プレイバック徳川家康・(28)数正出奔
秀吉が申し越してきた於義丸養子の一件は、徳川家家臣団の激しい紛糾を呼び起こしている。天正12(1584)年10月、浜松城に集結した家臣たちは、於義丸養子の件を断らなかった石川数正への非難、徳川家康が養子の話を受け入れるのか、受け入れたとしたら家臣団としては反対すべきか従うべきかなど、いろいろ話が持ち上がります。
羽柴秀吉の使者に応対した本多正信は、その紛糾の場面を通りかかりで見て複雑な表情です。正信は三河一向一揆の際に敵対して他国へ逃れたものの、帰参を許されて家康の側近に返り咲いていました。正信は、使者には城内の不穏な雰囲気が伝わってすぐに返事を聞きたいと言っているそうで、ひとまず時間稼ぎに膳を勧めています。
即答することもあるまいと家康はつぶやきますが、数正は秀吉の気性を考えると即刻承諾をして於義丸を養子に出し、翌年の正月は大坂城で迎えさせた方がいいと進言します。早めに送り込むことで家臣たちに諦めの気持ちを持たせ徳川が団結するようにするのです。秀吉は次の手として家康を大坂に呼び頭を下げさせると思われますが、今回の返事が遅くなれば次の使者の主張がもっと強くなる可能性が高いです。
家康は数正の言を聞き入れ、名代として数正を大坂城へ送ることにします。そして於義丸の小姓として本多作左衛門の子・仙千代と、数正の子・勝千代に命じます。反対派の作左衛門はわざとらしく、批判するような言葉で数正を蔑みます。数正には家康の決断も、反対と見せかけながら家中の不正の関になろうとする作左の心も苦しく、またありがたいものに響いていた。
家康の名代として於義丸を大坂へ送り届けた数正は、天正13(1585)年の春を大坂城で迎えた。この年、秀吉は正二位内大臣に任ぜられ、今や天下に君臨する存在となった。半年前の秀吉とは別人のような威厳も備わり、数正の目にも家康とは異質の大きさと魅力が、秀吉の身辺に朝日のように輝き出していた。
内大臣に加え、征夷大将軍にもなったら日本の大将軍というわけで、秀吉が家康を大坂へ呼ぶ方法を数正と考えます。妙案がないと恐縮する数正に、秀吉は家康と義兄弟になる策を提案します。秀吉の妹・朝日を、瀬名亡き後 正室のいない家康に嫁がせるのです。朝日は佐治日向守の妻ですが、別れさせれば済むと秀吉は笑います。「嫌と言わせるなよ。嫌と言えばやむなくもうひと戦じゃ。それ以上の譲歩はできぬ」
家康に勝ち目があるなら断ってもいいと、秀吉は挑むような眼で数正を見据えます。秀吉は日本国を平定して満足する男ではなく、もし家康が戦に挑めば負けると断言します。自分と手を組んでこそ徳川家が栄えるし、秀吉の器量も上がるわけです。そういうつもりで働けと諭す秀吉は、来たる紀州攻めには於義丸を初陣させる予定なので、その戦奉行としてまた来いと命じます。
秀吉の話をそのまま伝えたら、家康はいったい何というであろうか。大坂から戻った数正は家康に伝えてみます。正二位内大臣に就任し、盆までには征夷大将軍に任官するであろう秀吉は、家康の処遇にほとほと困り果て、佐治に嫁いでいる当年43となる妹を嫁がせて義兄弟にしてまでも家康を大坂へ呼びたい考えであることを伝えます。
この縁組は秀吉の恥になっても家康の恥にはならず、ここは目をつぶって受けるように進言します。家康には、秀吉より6歳若いという天地の味方がついていて、秀吉という柿はいずれ落ちるものだと数正は諭します。家康の表情はみるみる赤くなり、食いたくもない食い扶持を食わされてゲエゲエ吐くように「不快じゃ!」と言って出ていきます。
そのころ、朝日姫の夫・佐治日向守が秀吉に呼び出されていた。秀吉のためなら命を投げうって務めに励む日向守ですが、朝日を家康にくれてやらねばならぬために、自分の元に帰してほしいと引きつり笑う秀吉です。信じられないといった表情で日向守は固まります。実直だけが取り柄の男である。だが連れ添って二十数年、子がないままにこの朝日とは心から睦み合った夫であった。
朝日姫は餅を焼いていて、大事な話があるという夫にも餅が焼けてからと笑います。日向守は待っている間に離縁状をしたためます。餅が焼け、熱いうちのほうがいいと侍女に日向守を呼びに行かせると、奥から悲鳴が聞こえます。朝日姫が見たものは、日向守の自害して果てた姿でした。事情が分からず泣き叫ぶ朝日姫、そして文机には離縁状が置かれたままになっています。仲睦まじかった二人の上に、突然訪れた別れであった。
