プレイバックおんな太閤記・(39)弟、秀長の死
天正18(1590)年9月1日、関東の雄・北条氏を滅ぼし奥羽平定を終えて、秀吉は無事京へ凱旋した。関東・奥羽を最後に秀吉は完全な天下統一を成し遂げたのである。秀吉の、一緒に有馬温泉に行きたいとの心遣いにねねはなかも誘いますが、なかは秀吉にしては上出来と、二人で湯池に出かけてくるようねねの背中を押します。「おみゃあさら夫婦ふたりは肝心な時、これから先のことをよう話し合うて」
紅葉の眺めは格別で、なかを連れてこなかったことが心残りです。なかとねねが仲良くしてくれることが励みと秀吉は頭を下げます。ねねに楽な暮らしをさせたくて頑張ってきた秀吉に、そういう気持ちにさせる女子こそ立派なおかかなのかもしれません。おかかは他の側室たちとは違うと力説する秀吉に、ねねは呆れながらはいはいと頷きます。
そのころ大坂城では、淀殿が石田三成を呼び出して詰問しています。秀吉が奥羽から戻ってから一度も大坂へ来ていないのです。御用繁多を理由に挙げる三成ですが、ねねと有馬へ湯池に行く暇はあるのにと淀殿は愚痴を言います。その淀殿の怒りは、全国統一を成し遂げた天下人になっても、未だにねねに頭が上がらない秀吉に向きます。
有馬へ入って20日近くになり、ねねもそろそろ聚楽第に帰ることを提案しますが、秀吉はこれから忙しくなるから今のうちにゆっくり、と全く意に介しません。自分の仕事は終わったとつぶやく秀吉は、鶴松が成人するまで関白職を豊臣秀長に譲り、自らは唐入り(明国を従えること)を考えています。明の国王になると言う秀吉にねねは笑い飛ばしますが、鶴松と留守を頼むと秀吉は本気です。
ねねが複雑な表情を浮かべていると、大和郡山城から秀長の病状が急変したとの知らせが舞い込みます。
せき込む秀長のほほを触って、盲目のしのは薬師に病状を尋ねます。秀長が首を横に振ると、薬師は「いささかお疲れなされただけ」と伝えます。急変の知らせを聞いて秀吉とねね、なかが駆けつけ、しのはただならぬことと察知しますが、ねねは昨晩寝ずに看病したしのを労わります。しのは盲目で何もできないことを申し訳なく思っていますが、なかはしのを励まします。
しのの居室に連れ添ったねねですが、秀長の本当の容態を誰も教えてくれないとしのは哀しげな表情です。盲目である自分を責め続けるしのに、ねねは秀長にはしのの気持ちは通じていると諭します。それが夫婦の姿であると──。「必ず良うなられます。秀長どのは強いお方じゃ」 ねねはしのの手を握り締めます。
ねねと秀吉に励まされる秀長は、自分の寿命ぐらいは自分でも分かるとつぶやきます。秀長はなかに抱きかかえられながら、遺言として唐入りには反対だと改めて主張します。秀吉はすでに朝鮮国から使者を呼び寄せ、唐入り時の道案内をさせるように手配しているのです。「この日本、豊臣家を固めることこそ兄者の務めじゃ」 秀長はひどくせき込み、その拍子に吐血してしまいます。
これ以上の無理はいけないと薬師が止める中、秀長は自分の命に代えてでも唐入りは止めなければならないと必死です。秀吉は秀長だけが頼りだと、その主張を秀長に誓います。秀長はなかに心配かけたことを詫びます。秀長の重体に誰もが心からその快癒を祈った。しかしその願いもむなしく、一生を名参謀として秀吉を支えてきた秀長は、静かに51年の生涯を閉じた。
秀吉の指揮で秀長の葬儀もつつがなく終わり、しのはねねに礼を述べます。秀長にはもっと長生きしてもらいたかったとねねも残念な思いです。しのはねねに、故郷の播磨へ戻り出家して余生を送りたいと伝えます。秀保の養母ではありますが、実母のともも健在だし自分は母らしいこともできないという気持ちなのです。ねねは、播磨へ戻った方がいいかもしれないとしのの願いを聞き入れます。
まだ幼い秀保が郡山100万石を継ぎ、しのは播磨へ帰ったため、代わりにともが郡山城へ入ることになりました。なかは秀長の位牌に手を合わせていますが、あさひと秀長に先立たれた憂き目にも遭って、なかは長生きはしたくないとつぶやきます。これから何を見ることになるのかと、なかはともの手を握って涙声です。
秀長が没した知らせを受けて、家康はその死を悼みます。本多正信は秀吉が関白を辞任するのではないかと予測します。秀長が上手に秀吉の手綱を操ってきたからこそ秀吉は暴走しなかったわけで、手綱を取る者がいなくなれば──。秀吉にはねねがいるとはいえ、秀長と三成がことごとく対立してきた現状、秀長亡きあとは三成らが力を持つことになると思われます。「難しゅうなるのう」と家康は腕組みします。
