プレイバックおんな太閤記・(38)まんかかさま
天正18(1590)年1月14日、秀吉の妹・あさひは聚楽第でひっそりとその生涯を閉じた。あさひの死は、北条攻めを前に家康の力を頼まんとする秀吉には、大きな痛手であった。折も折、あさひの死の前日正月13日、家康の三男・長丸が人質として上洛。聚楽第において元服、秀忠と名乗った。
なかは、あさひの死は豊臣秀吉のせいだと心を痛めます。ふと副田甚兵衛の名を口にするなかに、あさひの遺言として言わないつもりだったねねは、あさひは京で何度も甚兵衛に会っていたことを打ち明けます。ただそれが、雪の日に賀茂の河原に行って風邪を引きあだになりました。自らの責任というこほをかばい、ねねはなかに詫びますが、知らなかったなかはねねとこほによくやってくれたと頭を下げます。
胸のつかえが下りた思いのなかは、こほにはこのまま残ってほしいと涙を流します。こほは長浜に移った時から苦難を共にしてきた同志であり、ねねもこほを引き止めますが、長浜城主から関白へ上り詰めた秀吉とともにすごして、さまざまなものを目にするたびに奉公するのが辛くなり、あさひが亡くなったのを機に身を引く時だとこほの決意は固いです。ねねはこほの気持ちを察し、送り出すことにします。
あさひが没しこほが去って、なかとねねの周りは寂しくなった。鶴松という世継ぎに恵まれ、豊臣家の繁栄は頂点に達した感があったにもかかわらず、ねねの心にはいつも妙な不安とともに冷たい風が吹き抜けていた。そんなねねの予感がひとつの現実になる日が来た。
北条は徳川家康を頼りにしていたものの、家康は秀吉に味方することになり、小田原に籠城するようです。豊臣秀長は、北条の籠城策は上杉武田と戦った際にも功を奏していて、背後には手を組む伊達も控えているため、伊達を懐柔するほうが先決と意見しますが、石田三成は伊達は会津の蘆名義広と戦っていて北条を助ける力はなく、小田原を一気に叩き潰せばいいと進言します。
伊達とは話し合いで味方に引き入れたい秀長と、上洛を促しても応じない伊達を一挙に攻める策を曲げない三成とが言い争いになりますが、その最中に秀長は吐血します。
薬師からは安静にして養生するように言われますが、寝ている暇はないと秀長は起き上がろうとし、秀吉らは引き止めます。秀長にはいずれ秀吉の代わりに天下を動かしてもらう可能性もあると、秀吉は強く養生を勧めます。伊達との折衝を口にする秀長に、秀吉はこれまでの秀長との交渉を無駄にはしないと約束します。
秀長の突然の吐血は、またねねの胸に暗い影を落とした。あさひの死の後だけに、いっそう不吉であった。が、秀吉は予定通り3月1日に京を出陣。19日、家康に迎えられ駿府へ入った。家康の領地を通って小田原に向かうことに、秀吉は感無量です。家康を味方に引き入れなければできないことなのです。
家康は数年を過ごしたあさひの居室に秀吉を案内し、居並ぶ調度品に秀吉はあさひの面影を見る思いです。家康もこの部屋を誰にも使わせるつもりはありません。そのことがあさひへの償いだと感じています。衣桁(いこう)にかかる打掛は、長浜城にいたころに秀吉が土産に持ち帰ったもので、あさひは懐かしんでいたそうです。秀吉はさぞ自分を恨んでいようと、打掛に触れながら泣き崩れます。
やがて家康とともに駿府を後にした秀吉は、22万の大軍をもって北条勢の立てこもる諸城を攻め落としながら、4月のはじめ、小田原城を俯瞰する石垣山に陣を敷いた。
なかとねねは、自領で養生する秀長を看病するために足しげく大和・郡山城に通います。幾分か顔色もよくなったように見受けられますが、病床にあっても秀吉と小田原攻めのことを心配している秀長に、なかは良くなるものもよくならないとたしなめます。秀吉はねねに、淀殿を小田原へ送るよう依頼があったらしく、ねねは郡山からの帰りに淀城に立ち寄り、鶴松を預かるつもりです。