「こなたは人情を知りませぬ。出世ばかりが人間の望みではありますまい!」 母のなかは秀吉に激怒します。分かった分かったと秀吉は耳をふさぎたい思いですが、ねねは朝日が自害する可能性と危惧します。なかは、朝日姫を死なせはしないとその居室に急ぎます。家康の力を借りて天下を治めたいゆえの策だと、ねねからなかと朝日姫に説明してほしいと秀吉に懇願され、仕方ないという顔で微笑みます。
浜松では、作左衛門が秀吉の内応者とされた数正と人目を避けて会っていた。家康が朝日姫をもらっておけば、秀吉が死んだ後には天下は家康のものになるという考えの数正に、実力がある秀吉だからこそ、迂闊に提携を急いではならないと作左衛門は主張します。虎にひれ伏す猫は、虎がいなくなれば猫同士が争うわけで、家康が虎にひれ伏さなければ、家康は龍であったと思い知らせることができると同時に、猫同士の争いも防ぐことができるのです。
「要するに、わしの交渉はまだ手ぬるいとか」 作左衛門が言うには、戦にしてはならないが、もう少し強気で秀吉に当たって、天下の諸侯に家康だけはみなとは違うという印象を与えておけというわけです。これまで人質を養子に変えさせ、両家は義兄弟と、数正はずいぶん骨折ってきましたが、今や秀吉を説く力も、家康や作左衛門を同意させる力もないと、このあたりで手を引くつもりでいます。
作左衛門は、家康に嫁がされた朝日姫を人質として預かって大坂へは行かない意思表示にし、家康には秀吉が条件を引っ込めたため角が立つといけないと朝日姫の件を呑んだということにする作戦を思いつきます。もし失敗すれば、この計画は作左衛門と数正しか知らないことであり、ふたりが罪をかぶれば済む話です。
この縁談について家康が承諾したと数正から手紙が届きました。家康はやはりうつけではなかったとし、自分の心が家康に通じたことで秀吉は感動しています。秀吉からの密使が、朝日姫婚儀の準備が完了したと数正に知らせてきたのは、秀吉が10万の大軍を率いて紀州征伐に出ると同時であった。
2つ承諾をもらいたいと家康の居室に現れた数正を、家康はギロリと睨みます。紀州征伐にあたっての於義丸の初陣の件と、朝日姫の件です。朝日姫の件は作左衛門からもいろいろと話があったようですが、まだ早いから捨て置くように命じます。紀州征伐と四国が片付くまでは秀吉が家康を攻める余力はなく、それまで秀吉を焦らせていく家康の作戦なのです。家康は数正の言には耳を傾けません。
結局、数正は困った立場のまま於義丸の初陣に付き添うべく浜松を発った。紀州征伐を進める秀吉は、雑賀に悠然と陣を張っていた。神妙な面持ちで数正が現れます。秀吉は自分を困らせるほど得と見ている家康に、数正が縁談を勧めても無駄だから話さないように命じます。「その代わり四国を平らげ終わった時には、徳川家この世から消え失せるものと思え」
しかし数正にはこれまでのことがあるから秀吉が拾ってやると、戦になったら逃げてこいと誘います。数正は、秀吉と家康が争わないように骨を折ってきたと言うのですが、それを家康は我が身に対する盾と受け取ったのです。数正は食い下がり、天下の統一は民衆の願いであり、秀吉に堪忍を求めます。秀吉は朝日姫のことで困り果てている数正を楽にしてやろうと思っただけで、心配しないように伝えます。
この年の7月11日、はじめ征夷大将軍を望んでいた秀吉に、朝廷から関白宣下があった。関白秀吉の誕生である。秀吉にとって生涯もっとも充実した日であった。
その同じ時に家康の上には、生涯でただ一度の大病が訪れていたのである。熱にうなされる家康を前に、作左衛門は荒療治を思い切ってやってみることを提案します。正信は、もし家康の身に何かがあっても、於義丸は紀州にあり三男長松は若年だと抵抗しますが、作左衛門は強行することにします。医師を待つまでの間、家康は自身の慢心から数正を苦しめたことを詫びます。
荒療治とは灸である。春からの悪質な腫物が、ついに家康の胸に大きく巣を作った。医師は灸で腫物の皮膚を焼き切り、そこから化膿した膿(うみ)の出口を作ろうというのである。焼き切るとき家康は苦しそうに叫び声をあげ、作左衛門は苦しむ家康を見ていられないと目を背けます。
伸るか反るかの荒療治が始まって、すでに4時間が経っている。「長松丸さまをお呼びせんでよいであろうか」 燭台に油を注ぎながら、正信がつぶやきます。医師は、家康は心地よく眠っているようで、脈も整い熱も峠を越したようだと診断します。お屋形様は運強うわたらせられるようで、と医師は家康の寝顔を見て苦笑いします。
