プレイバック徳川家康・(34)渦中の人
文禄2(1593)年5月、秀吉が待ち望んだ第一次明国使節が小西行長らと日本に向かうと、三成の依頼で秀吉に和議の進言をした家康は、秀吉から講和条件のことで意見を求められていた。和議を進めながら戦場の指揮を同時に進め、かつ側室の淀が身ごもって腹の子が気になるし、豊臣秀吉には頭の痛いことばかりだとイライラを募らせます。
石田三成が差し出した秀吉による講和案に徳川家康は目を通します。明国公の姫を秀吉の妃とすること、勘合で双方の船を往来し盛んな貿易をすること、双方の大臣が誓書を交換して誼(よしみ)を通じることなど、7か条からなるものです。秀吉は朝鮮半島の南半分を手中に収めることで、文禄の役は一応のけりにしようと考えていたのである。
その明国使節の交渉を重ねる緊張のさなか、文禄2年8月3日、大坂城では運命の子が生まれていた。後の豊臣秀頼である。この知らせが秀吉の元に届いたのは、使節が前の講和条件を明国王に報告するため名護屋を発した直後であった。ことが多かっただけに、秀吉の喜びは大きかった。そしてその秀吉の実子は「拾」と名付けられた。
三成は拾誕生で浮かれている秀吉をたしなめ、関白豊臣秀次についてよからぬ話を報告します。正親町上皇崩御から1か月も経たない忌中に、武装した大勢の勢子を引き連れ、鉄砲を持たせた鹿狩りを「国家鎮護の霊場」比叡山で行っているのです。今や殺生関白とあだ名される秀次のこれらの行動は、拾誕生と深く関わりがあると三成は付け加えるのを忘れません。
秀吉に大きな不安を投げかけた ここ聚楽第の現在の主・関白秀次は、疑惑の中に焦燥の日日を送っていた。琵琶の音に哀しい思いを募らせたか、側室のひとりがシクシク涙を流します。秀次はそれを見咎めて逆上し、熊谷大膳と木村常陸介が慌てて止めに入り側室たちを下がらせます。三成の回し者がいたらどうするのかと気が気ではありません。
日日の所業を改めれば三成の付け入るスキを与えずに済みますが、殺生関白と讒言した三成の顔色を窺うぐらいなら、死んだ方がいいと秀次は反発します。大膳はさらに、名護屋から戻る秀吉一行を姫路まで出迎えに行くことが、秀吉の疑念を払しょくさせる安全策だと進言しますが、出迎えぬぞ! と秀次は聞く耳を持ちません。秀次は秀吉に実子ができたため、当然自分は退けられると思い込んでいたのである。
そして秀吉は、和議の交渉も進展しないまま、その年の秋 肥前名護屋を発って大坂に帰陣し、家康もこれと同じく大坂に戻っていた。秀次は秀吉の難詰を避ける唯一の方法と、出迎えず湯治に出かけてしまいます。「思慮の浅い大人どもよ」と家康はあきれ果てています。茶屋四郎次郎も、このことが後にどう影響してくるのか危惧しています。
それは、そのまま秀吉の気持ちであった。大坂城に戻って来た秀吉に、ねねは西の丸にいる淀と拾に対面するように勧めますが、秀次が出迎えなかったことを秀吉は怒っています。「なぜ黙っておる? なぜ答えぬ!」とわめき散らす秀吉をたしなめるねねですが、秀吉は怒り余って脇息を蹴飛ばします。
すべての責任は秀吉にある、とねねは反論します。秀次のことにしても、豊臣家の跡継ぎと決めたのも関白にさせたのも秀吉です。軍略や政治ともに秀次が未熟であれば、拾が生まれればさすがに動揺するわけで、重荷によろめくその姿は哀れだと秀次を代弁します。黙り込んだ秀吉は座り込みます。器以上に用いられた方もいつか破綻してしまう。分相応がいいのだ、とねねは伝えたいのです。
秀吉は秀次とのことを相談します。ねねは、見舞いも兼ねて秀次に文を書くように勧めます。誕生した拾が育つかどうかは分からないが、後のことを決めておきたい──。「拾を関白の子とし、関白の娘と目合わせて豊家は一つに」 そうすれば秀次も怪しい妄想を捨てていくと諭すねねの手を握り、言うとおりにしようと約束します。愚かとはいえ一度は跡継ぎと決めた以上は、そう容易く縁は切れません。
秀吉は機嫌を取ろうとねねの居室で膳を取りたいと言い出しますが、それより早く淀と拾に対面を勧めます。生まれたばかりの拾には、大声で驚かさないようにとたしなめ、秀吉は照れながら淀のいる西の丸に向かいます。秀吉は、しみじみとねねの心を思い、亡くなった母の大政所をまぶたに浮かべていた。大政所もねねが好きであった。
