« プレイバックおんな太閤記・(40)たらちねの母よ | トップページ | vol.303・ズボラ vs 几帳面 »

2023年9月12日 (火)

プレイバック徳川家康・(33)戦雲動く

天正19(1591)年12月、秀吉は関白職を秀次に譲り、自らは太閤となって大陸出兵の準備にまい進していた。徳川家康は大陸出兵には反対ですが、秀吉を助ける立場もあります。秀吉と軍議を重ね、日本を破滅させないよう向かわせたいところです。天海は戦に強く思慮がある家康に、秀吉に劣らない人柄を示して日本をまとめるよう諭します。「御仏はの、常により良い跡継ぎを広い視野で探しておわすと思し召せ」

そのころ、秀吉の命令で朝鮮半島の各地を巡回してきた博多の商人・島井宗室が帰国し、密かに堺にその姿を現していた。泉州・堺の納屋蕉庵の屋敷に入った宗室は、“朝鮮国王は秀吉の要求を納得した”という情報は偽りだと打ち明けます。対馬の大名・宗 義智と、堺出身の小西行長が、まさか秀吉が海を渡ろうとは夢にも思わずに交渉を進めているというのです。

朝鮮から渡って来た使者は、秀吉の日本平定の祝いに使者を寄越せといって来させただけです。明へ挙兵の際には先導を依頼する秀吉の書状も託しているはずですが、それも通じていません。つまり秀吉は朝鮮国王が先導を承知したものと思い、朝鮮では秀吉が機嫌を取って交易を望むと判断しています。日本の運命を左右する大掛かりな出兵が、行き違いのまま話が進んでいることに宗室はため息です。

どこで聞きつけたか、宗室が来ていると知って石田三成が訪ねてきます。大陸出兵は日本を滅ぼすもとだと考える三成は、これまでも秀吉に諫言してきましたが聞き入れてもらえず、宗室に助けを求めてきたのです。大陸の隅々まで見てきた宗室が秀吉に謁見するときに、出兵を思いとどまるように進言してほしいというのです。

宗室は笑ってその申し出を断ります。諫言して秀吉の怒りに触れれば切腹かお手打ちという責任を宗室になすりつけるとは、奉行も身勝手だと笑います。行長が命を懸けて出兵の先手を務めるなら諫言も厭わないという宗室に、三成は土下座して行長に先手を務めさせると約束します。そのやり取りを見ていた蕉庵は、黙って考え込んでいます。

大坂城に入った宗室は秀吉と対面します。秀吉は海を渡って釜山を攻略し、一挙に明へ攻め上ると考えていますが、宗室はそのようには事は運ばないと断言します。朝鮮は明と国交を結んで長年が経過しており、明を裏切って大軍の先導を務めることは考えにくいと進言するのです。7~8割は失敗すると見ている宗室に、秀吉は三成に宗室を斬るように命じます。

それでも宗室は、この場に居並ぶ秀吉の重臣たちが心底から大陸出兵に賛成しているのかと食い下がります。大陸に出兵するという大事となれば、重臣たちの結束が大事だと説く宗室は、いきなり出兵ということではなく、気長に交易を結んで明に進出するのが得策だと説得を続けます。宗室を睨みつけている秀吉は、小さく頷きます。

文字通り、命を懸けた宗室の言葉の中に、秀吉はこれまでの経緯(いきさつ)についてかすかな不審を感じ取った。しかし秀吉の動員はすでに下されていた。ここで中止したら天下の物笑いである。いま肥前の名護屋城は建造中だし、大軍は西に向かっていて、宗室が諫言した内容という話の次元はすでに終わっているのです。結局、秀吉は三成に宗室に蟄居を命じます。

こうした秀吉の意向が伝わってくると、この年50歳になった家康は、秀吉その人を決して大陸へ渡してはならぬという責任の重さをはっきりと自覚していた。長松丸改め秀忠が、秀吉の出発が明春3月1日に決まったという知らせを持って京から戻ってきたのは、12月17日である。

出兵の動員人数は28万人、これに小者や人夫の数を加えると100万近い人数が大移動することになり、家康が想像していたよりももっと大規模になりそうです。家康は5,000の手勢を率いて16番目に渡海し、秀吉の前衛を務めることになります。前衛であれば、秀吉に諫言し いざとなれば兵を返せる位置だと本多正純は報告します。