大坂城に到着したねねを待っていたのは龍子でした。龍子はねねを差し置いて淀殿を小田原へ向かわせることに納得がいきません。鶴松の母である淀殿を寵愛するのは仕方ないことだとねねは穏やかですが、子を産めない女には用がないという扱いに龍子は不満なのです。物分かりよく受け入れるからこそ秀吉も淀殿も蔑(ないがし)ろにするのだと、その怒りはねねに向けられます。
やがて鶴松を預かり聚楽第に戻ったねねは、鶴松をなかのところへ連れていきます。誰の子かも分からないとなかは目を背けますが、ねねはかまわず鶴松を抱っこしてあやしています。子を産んでいないねねとはいえ、秀次や小吉、豪姫を育ててきたのです。ねねは鶴松の目元が秀吉にそっくりだと笑顔ですが、チラッと鶴松をみたなかは「目より額じゃ」と指さします。
夏だというのに厚着するのは身体に毒で、「なんぼ大事な子か知らんが、今からお蚕ぐるみでは丈夫な子には育たんわ」と、なかは木綿が一番とつぶやきます。それにしてもねねは他人の子ばかり育てて、因果なことだとなかは呆れています。自分の子でなくとも豊臣家の子と思っているねねを、淀殿は鶴松に「まんかかさま」と呼ばせていて、淀殿も自分を立ててくれているとねねは微笑みます。
淀殿が入った小田原の秀吉の館には、ねねから鶴松の様子が報告されています。ねねもなかも鶴松を可愛がり、これで鶴松は押しも押されぬ豊臣家の世継ぎだと秀吉は笑います。そこに千 利休が、伊達政宗が小田原に着陣し秀吉に謁見を申し出ていると報告があります。秀吉は、これまでの秀長との折衝もありながら、追って沙汰するとすぐには面会しません。面会を取り次いだ利休もしぶしぶ引き下がります。
利休の館に入った政宗は、秀長と秀吉の意見は違うことから、最悪成敗されるかもしれないと覚悟を決めますが、利休も三成の言いなりにはなるつもりはありません。政宗は利休の力を頼るよりほかにないわけですが、その利休も秀長の力を頼りにするしかなく、一丸となって物事にあたっていたころを思い出して「昔は良かった」と振り返ります。
床上げした秀長は聚楽第に赴きます。会わぬと言って聞かなかったなかは甲斐甲斐しく鶴松の世話に明け暮れ、伊達も秀長との交渉の下地があればこそ和議が成り、心配事が一つひとつ消えていくのが楽しいです。小田原も二か月にわたる籠城で、和議の話も出てきているようで、さほど時間はかかるまいとの秀長の見立てです。秀吉がなかに宛てて送った文を読ませてもらう秀長は、穏やかそのものです。
小田原城を見下ろしながら小便をする秀吉と家康ですが、秀吉は家康に北条の領地である関八州を与えると突然の命令です。顔色が変わる家康ですが、「これぞ吉兆! 以後、関東の連れ小便と伝えましょうぞ」と言って秀吉を笑わせます。しかし言った家康自身は、声だけは笑っていますが表情に笑顔はありません。
家康の館では、国替えに本多正信が反発します。三河松平の父祖伝来の地である岡崎から離れることに納得がいかない正信たちですが、どこにいても何をしていても関白の命令には変わりないと家康は無表情です。家康としても秀吉の意のままになるのは不本意ですが、背くわけにもいきません。「徳川存続のためにも行かねばならんのじゃ」 泣き崩れる正信たちに、未練だと叱咤します。
徳川移封(いほう)の件は前田利家も知るところとなります。利家は家康が聞き入れるかどうかを危惧しますが、聞き入れなければ関八州のみならず旧領も召し上げるまでと秀吉は笑います。これを皮切りに諸大名の移封は秀吉が思ったようにやるつもりです。そして小田原城から降伏の使者が来たそうです。当主氏直は自ら切腹する代わりに、父氏政と叔父氏照、城兵の助命を乞うてきました。
天正18年7月5日、ついに小田原攻めは終結した。ここに早雲以来約百年にわたって関東に君臨した北条氏は滅亡した。7月13日、秀吉は小田原城に入り、正式に家康の関東転封を公表。家康は父祖伝来の地・三河を捨て、ただちに江戸へ向かった。17日、秀吉は奥羽平定のため小田原を出発。