淀の居室に向かった秀吉は、侍女が抱いている拾を抱かせてくれと求めます。侍女は淀の顔色をうかがいながら、秀吉に拾を預けます。「似ている。確かに似ておるのう」と拾をあやします。秀吉が“似ている”という意味は複雑だった。無論、その母・茶々に。死んだ鶴松に。そして大政所に。その面影がこの嬰児の顔の中に棲んでいた。
拾を侍女に預け、居室に淀と二人きりになった秀吉は、自分も書くから淀も秀次に文を書いてほしいと依頼します。世の中にともに行き合うということは並々ならぬ縁の深さと諭すのです。しかし淀ははっきりと拒絶します。拾が育たないように呪詛している秀次に、なぜ自分から文を出さなければならないのか。出産前には拾を流産するように比叡山に祈祷を命じていたと知り、秀吉は衝撃を受けます。
無論それは事実ではない。だがそうした風評はさらにかしましく、当の秀次は秀吉を出迎えに出なかったことの発錆から、さらに荒れた生活を送ってもがいていた。
その年の暮れ、家康の京屋敷を訪れたふたりの客があった。納屋蕉庵と木の実です。名護屋では男のなりをして家康に仕えている風を装っていましたが、やはり女子は女のなりをするのが一番だと家康は笑います。蕉庵は、今回の明との講和はうまくいかないと家康に告げます。その上で木の実は、自分を再度召し抱えるように願い出ます。
講和がうまくいかず、再出兵を決めた秀吉が「わし自身が渡海するぞ」と言えば、家康はどう答えるか? 「その時になってみないと分からぬ」と言葉を濁す家康ですが、家康は秀吉の言い分を黙って聞き流せるわけもなく、いや自分がと言い出すに決まっています。
家康が渡海せずに済ませることが出来る女性は北政所(ねね)です。秀吉の補佐役である家康を渡海させたくない堺衆は、ねねを説得できるだけの情報を堺衆は持っています。蕉庵は、ねねと家康をつなぐ役割で木の実を役立てたいと言いだします。蕉庵は1枚の文書を家康に披露します。蕉庵の情報は、関白秀次が軍費に困っている諸大名に金を貸している事実である。
これは秀次の重臣たちが秀次の勢力を借り、秀吉に対して弁護の側に立ってもらうべく模索したことです。ただ三成に疑惑を持たれたら、謀反の証拠と十分なり得ます。家康が渡海中、秀吉と秀次の間に紛争が起こった時に誰がこれを止めるのか。そのために木の実が名乗り出たのです。家康は“近侍”として木の実を再度召し抱えることにします。
そして話題の主・秀次は、一層疑心暗鬼に追い詰められていた。三成らが秀次追放をはっきりと狙って来ているため、大膳と常陸介は“最後の手”として、秀吉が重用する家康を味方に引き入れ、何かの時には家康から助言してもらうしかありません。しかし秀次は、三成に恐れをなしたことがプライドを許さず、二度と名前を聞きたくないと拒絶します。
木の実は、秀次が三成たちの野心に巻き込まれないため、家康の代行者としてその情報を北政所に届けた。ねねは、のちの世を案ずる心として家康の思いを受け取ります。ねねも秀次を守りたい一心であり、大政所の墓所で秀吉と仲直りをさせる機会を設けるよう取り計らっているほどです。ねねは家康に、秀吉を補佐してほしいと木の実に伝えさせます。
城を出るところで三成に見咎められた木の実は、城内に連れ戻されてしまいます。木の実はとぼけますが、おおよそ江戸の風を北政所に持ち込んだのだろうと三成は予測します。秀次に関しては秀吉から決定がなされたことを伝えると、木の実の顔色が変わります。木の実が自分を助けるなら帰してやってもいいと条件を出します。「私は帰りますまい。豊臣家の大事や天下のことなど分かるはずもない」
三成が警戒しているのは北政所を慕う子飼いの武将たちであり、その両者が秀次と結んだら豊臣のためにならないのです。木の実は、そのような大事を打ち明けた三成を笑います。器に合わない人物を関白に据えたのでは波乱を起こすため、謀反の罪をかぶせて関白を退かせようという三成の魂胆を感じ、発言してしまいます。