秀忠は関白秀次から弟と頼りにされ、よろしくお引き回しをと挨拶をしてきました。太閤秀吉と関白秀次とでは秀吉の方が圧倒的に能力が上と秀忠は考えていますが、劣る秀次に引き回されるのかと迫ります。もし海を渡った家康が討ち死にし、秀次から秀忠も至急渡海し父の仇を取るように命じられたとき、迷いながら領国を固めるために出陣はできないと何度も返答すると答えます。

相手も秀忠に負けずに何度でも言い返して来たら……。「どちらも一歩も後へは引き下がれぬ。その時、世の中に戦が起こるのじゃ」と家康は諭します。本多正信は、そのようなところへ追い詰められないように平素からの心掛けと隙を作らぬ用心深さが大事だと説明します。江戸の弟は迂闊なことを命じても聞き入れない男と思わせれば、相手も用心して命令の前には必ず相談してくるというわけです。

 

年改まった天正20(1592)年2月、家康は京に上った。秀吉は、今のうちに明を取っておかなければ、明も朝鮮も日本も南蛮人に奪われて奴隷制につながると危惧し、先の先を見通した上で大陸出兵に踏み切ったのです。そこで秀吉は、家康は国内にとどまって国内を抑えてもらいたいと言い出します。そして秀吉自身は先頭に立って全軍を指揮するつもりでいます。

家康は「殿下が先頭に立たれるような戦は、してはならぬ戦でございます」と反対します。今回の出兵では、万一苦戦となった時に家康が先頭に立ち、家康が赴いても討ち死になど不都合が起これば、日本に残る秀吉が撤兵を命じなければならない。家康の真顔に、秀吉は最悪の事態について話していると引きつりますが、日本を抑えられているのは家康のおかげだと秀吉は手を握ります。

 

京を発した秀吉が肥前名護屋城に到着したのは4月25日、そのころ大陸出兵軍第一軍に続いて第二軍も釜山に着き、朝鮮半島の各地で戦闘状態は本格化していた。蕉庵は我が水軍がどこかで敗北を喫していると「困ったことになった」と怒りを露わにします。堺を離れられない蕉庵に代わり、木の実に本阿弥光悦をつけ使いとして名護屋城に向かわせることにします。

そしてここにも、戦に心を痛めている女がいた。大政所は、異国の男たちが攻めてこられた時の恐怖を思い、秀吉に戦を止めさせようとねねを巻き込んで書状を送らせようとします。そこに秀次が、海を渡った水軍が散々にやられたことを報告し、大政所のパニックは最高潮に達し、胸を抑えて倒れてしまいます。

戦が長引くにつれ、朝鮮半島の各地で民衆の激しい抵抗が沸き起こり、戦局は次第に日本軍に不利な展開となってきた。三成のその報告に秀吉は激怒し、先頭に立って朝鮮を蹴散らすと言い出します。家康は秀吉をなだめ、自分に出陣命令をと願い出ますが、立場をなくした三成はそれより先に調査のために渡海させてほしいと願い出ます。秀吉と三成の固い握手を冷めた目で見ている家康です。

かくして秀吉は、石田三成・大谷吉継・増田長盛の三人を現地に派遣し、情勢と軍勢の執行観察に当たらせた。堺から木の実が到着したのは、そうしたころである。

秀吉は名護屋に滞在する諸将を「瓜売り」という瓜畑遊びをしてもてなしています。瓜を受け取った木の実は、武功あった武将に国を与え、それが足りなくなると異国の地を分ける太閤の剛腹さと瓜二つとつぶやきます。家康は木の実に駆け寄り、秀吉に無礼があってはならないとたしなめますが、秀吉は顔を引きつらせつつ、無礼講だからと笑って済ませます。

家康は、秀吉が名護屋にいればいよいよ戦は拡大してしまうと、武将たちで秀吉をどう送り返そうか思案していたのです。その手順の一つであった「瓜売り」を、木の実は一発で秀吉の気晴らしと暴いてしまい、企てがめちゃくちゃになってしまったわけです。蕉庵から家康に書状を届けに来た木の実は、秀吉の目を欺くためにしばらく家康の手下として名護屋に留まらなければならなくなりました。

木の実は、側室のようなことはできないと慌て、男に近づくとひきつけを起こす“持病”があると家康に伝えます。家康は男のなりをして男として仕えるように命じ、木の実の目の前で着替えだします。木の実は目を背けていますが、そこに光悦が飛び込んできて、大政所が危篤であると知らせが入り、秀吉はすぐに大坂へ戻ったと家康に報告します。

