プレイバック徳川家康・(32)家康江戸入り
関白太政大臣・豊臣秀吉の北条征伐は、天正18(1590)年3月1日に京を進発すると発表。知らせは直ちに大坂から家康の元へ飛んだ。徳川家康は、今回の戦は先陣を務めるだけではなく、秀吉の軍勢を迎え入れて小田原へ向かわせるという大役と認識しています。秀吉麾下の軍勢と争いを起こさないようにしなければなりません。秀吉の軍勢の接待は本多正信に、徳川軍の管理は本多作左衛門に命じます。
関白軍を迎えるにあたり、正信は道すじの要所要所に湯茶の接待所を設け、先発隊が三河へ入って来るのを待った。正信の用意周到さに秀吉軍先発隊の家臣は感心しますが、作左衛門はそれに反発してたちまち反感を買います。慌てて「いやいや……」と仲裁に入る正信です。これを詫びるのが正信の専らの役目となった。その様子を見て作左衛門は涼しい顔です。
そこに現れた石田三成は、家康に命じておいた“大井川を渡るための船橋”について作左衛門に尋ねます。作左衛門は、味方が渡る橋なら敵も渡って来られるわけで、秀吉は北条を遠江に引き寄せて戦うつもりなのかと反抗心たっぷりです。秀吉の到着までそれを分からない方が、敵にも知れず良いのだと分からないのかと作左衛門は叱責し、三成はあっけにとられます。
そしていよいよ3月1日、堂々と秀吉は東へ向かったが、その日のいで立ちはすさまじかった。唐冠(とうかんむり)に目の覚めるような金小札(きんこざね)の緋縅(ひおどし)の鎧をまとい、歯には黒々と鉄漿(かね)をつけ、おしろいをはたいた頬に熊の毛で作った付けひげを左右にはね上げていた。この秀吉の軍隊も、4月のはじめには駿府に近づいた。
到着した秀吉に、家康の家臣たちの間にただならぬ気配があると報告した三成は、家康と北条との間に何らかの密約があるのではないかと疑いますが、家康は全軍の規律を守らせているし、逆に疑うことで家康を北条方に追いやることにもなりかねないと、別の家臣が秀吉に報告します。家康の本心を見るため、駿府の手前の手越まで秀吉を出迎えに来るように命じます。
さっそく家康は、手越に陣を張った秀吉の元へ呼びつけられた。家康は、そもそも明日駿府に入り宿泊する秀吉に挨拶する予定でしたが、それをすぐに「もろもろの打ち合わせは駿府で」と家康を追い返します。秀吉の家康を試すような目にも、家康は表情を変えません。多忙な前線より駆けつけた家康にとっては、まったく理解に苦しむ秀吉の言動である。
秀吉は去ろうとする家康を呼び止め、派手な自分と地味な家康の格好が不釣り合いと、自らが持つ 装飾が施された長槍を家康に投げ渡し、それを持って城中を見て回るように命じます。秀吉の元を下がる家康は控える三成に、うっかりとした進言には気をつけるようにたしなめます。
翌日、秀吉は駿府城へ入城。家康が前線を見回って戻ってきたときには、誰の城だか分からぬほど秀吉の家臣が廓(くるわ)の内外にあふれていた。この時家康は、ふと秀吉に戯れ返す気になった。後々のため、必要以上に秀吉を立てて見せる気であった。すでに上座にいる秀吉が、“ここに座れ”と自分の真横に手を差し向けるところ、家康はそこに座らず下座で恭(うやうや)しく手をつきます。
家康のその行動に家臣たちに動揺が走ります。直後、作左衛門が軍議の場に現れますが、家康が下座にいることに反発します。作左衛門としては、家康をそのような意気地なしに育てたつもりはありません。秀吉にへりくだる家康は、自分の城、自分の領国、そして自分の奥方すらも相手に貸してしまうのかと非難し続けます。そんな主君のために、誰が戦場で命を懸けるというのか──。
作左衛門は自邸に戻ります。妻は突然の夫の戻りに驚きますが、秀吉の前で家康を叱りつけてやったと笑います。作左衛門の狙いは、秀吉を恐れさせて徳を取らなければ徳川家は終いだ、というところにあります。作左衛門は妻に柔和な笑みを浮かべ、切腹か出家かとつぶやきます。妻に書状をしたためる支度をさせ、天を仰ぎます。「数正! わしも殿に惚れ抜いたゆえ、お主に負けぬわがままを通してきたぞ」
淀城・茶々の居室では、小田原へ赴いて秀吉の世話をするようにとの北政所(ねね)からのお達しに、淀君は不満顔です。秀吉だけのおもちゃでたくさんで、北政所の指図まで受けたくないわけです。淀君にすれば、自分を小田原に送ることで鶴松を取り上げようという北政所の魂胆は明らかだと考えています。北政所のお達しを伝えに来た饗庭は、淀君の指摘に黙り込んでしまいます。
