プレイバックおんな太閤記・(40)たらちねの母よ
天正19(1591)年は豊臣家にとって暗いことばかり続いた。弟秀長が没し、お茶々の産んだ世継ぎ・鶴松が3歳で急逝した。ねねには豊臣家の前途に不吉な影をもたらす前兆のような気がして、不安であった。
ねねは鶴松の位牌に手を合わせ、淀殿に慰めの言葉をかけます。淀殿はなかやねねに鶴松を愛おしんでもらったことに感謝しつつ、至らなかったと自分を責めます。豊臣秀吉にとっては高齢で得た我が子だっただけに落ち込みも激しく、今ひとりで有馬へ湯治に行っていて悲しみを拭い去ろうとしています。ねねにも秀吉を慰めるすべが見つからず、ねねは淀殿に、これからも尽くして秀吉を慰めてほしいと頭を下げます。
有馬温泉で湯治している秀吉は石田三成を呼び、思いついたように告げます。「三成! 朝鮮へ出兵する。即刻準備するよう諸大名に言い渡せ。出陣の期日は追って沙汰する」
聚楽第に戻った秀吉は顔色も良くなり、鶴松はもう戻って来ないと悟って心も落ち着いたように見えます。有馬で熟考した秀吉は、関白職を豊臣秀次に譲ることに決めます。ねねも秀次は立派に成人したと賛成しますが、秀吉の年齢を考えると引退するにはまだ早いような気もします。秀吉は「太閤になる」と言い出します。日本の政は秀次に任せ、その他の仕事を太閤として進めていくつもりなのです。
“その他の仕事”とは朝鮮出兵です。それだけは! とねねは食い下がります。秀長もそれを案じながら息を引き取りました。しかし子どももいなくなった秀吉は、このまま何もせず老い朽ちるわけにはいかないのです。「もう何の望みものうなった。せめてわしに残された命を、わしの思うた通りに生きてみたいのよ。分かってくれ、おかか」
なかはねねに髪を梳いてもらいながら、秀吉はもうだめだとため息をつきます。それでもねねに母親としての思いをどうにか伝えてほしいと頼みますが、ねねもおかかとしての役割もなくなったとあきらめ顔です。なかも、秀吉の母とか大政所とかという立場はもはや無用になってしまったことを嘆きます。
ともと秀次が来ました。秀吉に呼ばれて、秀次にはいずれ関白職をゆずるという話を受けてきたのです。24歳になる秀次は秀吉の世継ぎとなったわけですが、幼いころから文武両道で鍛錬してきたとともは胸を張ります。鶴松が生きていれば情に溺れて人の道を踏み誤ることになったかもしれず、秀次が継ぐのが当然というともの姿勢に、なかは顔を背けて大きくため息をつきます。
淀殿は、秀吉が関白を辞任し太閤になるというのはともかく、秀次が関白職を受け継ぐことに反発します。もし今後、秀吉との間にまた子ができた場合はどうするのかと秀吉に尋ねますが、秀吉は子が生まれる可能性はないことを諭します。それでも淀殿は、秀吉の子が欲しいと食い下がり、秀吉を困惑させます。
そしてしばらく経ったある日、茶々の妹・小督が聚楽第を訪れた。ねねは夫・佐治与九郎との間に子はできぬのかと笑顔ですが、小督は与九郎が小田原の陣で秀吉の勘気に触れ、離別させられたと打ち明けます。初めて聞く話にねねはショックを受けますが、秀吉への口添えも、小督は命令に背くわけにはいかないと辞退します。小督は秀吉に呼び出しを受け、ねねは小督に付き添います。
秀吉の前には先客としてともと小吉秀勝がいて、秀勝は秀吉の勘気が解けてともは笑顔です。ねねは秀吉が与九郎と小督を別れさせたことを問い詰めますが、小督自ら離縁を願い出たそうでねねは驚きます。秀吉は小督を秀勝に嫁がせると言い出し、離縁も再嫁も淀殿の意見と聞いたともは反発します。ねねは小督を思い「理不尽が過ぎる」と立腹しますが、小督は秀勝がもらってくれるならと意外な反応です。
屋敷に戻ったともは夫の三好吉房に、淀殿の増長と秀吉の甘さを愚痴りますが、吉房はともとの三兄弟とも秀吉の恩義で大名として取り立ててもらっている以上、秀吉の命に従うのは仕方ないとつぶやきます。秀勝は、秀吉に召し上げられた領地を元通りにしてくれたのは、小督を娶る話があればこそだと理解していて、娶ることで事が丸く収まるなら従うと返し、ともは黙り込んでしまいます。