だが、大政所は秀吉が名護屋を出発した日の暮れ方に息を引き取っていた。秀吉は、母が案じる戦に没頭していた親不孝なせがれであったと大粒の涙を流します。ねねは、後のことは家康に託し、兄弟仲良く平和な老後を迎えるようにという大政所の遺言を伝えます。秀吉は、大政所の追善供養のため青厳寺の建立と伏見築城を発表した。だが、明の大軍が朝鮮半島へ向かったという知らせを聞くと、その秋には再び肥前名護屋へ下向した。

 

明と講和を結ぼうにも戦局を有利にした上でなければなりません。家康は今後の兵糧を心配し輸送船が不足していると報告しますが、黒田官兵衛は伏見築城に人夫を取られて船建造が思うように進まないと窮状を訴えます。しかし伏見城は講和の舞台であり、秀吉が侮られるような城であってはならないのです。家康は再度の戦況判断をするように勧め、士気に関わるからと秘密裏に進めることにします。

そこにねねから書状が届きます。ねねの便りは、今度の戦を新たな方向へ向けてしまうほど大きな出来事であった。茶々が再び身ごもったとの知らせである。書状に穴が開くほど見つめる秀吉は「わしにまた子ができた……新たなる運命の罠ではあるまいかのう」と打ち明けます。動揺を隠しきれない秀吉に、家康が祝辞を述べます。

水運の星が去って、再び朝が訪れる。そんな自信を掴もうとして、かえってそれが動揺の原因となる場合がある。年改まった文禄2(1593)年の正月、秀吉の意気は盛んであった。だが明の大将・李 如松(り・じょしょう)は、朝鮮軍と介して平壌へ攻めかかり、戦局はますます日本軍に不利な展開となってきた。小西行長が平壌で大敗し、形勢挽回をはかるため石田三成が混乱の前線から帰国したのは、その年の5月である。

「これ以上の戦闘は、わが軍にとって不利の一言」と三成は家康に報告します。家康は、三成も行長もそれは分かった上だったのではないかと詰めますが、すべては平穏に和議を結ぶためだったと三成は釈明します。ただ現にいま戦っている諸将たちは、その事実すら知らない者もいるわけで、加藤清正・小早川隆景・宇喜多秀家の諸将は撤退は無念と李 如松を破って大勢を立て直しています。

そこで、今が和議を結ぶ唯一の機会と三成が帰国したのです。秀吉も味方の不利は悟っている部分もあるようですが、それをそのまま表明できる秀吉ではありません。恥を忍んで家康に相談に来た三成には、すぐに秀吉に報告に上がるように勧めます。「この身も同道いたそう。ただし殿下に再び誤った判断を与えてはならぬために、御身の報告にひとつの偽りがあっても許せぬ。くれぐれも心得なされ」

ここでは戦争終結で意見の一致を見たが、この二人の男は後年、天下分け目の戦いと言われた関ヶ原で、その運命を分けていくことになるのである。


天正20(1592)年7月22日、豊臣秀吉が大政所危篤の知らせを受けて名護屋を出発するも、その出立の日に大政所が聚楽第で死去する。享年77。

慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、

あと10年6か月──。

 

原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
語り:館野 直光 アナウンサー
──────────
[出演]
滝田 栄 (徳川家康)
勝野 洋 (徳川秀忠)
紺野 美沙子 (木の実)
内藤 武敏 (本多正信)
本田 博太郎 (本多正純)
大出 俊 (本阿弥光悦)
──────────
武田 鉄矢 (豊臣秀吉)
鈴木 光枝 (大政所)
吉行 和子 (北政所(ねね))
入川 保則 (黒田官兵衛)
山内 明 (島井宗室)
──────────
鹿賀 丈史 (石田三成)
竜 雷太 (天海)
石坂 浩二 (納屋蕉庵)
──────────
制作:澁谷 康生
演出:松本 守正

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『徳川家康』
第34回「渦中の人」

|

« プレイバックおんな太閤記・(40)たらちねの母よ | トップページ | vol.303・ズボラ vs 几帳面 »

NHK大河1983・徳川家康」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« プレイバックおんな太閤記・(40)たらちねの母よ | トップページ | vol.303・ズボラ vs 几帳面 »