確かに秀長の死は秀吉を変えていた。それまで公儀のことは秀長、内々のことには千 利休ありとまで言われ、秀吉の茶頭としても信頼の厚かった千 利休が、突然堺へ蟄居を命じられた。天正19(1591)年2月のことであった。
千 利休に蟄居を命じた秀吉に、利休は大事な人であったはずとねねは噛みつきます。利休の言い値で茶器の売買をして私腹を肥やし、大徳寺の三門の楼上に己の木像を安置したのです。「たかが茶頭の分際で!」と秀吉は利休を許せないのです。茶器の売買も世間が利休を認めたことだし、たかが木像だとねねは反発しますが、秀吉はねねの諫言を聞き入れようとしません。
ねねは、堺へ向かう直前の利休の屋敷を訪れます。ねねは利休に手をつき、秀長亡き後に秀吉の力になれるのは利休しかいないと訴えますが、利休は静かに、そんな自分が邪魔になったのだとつぶやきます。「すべて不徳の致すところ……じゃが、人が権力を持つということは恐ろしい。人を変えてしまいます」 諫めても聞く耳を持たないと利休は嘆き、秀長の後を追うとため息をつきます。
利休は、十日あまりを堺で過ごした後に、秀吉の命で2月28日、ついに切腹して果てた。それは最期まで己の説を通し、秀吉への厳しい反抗を示した死であった。
淀殿は、利休も切腹して少しは風通しが良くなると笑みを浮かべます。秀長は秀吉の名補佐役でしたが秀吉とは性格も考え方も異なっていて、せっかくの秀吉の力を削ぐことにもつながるわけです。それは利休にも同じことが言え、秀吉にもそれが理解できたのでしょう。「豊臣家のためには何より」と三成は真顔です。
秀吉は自分の思ったとおりにやると宣言します。そのために、自分に盾突く者には容赦するつもりはありません。ねねは、唐入りも(強行するのか)と秀吉を睨みますが、「わしを信じておればええのよ!」と居室を飛び出して行きます。ねねは愕然とします。
大坂に入った秀吉は、淀殿と鶴松と対面します。淀殿が、秀吉は日本に収まるような人ではないと持ち上げれば、秀吉は機嫌よく鶴松に、明国の国王に任ぜようなどと笑顔です。今の秀吉にはねねの反発がうるさすぎて敵わないのですが、淀殿が大坂へ来るように甘えて見せても、そう簡単にはいかない話のようです。
唐入りの話になり、病がちになって伏しているなかは、秀吉を大たわけと吐き捨てます。ねねに作ってもらった粥を口に運びつつため息をつきます。「天下人になど……なっていただきとうはございませなんだ」とつぶやくねねの言葉に、なかも頷きます。ねねはうつむき、豊臣家の今後を暗示しているかのようです。
その夏、ねねが孤独と不安の渦中にいるとき、追い打ちをかけるようなことが起こった。淀城にいた鶴松が急病で危篤になったのである。秀吉は大坂城にある金銀財宝を全て使って名医を集めるように命じます。秀吉と淀殿の必死の願いもむなしく、8月5日、幼い鶴松は息を引き取った。ねねは、鶴松の死で秀吉がまた変わってしまうと危惧し、なかは祟りだと手を合わせます。
ねねは鶴松の死が豊臣家の前途に暗いものをもたらすような、不吉な予感がしてならなかった。
天正19(1591)年8月5日、鶴松は淀城で死去。享年3、諡名(おくりな)は祥雲院殿。
慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、
あと11年6か月──。
作:橋田 壽賀子
音楽:坂田 晃一
語り:山田 誠浩 アナウンサー
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[出演]
佐久間 良子 (ねね)
中村 雅俊 (豊臣秀長)
神山 繁 (本多正信)
内藤 武敏 (千 利休)
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フランキー 堺 (徳川家康)
池上 季実子 (淀殿)
田中 好子 (しの)
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赤木 春恵 (なか)
長山 藍子 (とも)
西田 敏行 (豊臣秀吉)
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制作:澁谷 康生
演出:富沢 正幸
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『おんな太閤記』
第40回「たらちねの母よ」
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