プレイバックおんな太閤記・(42)秀次追放
文禄2(1593)年8月3日、秀吉の側室・淀の二度目の子、拾の誕生は、豊臣家の人々に大きな波紋をもたらした。鶴松の死で子を諦めていた秀吉は狂喜し、拾を溺愛した。が、すでに天下は秀次のものになっていた。秀吉はそれを後悔し、秀次が邪魔になったとしても不思議はなかった。叔父と甥の間でありながら、拾をめぐって次第に溝が深まっていった。
それを一番心配したのはねねであった。伏見城修築でしばらくは大坂城へ戻って来れない秀吉の代わりに、ねねが大坂城から伏見城へ出向きます。大坂城は拾の城、聚楽第は関白秀次の城、淀城は鶴松を亡くした縁起の悪い城なので破壊し、秀吉とねねが隠居をするための城として修築しています。大名屋敷も伏見に置くわけで、ねねは、隠居所とはほど遠いとチクリと刺します。
伏見城の秀次の書院を壊したこともあり、ねねは秀吉が秀次から関白としての実権を奪おうとしていると指摘します。隠居する秀吉が関白以上の力を持てば、秀次としてもおもしろくはないわけです。秀次には秀次のやりかたがあるとねねはたしなめますが、秀吉は自分が太閤として目を光らせておかねば、秀次は天下を掌握することもできないと考えています。
正親町上皇の崩御の諒闇(りょうあん=服喪)中に狩猟をするなど、秀吉は秀次を粗暴が目に余り、乱心していると見ています。ねねはそれを単なるうわさ話と一笑に付し、秀次を信じるように説得を重ねます。「秀次どのにはゆめゆめふた心はございません。今いたずらにことを起こすようなことだけは、お慎みくださいませ」
淀殿の居室でも、もっぱら秀次の話でもちきりです。秀次には後ろ盾にねねがついていて、秀吉もねねには頭が上がらないと大蔵卿が指摘します。淀殿も、秀吉にもしものことがあっても、天下は拾のところへこないと危惧します。秀次から天下を取り上げるのは難しいと淀殿は沈んだ顔ですが、ふたりの世継ぎは天下の乱れる元、天下のためにも豊臣家のためにもならないと石田三成は淀殿を見据えます。
相変わらず狩りにいそしむ秀次ですが、何本矢を放っても獲物が獲れません。ムッとしたまま帰っていく秀次ですが、秀次とすれ違った農夫が背中を見せた途端、誰かに矢を射かけられ殺されてしまいます。夜には飛脚の男も何者かに斬り捨てられ、物を運んでいる町人も斬り倒されてしまいます。月明かりに歩く町人の娘が、母の目の前で馬上の武士にさらわれることも発生します。
「藤吉郎の陰謀じゃ!」 ともは、これらの事件は秀次を陥れるために秀吉が誰かにさせているとともは主張します。秀次は、自分が無実の罪を着せられているのに、秀吉がさせているとは根も葉もないと反発します。どこまでもお人よしの秀次にともは呆れますが、であればいったい誰が? 「持って生まれた運命にございます。神明に恥じぬよう生きるよりほかに……」と秀次はつぶやきます。
ねねは誰を信じていいのか分からなかった。秀吉も秀次も信じたかった。が、間もなく秀吉の心をハッキリと知る事件が起こった。幼いころから豊臣家の養子となり、ねねに育まれて少年になった、ねねの兄 家定の子・秀俊が、西国の大名・小早川家へ養子として差し出されたのである。文禄3(1594)年、拾が生まれた翌年の11月のことである。
秀俊はのちの小早川秀秋で、関ケ原の合戦の時、石田三成の西軍から家康の東軍に寝返り、それが家康に勝利をもたらすことになる。秀俊のことで、ねねはこのまま手をこまねいていては一族は遠ざけられ、豊臣家は拾のために崩壊するのではないかという危惧が、大きく広がっていた。
ねねは、みつ、ふみ、森 弥五六を呼び出し、このままでは秀次の前途が危ぶまれるため、秀次の行状について本当は誰のしわざなのかを探ってほしいと依頼します。はっきり判明すれば秀吉への弁明もすることができるわけです。ただ、ねねが動いていることを悟られてはなりません。「秀次どのもお気の毒な方じゃ。誰一人として秀次どのを心からお守りする人もおらぬ。私が守って差し上げねば」
さっそく弥五六は夜道を歩き、襲撃をしてきた武士をみつとふみとともに捕えますが、武士は舌を噛み切って死んでしまいます。次はみつがおとりになりますが、馬上の武士がみつをさらおうとすると、みつの顔を見知った武士はそのまま逃げて行ってしまいます。みつの顔を知っているのはどちらの家臣にも大勢いるため、どちらのしわざと判別がつきません。三人は失敗したことをねねに詫びます。
ねねの焦りの中で、秀吉と秀次の間はますます険悪になっていった。秀次にも異様な行動が目立ち始めていた。日夜に関わらず甲冑具足を身に着け、見えない敵に怯えていた。暗殺を恐れ、眠れぬ夜が続いた。その目にも暗いいらだちの色が濃かった秀次は、ますます追い詰められていった。そんなとき、さらに追い打ちをかけるような事件が起こった。文禄4(1595)年4月のことである。
大和郡山城にかけつけたねねですが、そこにはとも・三好吉房の三男で豊臣秀長の養子となった秀保の亡きがらがありました。秀吉に殺されたと口走るともを吉房はたしなめます。それでもともは、秀吉は拾のために身内はみな殺してしまうという考えが見えたと涙を流します。ねねは、一度秀吉と秀次が心を割って話し合う必要があると言い、必ず何とかすると約束します。「くれぐれも軽挙暴動は慎まれますように」
その後、ねねの計らいで秀次は自分の屋敷で能を催し、秀吉とねねを招待した。秀吉もねねのとりなしで鑑能に赴き、表面何ごともないように何か月かが過ぎた。が、その年の7月、ついにそれも水の泡となる事件が起こった。