淀君はその後、北条征伐が終われば鶴松とともに過ごせる約束を秀吉に取り付け、小田原へ向かいます。納屋蕉庵は、側室まで侍らす余裕の戦ですが、問題は北条の領土に追いやって箱根から西を固めてしまう秀吉の構想により、旧領と関八州を取り換えられる家康には今後が難しい話です。いずれにせよ百数十年にわたる北条は終わりだと蕉庵はニンマリします。
4月の20日、上野松井田城から攻め始めた関白の総合勢は、ふた月足らずで関八州の大半の城を落とし、上にあるのはこの小田原城だけである。その小田原城では当主氏直が、世にいう「石垣山一夜城」の出現に呆然となっていた。随風は、この3日間の総攻撃は必至だと、城内に残る6万の将兵の命こそ大事と訴えます。堅物の重臣たちに引き換え頭の回転が速い氏直は、黙って頷きます。
そのころ家康は、一夜城に秀吉から呼び出しを受けていた。秀吉はさっそく、北条を討伐した後の関八州を家康に与えると伝えます。関八州の主として百年の計を立てる家康の居城となるかどうか。小田原では偏りすぎていると、家康は隅田川や荒川の出口に当たる江戸辺りに居城を置くと秀吉に告げます。「これで決まった。わしを見習うてあの地にでかい城を建てられよ」
ついに北条氏直が我が身の切腹と引き換えに城内の者の助命を申し出た。秀吉はそれを受け、北条五代への手向けに氏直の命を助ける代わりに、北条氏政・氏照兄弟には切腹という厳命でした。そして当主氏直はいかにも神妙と、高野山へ追放し謹慎させることにします。そして城の受け取りの役目は、関八州に移る家康に任せます。
家康は、北条への最後の贈り物として、これまでの戦功があった北条の者には印判状を与え、奉公の意思があった場合は徳川家で召し抱えることを氏直に伝えるよう正信に命じます。
北条征伐も終わった秀吉は淀君を淀城へ帰し、自らは奥州へ出発することにしますが、懸念されるのは鶴松です。淀君不在の間、すっかり北政所に懐いてしまったというのです。北政所は鶴松に「まんかかさま」と呼ばせで、手放したくない心境が伺えますが、淀君は淀城に戻ったら鶴松を手元で育てたいと聞かないそうです。淀君は三成に、良い知恵を絞ってくれとニッコリ微笑みます。
7月17日、秀吉は小田原を発ち東に向かった。奥州の伊達政宗・最上義光(よしあき)などを呼び寄せて、東日本の新配置を厳しく執り行うためである。そして家康は──。江戸へ前乗りさせていた板倉勝重に、江戸城とはどのような場所か報告させます。東南は大手門のすぐ近くまで波に洗われ、東から北は一面の雑木林、北西は水の腐ったため池であり、玄関は舟板というすさまじいところです。
城の普請よりも、町を作る土地を得るために山を切り崩さなければなりません。酒井忠次は、家臣の報酬も決めるように進言しますが、報酬で釣ればもろいということを足利の歴史から学んだ家康は、それについては急ぐつもりはありません。褒美なくば動かぬという家臣はひとりもいらない。家康の並々ならぬ決意がにじみ出ています。
その代わり力ある者にはそれを発揮できる舞台を与え、みんなの力を結集させれば新領は256万石に膨れ上がると重臣たちを鼓舞します。もしこの場に本多作左衛門が居合わせたら、おそらくニタリとほくそ笑んだろう。旧領を召し上げ関八州への移転に対して、家中の不満はまだ激しいものがくすぶっていたからである。
重臣たちの、家康はなぜ関八州への移転を決断したのかという疑問に対して、家康は天下取りの準備になるかもしれないと堂々と言ってのけます。秀吉は全国を統一すると大陸へ出兵すると思われ、徳川の領地が西にあれば真っ先に先陣しなければならず、大陸で討ち死にした場合は誰が天下を取るのかという思いがあるのです。だから家康は東へ“難を避けた”ということになります。
重臣たちの疑問は家康の説明で腑に落ち、新しい国づくりへのやる気につながります。家康が駿府で人質として苦難の道を歩んでいたころのことを思えば、やればやった分だけ自分に帰って来る国づくりほど充実したものはありません。褒美で釣れぬこの宝が、いったい幾人秀吉にあろうかと、家康は心から神仏に感謝していた。
天正18年8月1日、徳川家康 初めて江戸へ入る。一方、秀吉が奥州の裁定を終え、事実上日本の統一を成して京へ戻ったのは秋である。蕉庵の屋敷で、小田原から戻った随風は地球儀をクルクル回しています。織田信長が目指した全国統一を果たしたのが、まさかあの時に出会ったサルだったとは、分からぬものだと蕉庵は笑います。
