プレイバックおんな太閤記・(27)東西和睦
天正12(1584)年 冬・浜松城──。織田信雄が羽柴秀吉と和睦したと知って徳川家康は唖然とします。家老の本多正信も、信雄という人物は織田信長と違って苦労を知らず、家康が秀吉を討って信雄自身を天下人にしてくれるとでも思ったのでしょう。当てが外れて家康に見切りをつけたようです。家康は、いま秀吉と戦を構えるのはいたずらに兵を失うだけだと、大義名分もなくなったため小牧から撤退することにします。
秀吉と和議を結ぶにあたり、秀吉は家康次男の於義伊を養子にもらい受けたいと言い出し、家康は人質にはやらぬと話を蹴ります。正信は人質ではなく養子だと念を押し、秀吉と婚姻関係を結べば信長の時と同様に盟友となるのは損ではないと進言します。このあたりで折れなければ、秀吉としても引っ込みがつかなくなり、家康を叩き潰しにくるはずというのです。「於義伊をやるか……筑前に」
織田信雄が秀吉と和睦したことで、盟友信長の遺児を助けると言う大義名分を失った家康は、あっさりと兵を収め、半年にわたった「小牧・長久手の戦い」が終結した。秀吉は家康の次男・於義伊を養子とすることでいちおう面目を保ち、家康はこの合戦で秀吉と対等の地位にあることを天下に示したのである。
この合戦の最中に大坂城本丸の普請が完成し、羽柴一族は新しい城に入っていたが、合戦が終わると同時にねねの知らない人たちも続々と城へ入って来た。京極家より龍子も輿に乗って入城し、大坂城の侍女たちも「これで何人目かのう?」とヒソヒソ話していますが、こほはそれを見咎めます。ただこほ自身も、侍女たちの疑問と不安は感じているようで、奥の様子を気にしています。
ご機嫌な秀吉は、ねねとなかを城内に案内します。庭を指さして「池を作ろうと思う」と笑い、対面の場は金張りで秀吉は誇らしげです。なかは、こんな栄華をしていては罰が当たると呆れますが、それよりも秀吉がなかたちに見せてくれなかった部屋には誰がいたのか尋ねます。秀吉はそれには答えず、ねねに会わせておきたい者がいると、京極龍子、とら、えん、ゆう、つるの5人の側室たちと対面させます。
対面が終わり、打掛を脱いで綺麗にたたむねねは無言です。「怒っておるのか?」 秀吉としては好きで側室にしたわけではないと弁解しますが、天下を獲ろうという秀吉がたくさん側室を置いたとしても不思議ではないとねねは開き直り、おかかとしての役割が果たせなくなったとつぶやきます。秀吉はねねのご機嫌を取ろうとしますが、ねねは冷めた表情で茶を点(た)てます。
秀吉はねねの背中に向けて、人質に取り側室に迎えた経緯を一人ひとり説明しますが、立ち上がってウロウロする秀吉に、ねねは畳をパンパン叩いて着座を促し、もうよろしゅうございます、とつぶやきます。男の勝手な思惑で側室に入ったのだから、せめて慈しんでやれとねねは穏やかに話します。「これからもますます増えるのでございましょうなァ。もう怒る気も致しませぬわ」
なかの居室にともとあさひが訪れていると聞いて、ねねは居室に駆け付けます。なかは、秀吉が偉くなったばかりに勝手なことが出来ないと愚痴を言って笑います。ねねは挨拶だけ済ませると、病に伏せる秀勝のお世話に向かうことにします。ともは秀勝が病弱なら、秀次に羽柴家の柱になってもらうしかないと言いますが、ねねも秀次は秀吉も大事に思っていることを伝え、秀勝の部屋へ向かいます。
その途中、侍女を引き連れて茶々が歩く姿を見たねねは、茶々も秀勝の見舞いに向かっていることを知って一緒に行こうと誘いますが、茶々はたまらず来た道を引き返していきます。茶々の胸には、誰も知られてはならない思いが秘められていた。見知らぬ人々の中で孤独な茶々は、ただ一人同じ信長の血を引くいとこ同士の秀勝に心を許し、頼りにしていた。それがいつか秀勝への愛に変わっていたのである。
みつは願い事があるとねねの居室に赴きます。光秀の娘・たまは、未だ丹後の山中の草庵に幽閉されたままで、秀吉に取りなしを依頼します。みつはたまの侍女・清原マリアと幼いころに神の教えを授かった仲で、みつがキリシタンだと知ったねねは、いつかキリシタンのことを教えてほしいと告げ、涙を浮かべます。「物わかりの良いことを言っていても、心の中はいつも阿修羅じゃ。おぞましいものよの」
丹後味土野(みどの)のたまの庵には、雪が積もりつつあります。一度雪が積もれば春先までここでの暮らしが決まったようなものです。たまは細川忠興のもとに残してきた子どもたちのことを案じていますが、そこに馬のいななきが聞こえてきて、たまとマリアは身構えます。光秀を討った秀吉がたまを生かしておくはずもないと、たまは懐刀を取り出しますが、マリアは自害だけはならないと止めます。