淀殿にしてみれば、三姉妹が身内としていてくれれば心強いということもあったのかもしれません。秀吉が淀殿のわがままを聞いてくれて礼を述べますが、最も安心できる方法は淀殿が秀吉の子を成すことです。もう子は諦めているし、世継ぎは秀次と決めたと笑う秀吉に、秀吉のそばにいたい、子どもを産みたいと呪文のように言い続けます。
その年、天正19年の10月10日、秀吉は朝鮮出兵のために今の九州唐津に築城を命じた。名護屋城である。そして12月28日には正式に関白を秀次に譲り、自らは「太閤」になった。関白として守るべきこととして、秀吉は秀次に4か条の訓戒を与えます。平穏時でも軍備を怠るな、法度に背く者には公平に成敗せよ、などです。これまで秀吉がしてきたことを秀次には戒めた形になかは笑います。
しかし、どうやらその訓戒状には“みだりに攻めてはならない”という文言はなさそうです。何を言っても朝鮮出兵を思いとどまらない秀吉に、なかとねねはため息をつきます。ともかく、関白として秀次が聚楽第に入るとなれば、なかやねねは再び大坂城へ戻ることになります。せっかくこの屋敷にも慣れたのにとなかは不満ですが、秀次と暮らすよりはねねと一緒の方がいいと大坂行きをしぶしぶ承諾します。
秀吉はねねに、秀吉の留守中は北政所として秀次を盛り立てるよう命じ、そしてなかの世話も頼みます。さらに、秀吉とともに出陣する秀勝の、小督との祝言の手配もねねにさせることにします。秀勝も出陣するのかとともは不安げですが、もちろんという秀吉の笑顔に、ともも、そしてなかとねねも深いため息をつきます。
天正20(1592)年1月5日、諸大名に出兵の命が下り、次々と朝鮮に向けて兵が送られた。そしてその春、出陣前の秀勝と小督との祝言が挙げられた。が、蜜月を過ごすいとまもなく、秀勝は小督と別れなければならなかった。豊臣の人間になった小督は、なかやねねを本当の祖母や母と思って仕えながら、秀勝の帰りを待つことにします。「必ずご無事でお戻りくださいますよう」
出陣の日の朝。秀吉が出発することになかは心配でなりません。いい結果を持ち帰ると自信満々の秀吉に、80歳近くになったなかはそうそう長生きできないと力なく告げます。バカな戦は早く止めて戻るように諭します。一方、立派な働きをするようにと、秀勝にはともが訓示を与えています。そろそろ挨拶の刻限と秀勝は立ち上がります。これがふたりの永遠の別れになろうとは、小督も秀勝も夢にも思っていなかった。
天正20年3月26日、秀吉はお茶々・龍子のふたりの側室を伴い京を発った。もうひとり、別れがつらいのは大政所だ。しかし今度ばかりは、なぜか秀吉たちを見送る気にはなれなかった。とうとう行ってしもうたのか、とひとりで庭を見つめるなかの姿を、ねねは柱の陰から見守ります。4月25日、秀吉は名護屋城に着陣し、すでに朝鮮へ渡った小西行長らの軍勢は釜山城を落とし、5月2日には京城をも占領した。
そしてねねたちは聚楽第を秀次に渡し、再び大坂城へ移った。5月5日の節句になかが秀吉に帷子(かたびら)を贈った礼の文が届きました。このまま唐入りして9月の節句にはなかを迎えるという自信たっぷりの書状に、あのたわけが! といつも通りの反応をするなかですが、まあ九州におれば安全だと呑気に構えています。
秀吉は、明も占領できれば天皇や秀次も明に呼び、日本の関白には羽柴秀康か宇喜多秀家を置くと考えているようです。6月には秀吉自ら海を渡るとあり、なかは「行かしてはならぬ!」と猛反対です。他国に攻め入り領土を奪うなど、この戦には大義名分がないとねねも同調します。ねねは秀次に、朝廷に頼んで思いとどまるよう綸旨をいただき、徳川家康や前田利家にも秀吉を諫言するよう書状を送らせます。