「それにしても星回りが悪いわ」と随風は難しい顔です。どんなに運が強く生まれた者にも定期的に不運の時は必ずあり、この時にめったなことを始めれば日本の一大事につながると危惧するわけです。随風は蕉庵にくれぐれも秀吉の動向から目を離さないように忠告します。そして随風は江戸へ行き、家康の国づくりを見てきたいと笑います。これを機に随風は「天海」と名を改めるつもりです。
家康の国づくりは順調に進み、一面の芦原であった武蔵の江戸も、急速にその面貌を改めつつあった。そして天海僧正と名を改めた随風に、家康は江戸城で再会した。
天海は家康に、人には「運」と「命」の組み合わせがあると説きます。どんな人でも春夏秋冬の訪れを拒むことはできず、運が冬に向かえば人は心が騒ぎますが、それを悟ってじっと平静を保てばいい。そうしなければ大きな不運をつかみ取ってしまうわけです。家康は大陸出兵は秀吉の命取りになるかもしれないと天海はつぶやきます。家康は日本のためにも大陸出兵を諫めなければならないと感じます。
随風の予言通り、関白家の運命はかげりを見せ始めた。その翌年の1月、秀吉の実弟・羽柴秀長が病死した。続いてその夏、秀吉は最愛の我が子・鶴松丸を失った。戦場にあっては無数の死を眺め、自らも殺してきている秀吉だが、いま鶴松丸の死にあって、すべての自信を失っていた。
鶴松の最期について三成から報告があり、最期のひと息というとき、鶴松は小さな手のひらを広げて何かを掴もうとしていたそうです。秀吉は、その動きはきっと「命」というものをつかみ取ろうとしていたのではないかとつぶやきます。これまでやって来たことは、亡き信長の遺業の引継ぎであり、秀吉はこれからは自分の仕事をやると決意します。
そのために関白の座を甥の秀次に譲り、大陸へ出兵を決断します。先頭に立って大明国に攻め込みたくさんの州をこの手に得れば、ようやく信長から離れて秀吉自身が大きく世界へ跳ねることになるのです。「この決心をさせてくれたのは鶴松じゃ。早う死んで、鶴松はこの生き方をわしに悟らせるために生まれてきたのじゃ。哀れな鶴松に応えるためにも、わしは大明国を征服するぞ。見ておれよ、ねね」
鶴松丸の死はねねが一番恐れたほうへ秀吉を走り出させてしまったのである。そしてそれを予想し、案じた家康が上洛した時には、すでに秀吉の構想は大きく膨らみつつあったのである。
家康の顔を見ると、秀吉は自ら歩み寄って家康の手を握ります。鶴松の死がしぶとく心を支配していて、秀吉はすっかり力を落としていました。しばらく養生を勧める家康ですが、鶴松に叱られると、弔い合戦──大明国の征服を家康に告げます。家康は全国統一が成ったいま、しばらくは兵を休めて南蛮交易に力を注いでみてはと進言しますが、秀吉には聞き入れる様子もありません。
この秀吉を諫めるのは容易いことではない。愛児を失った関白太政大臣の権力の執念は、計り知れない大きさで家康の前に立ちはだかってゆくのである。
天正19(1591)年8月5日、鶴松は淀城で死去。享年3、諡名(おくりな)は祥雲院殿。
慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、
あと11年6か月──。
原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
語り:館野 直光 アナウンサー
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[出演]
滝田 栄 (徳川家康)
夏目 雅子 (淀君)
吉行 和子 (北政所(ねね))
内藤 武敏 (本多正信)
鹿賀 丈史 (石田三成)
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武田 鉄矢 (豊臣秀吉)
高岡 健二 (本多平八郎)
紺野 美沙子 (木の実)
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長門 裕之 (本多作左衛門)
竜 雷太 (随風)
石坂 浩二 (納屋蕉庵)
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制作:澁谷 康生
演出:国広 和孝
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『徳川家康』
第33回「戦雲動く」
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