やって来たのは忠興でした。ねねのとりなしで秀吉が忠興に、たまを早く連れ戻してやれと言ってくれたようで、忠興は急ぎ駆けつけたのでした。身構えていたたまは、忠興の姿に懐刀を落とし、安心したのか膝から崩れ落ちます。忠興はたまを抱きしめ、たまを大事に思うがゆえの仕儀だったと謝罪します。夫婦の姿を見たマリアは、天を仰ぎ見て手を組み祈りを捧げます。
秀吉の寝室には新しくベッドが作られていました。秀吉のたまへの計らいに感謝するねねに、秀吉は東西和睦のために徳川家康の子・於義伊を養子として迎えることになったと打ち明けます。ねねはベッドに腰かけようとしますが、ふかふかの布団に滑って尻もちをついてしまいます。ねねはイテテと腰を押さえながら出ていき、それを笑いながら秀吉はベッドに横になります。
天正12(1584)年12月、家康の次男・於義伊はいよいよ秀吉の元に送られることになった。於義伊は家康の次男ですが、長男信康はすでに亡く、本来であれば徳川家の家督を相続する人物です。しかし秀吉に求められ養子として大坂へ向かう於義伊に、家康は「たとえ筑前どのが事を構えようとも、そなたわしを父と思うな。わしもそなたを子とは思わぬ」と覚悟を求め、涙を流します。
翌 天正13(1585)年正月、家康との不安もなくなった秀吉はねねを連れて有馬温泉へ。ねぎらいの湯治です。若いころ、汗とほこりにまみれた秀吉が帰ってきて、ねねによく背中を流してもらっていた思い出がよみがえります。家康も味方してくれることになり、ひとまず戦のない世を果たせて秀吉もねねも満足そうですが、秀吉はまだ何か考えているようです。「もうひとふんばりじゃの……どうするかのう」
子どものいない秀吉とねねには秀勝に秀家、豪は今や我が子同然ですが、秀吉は「おかかの身内からも一人もらわねばの」と、重臣木下家定の子・辰之助を養子とします。まだ4歳だとねねは難色を示しますが、秀吉に言いくるめられます。秀勝に嫁をもらって跡継ぎを産んでもらわねばと秀吉は将来を見据えますが、ねねは茶々にも結婚相手を促します。しかし秀吉はたちまち表情を曇らせてあいまいな返事です。
そのころ大坂城では茶々が秀勝と城の庭で密会していました。茶々は秀勝に毛利輝元の娘との結婚話があると聞いて不安げな表情を浮かべます。囚われ同然の茶々が耐えて暮らせるのは秀勝がいるからなのです。その思いを汲んだ秀勝は茶々を妻にしたいと秀吉に伝えると約束しますが、秀吉が価値のない自分を跡継ぎの妻に認めてくれるわけもないと首を横に振ります。
であれば秀勝も毛利の娘も誰も娶らないと言い出します。茶々もただ秀勝の側にいられるだけで幸せと、自分も誰にも嫁がないと思いを打ち明けます。秀勝は茶々のいじらしさが愛おしくなり、誰が見ているともしらない城の庭で、茶々をグッと引き寄せ抱きしめます。
夕暮れ、有馬でまた湯につかっている秀吉は、そうだ! と湯を飛び出し「わしは征夷大将軍になる。なってみせる! なってもおかしゅうはない」と突然言い出します。征夷大将軍は武家の棟梁で、朝廷の代わりに反抗する者を討ち全国を平定する役目です。そんな大それたことをとねねは呆れますが、自分しかやる人間がいないと秀吉は突き進むようです。
どこまで行ったら秀吉どのは満足なさるのだろうか。ねねは呆れ空恐ろしい思いで二の句が継げなかった。秀吉が急に見知らぬ人のように思えた。が、秀吉が一途に望んだ征夷大将軍は、さすがの秀吉にも手の届かぬ遠いものであった。
天正12(1584)年10月、羽柴秀吉が朝廷から将軍任官を勧められるも、これを断る。
慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、
あと18年4ヶ月──。
作:橋田 壽賀子
音楽:坂田 晃一
語り:山田 誠浩 アナウンサー
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[出演]
佐久間 良子 (ねね)
長山 藍子 (とも)
泉 ピン子 (あさひ)
東 てる美 (みつ)
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フランキー 堺 (徳川家康)
松原 智恵子 (龍子)
神山 繁 (本多正信)
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赤木 春恵 (なか)
岡 まゆみ (おたま)
池上 季実子 (茶々)
西田 敏行 (羽柴秀吉)
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制作:伊神 幹
演出:北嶋 隆
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『おんな太閤記』
第28回「関白の妻」
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