高齢に加え心労も重なり、なかが卒倒します。ねねはすぐに秀吉に使いを出そうと提案しますが、秀次は秀吉も大事な時だから余計な心配をかけたくないとしばらく様子を見ることにします。前にも意識を失って倒れたことがありましたが、その時もすぐに意識を取り戻し良くなりました。秀次もとももそれを期待して見守るというのです。
「なにとぞ、太閤殿下みずからの渡海は思いとどまりますよう」 名護屋城では、天皇の勅諚で諫められていることもあり、家康は秀吉に諫言します。秀吉に狐が取り憑いたと祈祷させているし、なかもねねも心を痛めていると利家はふたりの意見を代弁します。狐と聞いて鼻で笑う秀吉ですが、家康と利家の前では自己主張せず黙って話を聞いています。
病床のなかに、ねねは秀吉が渡海を来年3月に延期したことを伝えます。なかは自分の手を見ながら、長浜でねねと一緒に暮らし始めた時からのいろいろなことを思い出していました。ねねはなかの手を握り、困った時に切り抜けてこれたのは、なかがいてくれたからだとねねは涙を浮かべます。「わしはの、ねねさを嫁じゃと思うたことはなかった。娘じゃと……いや、娘以上じゃった」
今考えても、ねねといういい嫁に恵まれてなかは果報者でした。思い残すことはないとつぶやくなかに、もっともっと長生きしてもらわねばとねねは励まします。「そうじゃったの。あのたわけが諦めて戻ってくるまで、わしは死んでも死に切れぬの」 なかの意識が次第に遠のき、ねねはこれはいけないと感じます。
ねねは秀次にも、なかの容態を伝えてすぐ大坂に戻れと使いを出すよう勧めますが、秀次はためらいます。もし何事もなかったら叱責されたくないという思いが秀次にあるのかもしれません。もし良くなればこれほどめでたいこともないし、間に合わなかったら秀吉に一生悔いが残ると説得し続けます。
果たして、秀次から秀吉になかの容態について報告が上がり、秀吉は盃を落として狼狽(うろた)えます。淀殿は帰還の支度を三成に命じ、三成はすでに名護屋から大坂への船の手配を済ませています。秀吉はすぐに大坂に戻ることにします。長い長い船旅に、もう少し早く走れんのかと秀吉は憔悴しています。嵐のような日も、待っていてくだされや! と綱を掴んでなかへ必死に思いを伝えようとします。
その間にも大坂ではなかを囲んでねねとともらが看病し続けます。必死の呼びかけに、なかは唇を動かして何か言っているようです。「たわけ……おおたわけ……」 ねねはなかの快癒の祈りを込めて滝行します。なかが良くなることであればなんでもしたいという思いのねねです。
天正20(1592)年7月、豊臣秀吉の朝鮮出兵を憂い、なかが心労で倒れ死の床につく。
慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、
あと10年7か月──。
作:橋田 壽賀子
音楽:坂田 晃一
語り:山田 誠浩 アナウンサー
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[出演]
佐久間 良子 (ねね)
長山 藍子 (とも)
五十嵐 淳子 (小督)
広岡 瞬 (豊臣秀次)
宗近 晴見 (三好吉房)
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フランキー 堺 (徳川家康)
池上 季実子 (淀殿)
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赤木 春恵 (なか)
滝田 栄 (前田利家)
西田 敏行 (豊臣秀吉)
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制作:澁谷 康生
演出:上田 信
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『おんな太閤記』
第41回「秀頼誕生」
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