荒療治が功を奏して、ようやく家康は最悪の状態を脱した。のどが渇いたと家康が訴えると、看病し続けるお愛は水を口移しします。ゆっくり目を開く家康は、天井を見つめたまま決意を固めます。「わしは正室を迎える」 その決意に、ホッとした表情を浮かべるお愛です。
家康の意向は、石川数正によってただちに大坂城へもたらされた。北政所(ねね)は居室に朝日姫を誘います。日向守は天下のために意地を貫いたと、その死を無駄にしないことこそがおんなの道だと朝日姫を諭します。生き恥をさらしたくない朝日姫でしたが、この婚儀で多くの者の命が救われると悟り、諦めがついたとつぶやきます。
朝日姫の決心が固まり、秀吉も安堵します。秀吉は日本中を平定するまで諸大名から人質を預かって協力することにしていて、家康からも例に漏れず人質を差し出させることにします。それができれば朝日姫の身の上にいっそう間違いがないはずです。このことは家康に新たな難題として通告されるのである。
家臣たちはみな反対の立場ですが、数正のみが人質を送れという立場です。家康と秀吉が争えばどちらが勝っても天下はまた大騒乱に陥るし、十中八九徳川が負けると言い出します。猛反発する家臣たちですが、家康も士気に関わることは口にするなとたしなめます。
浜松城の城門前で、作左衛門は数正を待っています。馬上の人となって下城してきた数正を呼び止め、寄って行けと誘いますが、数正は今日はやめておこうと返します。「ではこれっきりかの」「そのようじゃの」 ふたりの寂しそうな表情が夕陽に照らされています。虚々実々の駆け引きは、敵に対してより味方に対して、より多く必要だったのである。今度の人質はこれを拒むとひと騒動が避けられない。
殿、おさらば──。城を仰ぎ見た数正は、後ろ髪引かれる思いを断ち切って、前を向いて進んでいきます。岡崎の自邸に戻った数正は、妻の加津に今宵出奔することを伝えます。今回の秀吉の難題は反対者が多く対策が立てられないというのです。出奔がその対策代わりになることを期待して、笑みを浮かべます。「わしもいよいよ、殿に惚れたものじゃ」
数正出奔の知らせは、直ちに浜松城へ飛んだ。家康は、とうとう……と神妙な面持ちです。敵も味方も驚く出奔劇です。秀吉も要求した人質が出奔した数正だとは思いもしないはずです。しかしそれをやってのけた数正の胸中を思うと、家康は涙を流します。作左衛門は、秀吉が徳川の機密を数正から聞き出さないとも限らないと、小田原の北条氏と手を握って朝日姫を嫁に迎えるよう進言します。
家康は作左衛門の用意周到さに、事前に数正と相談したことを疑いますが、作左衛門は顔を真っ赤にして否定します。もし相談されれば他に道はないものかと模索したと訴え、家康も短く「分かった」とつぶやきます。家康は作左衛門に機密事項の漏洩防止のために陣替えを急がせます。数正の出奔は徳川家に、また新たなる局面を展開させていったのである。
天正13(1585)年11月13日、石川数正が徳川家康の下から羽柴秀吉の下へ出奔する。
慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、
あと17年2ヶ月──。
原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
語り:館野 直光 アナウンサー
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[出演]
滝田 栄 (徳川家康)
竹下 景子 (お愛)
江原 真二郎 (石川数正)
内藤 武敏 (本多正信)
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鈴木 光枝 (大政所)
吉行 和子 (北政所(ねね))
岩本 多代 (朝日姫)
入川 保則 (黒田官兵衛)
高岡 健二 (本多平八郎)
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長門 裕之 (本多作左衛門)
武田 鉄矢 (羽柴秀吉)
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制作:澁谷 康生
演出:国広 和孝
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『徳川家康』
第29回「三河の意地」
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