

そこで初めて家康は「切腹はせぬ」と本心を打ち明けます。信長の志は天下の騒乱を一日でも早く終息させることであり、その志を汲めず私情で謀反を働いた光秀では天下は治められないとみた家康は、明智方を油断させてここまで落ち延びてきたのです。地を這ってでも三河に戻り、軍勢を調えて光秀討伐に向かわねばなりません。家康は持参した金をひとり2枚ずつ分配することにします。

用意周到の光秀がどの道にも手下を配置していることを見越し、金蔵はその裏をかいて伊賀を通る道を勧めます。伊賀路は道が険しい代わりに敵の襲撃を受けることもなく、伊賀から信孝領地の神戸(かんべ)へ出れば光秀も容易に手を出せず、伊勢から海路で三河入りを果たせるわけです。一行は松明の明かりを消し、決死の覚悟で伊賀越えに臨みます。

その決断が良かった。道案内の茶屋も金蔵を差し向けた蕉庵も、本国に向かうとした家康の狙いをすでに見破っているとすれば、明智にもこの案を察知した者があると見なければならない。事実、この出発がいま一時遅れていたら、確実に家康一行は夜道にその屍をさらしていたであろう。明智の軍勢が執拗に家康の探索を始めていたのである。だが伊賀越えの道は、家康と彼を守るわずか十数名の家臣らにとって、さらに厳しいものとなってゆくのである。


天正10(1582)年6月2日、明智光秀が本能寺で織田信長を、二条御所で織田信忠を討つ。本能寺の変。

慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、

あと20年8ヶ月──。

 

原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
語り:館野 直光 アナウンサー
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[出演]
滝田 栄 (徳川家康)
役所 広司 (織田信長)
藤 真利子 (濃姫)
中山 仁 (茶屋四郎次郎)
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武田 鉄矢 (羽柴秀吉)
高岡 健二 (本多平八郎)
寺田 農 (明智光秀)
入川 保則 (黒田官兵衛)
加瀬 悦孝 (竹千代)
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江原 真二郎 (石川数正)
紺野 美沙子 (木の実)
石坂 浩二 (納屋蕉庵)
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制作:澁谷 康生
演出:兼歳 正英

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『徳川家康』
第25回「伊賀越え」

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