茶々は鶴松の待つ京の聚楽第に帰って来た。愛する我が子を預けただけあって、淀殿はねねに反抗的な態度はとらず丁寧に礼を述べます。鶴松は発熱もせず、ねねやなかに懐いて機嫌よく過ごしたそうです。なかが抱っこしていた鶴松を乳母が引き取りに来ますが、その際に風車を落として行ってしまいます。なかはそれを手に追いかけようとしますが、孫への未練を断ち切って追うのをやめます。
鶴松は無事に淀殿の手元に戻り、なかは風車を見つめて寂しさに落胆しています。ねねも、鶴松は豊臣家の子と考えれば正妻の自分が母親だと胸を張れますが、自分たちがいくら鶴松を愛おしんだところで、結局は実際の母親は淀殿なのだと思い知らされます。なかは口には出しませんが、ねねの気持ちは痛いほどに理解できます。ねねは寂しそうな顔で風車に息を吹きかけています。
その年の9月1日、秀吉は奥羽平定を終えて京へ凱旋した。なかや秀長など出迎えた豊臣一族の顔を見て、秀吉の顔もおのずとほころびます。無理をしないようにとねねは秀長に言葉をかけます。天下統一が成ったのも、秀吉の元に来て30年の秀長の助けがあればこそと、秀吉は手をつき頭を下げます。
養子の秀康は小田原の陣の後に関東の名門・結城家の晴朝に養子として出されたと知り、ともは、秀吉には鶴松さえいればいいのだと皮肉を言います。ともの念頭には、秀吉の養子になっても冷遇された小吉秀勝のことがあるわけです。秀長はこのめでたい席でとともをたしなめますが、「天下を取ったら取ったで またもめ事が起きる」と、なかはほどほどにせねばとつぶやきます。
夜、鶴松と淀殿のことでは面倒をかけたと秀吉はねねを労わります。あさひを亡くしてひどく落胆していたなかも、鶴松の面倒を見てその悲しみも癒されていたそうです。秀吉に有馬へ湯治に行くと告げられ、ねねは淀殿や鶴松と行くものだと思っていましたが、「おかかと行くわ、二人きりでの」と意外な言葉が出て来ました。誰よりもねねを労わねばと笑う秀吉に、複雑そうな表情のねねは涙を流します。
鶴松の誕生やあさひの死で暗い思いに閉ざされていたねねには、思いがけない秀吉の言葉であった。いま、名実ともに天下統一を果たした秀吉とねねとの間に、再び昔と変わらぬ夫婦の信頼がよみがえっていた。秀吉54歳、ねね43歳。清洲でささやかな祝言を挙げてから、29年目の秋であった。
天正18(1590)年7月5日、北条氏直が己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出、秀吉に降伏の意思を伝える。
慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、
あと12年7か月──。
作:橋田 壽賀子
音楽:坂田 晃一
語り:山田 誠浩 アナウンサー
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[出演]
佐久間 良子 (ねね)
中村 雅俊 (豊臣秀長)
長山 藍子 (とも)
内藤 武敏 (千 利休)
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フランキー 堺 (徳川家康)
池上 季実子 (淀殿)
神山 繁 (本多正信)
岩崎 良美 (豪姫)
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赤木 春恵 (なか)
滝田 栄 (前田利家)
松原 智恵子 (龍子)
西田 敏行 (豊臣秀吉)
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制作:澁谷 康生
演出:宮沢 俊樹
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『おんな太閤記』
第39回「弟、秀長の死」
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