木の実は、聞いてはならぬことを聞き、言ってはならぬことを口にしてしまったのである。刀を振り上げた三成は、木の実を斬ったふりをして出ていきます。夜になって城を出た木の実でしたが、背後から男たちの襲撃を受け惨殺されてしまいます。その遺骸が徳川家京屋敷の門前に放置されたところを発見され、屋敷内に運ばれてきます。
蕉庵も事件を聞き、言葉を失います。四郎次郎の調査では、大坂城内で三成と会話していたことまでは追えています。三成ほどの人物であれば直接手を下さず、おそらくはその配下が木の実を斬ったのでしょう。しかしそれ以上の詮索は無駄だと蕉庵も諦めます。「あくまで淀殿を殺して豊臣家の次の大黒柱とならんとする奴の野望ははっきりしてきた! 木の実はその野望の犠牲になっていったのじゃ」
そして春。秀吉は秀次を伴って桜見物をしていた。酒を注がれる秀次に、秀吉、淀、そして家康の三者の眼差しが注がれています。だが、秀次との和解を世情に印象付けるためのこの催しも、必ずしも満足すべきものとはならなかった。その秀吉が目に見えて食欲を減退させ、時々刺すような頭痛がすると言い出したのは、このころからである。
諸大名が秀次を見限り始めたからか、秀次は一層表に親しみを見せ始めます。それゆえに徳川秀忠を人質にして家康を味方に引き入れようと言う企みがあるかもしれず、油断はできません。本多正信は、もし秀次から招きがあれば「残念だった」と答えるように助言します。仮病になるのではなく、先約を作ればいいというのです。
秀次に優先される先約は秀吉ただ一人なので、秀吉から茶の招きを受けて出かけるところだったと言い訳し、帰ってから御用を聞くということにし、伏見に赴いて家康と合流する。それだけが、秀次自身や秀吉の側近から身を交わす唯一の方法です。家康は秀忠に「三成にはスキを見せては相ならぬぞ」と忠告します。
家康はしばらく江戸に戻ることにします。この繁多な折にと驚く秀忠ですが、渦の中にいては周りが見えず、渦の外から全体を見たいという家康の考えです。秀吉の味方でも秀次の味方でもなく、日本の騒ぎを大きくさせないためにいずれにも加担しないということです。「新たに起こりうる出来事に対処せられよ。我ら徳川家が間違えたとき、今の太閤殿下では日本国という船も海の藻屑と消えるかもしれぬ」
その夜遅く、江州上総の古井戸にあった本多作左衛門の死が知らされてきた。家康はゆっくり目を閉じ、生前の作左衛門の言葉を反芻し、涙を流します。「わしはの、家康という男に惚れたのよ!」「男はの、惚れた男のために利害を忘れて働くものじゃ!」 家康は、あくまで天下のため徳川家の存続を図り、新しい日本の行方を探ろうと心を砕きながら、江戸へ戻っていった。
文禄5年(1596)年7月16日、本多作左衛門重次が死去する。享年68。
慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、
あと6年6か月──。
原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
語り:館野 直光 アナウンサー
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[出演]
滝田 栄 (徳川家康)
夏目 雅子 (淀君)
勝野 洋 (徳川秀忠)
中山 仁 (茶屋四郎次郎)
氏家 修 (豊臣秀次)
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武田 鉄矢 (豊臣秀吉)
内藤 武敏 (本多正信)
吉行 和子 (北政所(ねね))
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鹿賀 丈史 (石田三成)
紺野 美沙子 (木の実)
石坂 浩二 (納屋蕉庵)
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制作:澁谷 康生
演出:加藤 郁雄
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『徳川家康』
第35回「太閤死す」
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