秀次謀反と聞き、慌てて伏見にかけつけたねねはその真偽を尋ねます。陸奥会津城主の蒲生氏郷が亡くなり、秀吉は嫡子鶴千代に家康息女の振姫を娶らせることで遺領相続を認めたものの、蒲生家家老に不正があったため近江2万石にした経緯があります。それを「別儀なし」と関白秀次に伝えられたとのことで、秀吉の決定に秀次が逆らった形となったわけです。
ねねは、秀吉とは違う採決を関白が行っても謀反にはならないし、三成ら事務方が面目を潰されただけだと主張します。しかし秀次は朝廷に銀5,000枚を進呈し、毛利輝元と手を組もうとしたのです。毛利方から秀吉に訴えがあって露呈しました。秀次が殺生関白と揶揄されても目をつぶってきたのは、秀吉にとっては唯一の甥でかわいいわけですが、謀反の嫌疑がある以上は見過ごすことが出来ません。
三成は秀次に対して詰問状を持参し、答えを迫ります。しかし秀次にとって三成は獅子身中の虫であり、自分を陥れようとした相手に何も話すことはないと突っぱねます。釈明するなら自ら伏見城へ赴いて、秀吉に申し開きをしたいと言い出します。前野兵庫助は、伏見に赴けば命はなく、聚楽第に立てこもる覚悟を求めますが、それこそ謀反に発展するとともは止めさせます。
三成は秀吉の元に戻り、秀次は病気のため対面出来なかったと報告します。秀次の罪状は明らかであり、秀吉の詰問状も無視してないがしろにする秀次が明日にでも挙兵に及ぶかもしれないと、三成は秀吉に覚悟を促します。秀吉はネコをなでながら立ち上がります。「直ちに秀次を伏見に召し出す!」
秀吉に自分の気持ちを表明するいい機会だと、秀次はその求めに応じて伏見城に向かうことにします。心配するともと吉房ですが、もともと秀吉に弓引くことは毛頭ないわけで、胸を張って弁明するつもりです。仮に命を落とすようなことになっても、秀吉には自分のことを信じてもらいたい。その一心で秀次は伏見へ発ちます。ともは、必ず生きて帰ってくるように諭します。
ねねをともが訪ねます。取り次いだ孝蔵主は、秀次に謀反の嫌疑がかかっている以上、対面は控えるように進言しますが、ねねは構わずともを居室へ通します。蒲生の一件で秀吉が腹を立てていると聞いたともが、朝廷に銀5,000枚を献上したのであって、秀次が朝廷に働きかけたわけではないとともは弁明します。ねねにとりなしてもらおうとともは頭を下げます。
ともの依頼を受け、伏見へ向かう支度を始めたねねですが、そこに秀吉の様子を報告してほしいと頼んでおいた福島正則(イチ)が戻って来ました。「無念でございます」 秀次は秀吉に対面するために伏見に向かうも、釈明の余地なしと関白職を取り上げられて紀伊高野山に追放となりました。伏見に呼び出されたのは会うためではなく捕えるためだったとともは愕然とし、あまりの沙汰にねねは涙を流します。
このままではいけないと兵庫助は挙兵を勧めますが、関白職をはく奪された男に誰が味方するものかと、秀次はいたって冷静です。自分が天下を握ったら三成の意のままにはならず、秀吉への忠誠で我が身の安全を図るために秀次を陥れたとしか思えません。自分の不徳が招いたことだったとつぶやきます。「ただ一言、叔父上にこの秀次の気持ちを聞いていただきたかった」
秀吉は庭で拾の遊び相手をしています。やがて明国からの使者が来たら、明のおもちゃを拾の土産に持ってくるように頼んでおこうと約束しています。淀殿は秀次の仕置きが気になりますが、口を出すことではないと秀吉はたしなめます。叱りつけても、次の瞬間には拾を見て好々爺に戻る秀吉です。
拾誕生から2年経った文禄4年7月8日、秀次は秀吉に会うこともなくついに関白職をはく奪され、高野山へ追われた。聚楽第へはただちに三成らの兵士が送られ、秀次の子女妻妾たち34人も捕らえられ、丹波亀山城に送られ幽閉された。
悲しさで胸が空っぽになったともは、秀次の名をつぶやき続けます。出家して高野山に入ったとはいえ、命を奪われなかったことがせめてもの救いですが、女人禁制の高野山では秀次に二度と会えないと愕然とします。いまのともにはねねの励ましも入って来ず、ともは声を上げて泣き崩れます。しかし、ねねやともの願いもむなしく、秀次には過酷な運命が待ち受けていたのである。
文禄4(1595)年7月8日、豊臣秀吉によって豊臣秀次が高野山へ追放される。
慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、
あと7年7か月──。
作:橋田 壽賀子
音楽:坂田 晃一
語り:山田 誠浩 アナウンサー
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[出演]
佐久間 良子 (ねね)
長山 藍子 (とも)
広岡 瞬 (豊臣秀次)
宗近 晴見 (三好吉房)
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池上 季実子 (淀殿)
東 てる美 (みつ)
南風 洋子 (孝蔵主)
斎藤 美和 (大蔵卿)
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西田 敏行 (豊臣秀吉)
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制作:澁谷 康生
演出:宮沢 俊樹
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『おんな太閤記』
第43回「母、ともの嘆き」
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