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2023年10月17日 (火)

プレイバック徳川家康・(37)窮鳥猛鳥

慶長4(1599)年正月末、無届の縁組を詰問してきた大坂からの使者を帰した家康は、その後有馬法印邸の猿楽見物に招かれていた。これは藤堂高虎の計らいで、集まった武将たちと家康が猿楽を見ながら歓談し、彼らの考え方や思惑を見定める集まりであった。福島正則や浅野幸長、細川忠興らが膳を楽しみながら猿楽を見、その表情も穏やかに見えます。

高虎は家康を別室に促し、茶を点ててもてなされます。家康が詰問使を追い返したことで石田三成も不利を悟り、諸大名も騒ぎの根幹は三成の画策にあると気づかされました。高虎は前田利家と直接会談を勧めます。そうなれば三成は窮地に追い込まれますが、家康は三成を敵とみなしていないし、急くと余計に事が荒立ってしまいます。高虎はしぶしぶ承諾します。「されどご身辺にはなお、くれぐれもご用心のほどを」

だが藤堂高虎の危惧は、事実となって現れた。夜の帰途、家康一行は何者かに襲撃を受けます。それらを蹴散らした時、加藤清正が屋敷までの道を有志で警護すると言ってきました。その話をありがたく受け、一行は夜道を急ぎます。秀吉の葬儀も済まぬうちにと、家康は三成の仕業に表情を曇らせます。

お袖と床を共にする三成ですが、その顔には汗が吹き出し、うーうーうなされています。ムクッと起きた三成にお袖は寄り添い、その身を案じています。三成にとって寝苦しい一夜が明けた。今や秀吉子飼いの武将たちからも孤立した三成は、自分が単独では家康と戦う力がないことも知っていた。そこでついに家康暗殺を企てたのだが、これにも失敗したのである。

朝を迎え、(刺客を)益体者が! と三成は吐き捨てます。お袖は島井宗室に命じられて送り込まれた女だと白状しますが、人には動けば動くほどに身動きならぬ泥沼に陥ることがあると、お袖は1~2年は耐えるよう諭します。その意見は遅いと三成はお袖の手を払いのけます。「いざ開戦となれば、太閤御恩の人たちが先を争うてこの三成に味方してくれるわ。矢はとうに弦を放たれてしもうておる」

三成は打倒家康の切り札として、前田大納言に全てを賭けていた。病床にある利家は辛そうにしながら、三成の志は世間から誤解を受けていると注意喚起します。清正や幸長らが秀吉の葬儀も済まぬうちから事を起こしては世間の物笑いと言っているわけですが、三成は秀吉の葬儀も済まぬうちに約定を破る家康を、断じて許すことが出来ないわけです。

秀吉に事後を託された三成が、窮地に堕ちていく豊臣秀頼を手をこまねいて見ているわけにはいかないのです。日本中の大名が家康にひざまずいても、三成は忠を貫きたい……。三成の忠義を褒めた利家ですが、戦うつもりのない利家は誓書を取り交わして穏便に済ませるつもりです。そして三成には独力で伏見の家康を攻めろと突き放します。三成は慌てて、過度な発言を謝し利家に従うと頭を下げます。

この一件は、前田・徳川両家の戦火を一番憂いていたねねの元にも知らされた。利家は誓紙を取り交わすにあたり、一切のわだかまりを解いておきたいと自ら家康屋敷の訪問を希望しています。太閤はよい友を持たれたとねねは涙を浮かべますが、秀頼側近の者たちが利家を担ぎ出して戦を起こそうとしている動きがあり、清正は自分や幸長、細川忠興に利家警護を命じるようねねに依頼します。

その上で、ねねは家康に利家への答礼を勧めるよう清正に頼みます。病気を押して会いに来る利家に対し、家康が返礼をすればねねの気持ちは静まるのですが、それがなければ大坂の巨頭・利家が、伏見の巨頭・家康に屈したと見られてしまいかねません。清正はねねの気持ちを汲み取り、家康に願い出ることを約束します。

前田大納言、伏見到着の日が来た。だが家康は両家の家臣たちの間に不穏な空気があることを察して、榊原康政・井伊直政のふたりを呼び寄せた。家康は、病を押してはるばるやって来る利家を出迎えに船着き場まで赴くつもりですが、康政と直政の家臣たちが利家に無礼を働けば、その責任として康政や直政を直接成敗するとくぎを刺しておきます。

大納言を乗せた前田家の船が到着したのは、未(ひつじ)の刻である。病の篤い利家の姿は、見るからに痛ましかった。利家は死を決して伏見へ来ていた。病の急変や家康の家臣に一刀両断に斬られることも覚悟の上だった。しかし家康は利家の病を案じて3人の医師を接待の場に用意させ、万全の気配りを見せた。付き添ってきた清正たち武将を同席させたのも、いささかの敵意もないという証であった。

利家は、先だっての対立は水に流したいと頭を下げると、家康も縁組のことを詫びて和解します。その席に神谷信濃守が入ってきて、家康から利家の側近くに控えるように言われたようで、利家は家康の心遣いに感銘を受けます。神谷信濃守は利家の最も信任の厚い前田家の家臣である。家康は、いらぬ疑いを民衆に与えないために答礼は秀吉の葬儀後になると謝し、必ず見舞いに大坂へ赴くと約束します。

この和解によって、伏見と大坂のわだかまりは一気に解けていった。だが三成だけは別であった。三成は誓紙に目を通しながら、秀吉の死後半年も経っていないのにと悔しさをにじませます。お袖は、三成がこのまま大坂に留まればその末路は、“幼少の秀頼をいいことに天下を取ろうと企てた極悪無残な謀反人”になると、その悪名を取らないように戦って散るよう鼓舞します。

 

慶長4年2月18日から29日にかけて、秀吉の葬儀は予定通り行われ、時代の歯車はまた一つ大きく動いた。家康と利家の和解が成り、天下の太平を望んだ秀吉の願いは叶えられるはずであったが、ここに再び新たな波乱が起ころうとしていた。家康が答礼のため大坂に来る──。これは、それをどう迎えようかという者たちの集まりである。

大坂・小西行長邸。幸長は恐らく前田邸で接待役、そして家康宿舎は高虎屋敷と判明し、行長は少人数を出し合っての襲撃を提案します。三成の心配は、家康が利家を欺いて三成派のあることないことを言いふらし、その所領を没収されてしまうことにあるわけです。前田玄以は家康襲撃に話が飛躍していると難色を示し、長束正家は玄以の意見を聞いてから我々の覚悟を考えたいと慎重に考えています。

この日、積極派は小西行長と宇喜多秀家の二人だけで、あとの全ては日和見であったが、二大老まで密談に加えたことで、三成は一段と自信を深めたのであった。
家康が前田利家の屋敷を訪れていたのは、ちょうどそのころである。

死期を悟ったのか、利家は家康に「今生のお別れの盃」と酒を注ぎます。思えば鎧の重い時代を過ごした二人にとって、最近は鎧は下せそうですが肩の荷が重い日が続いています。利家は秀頼と自分の子どもたちのことを頼むと頭を下げます。そこに三成が、利家の容態をうかがいに という名目で来訪します。おそらく前田邸に誰が来ているのかの調査と思われます。

家康が席を立ったのは、それからすぐのことである。だがその後利家の病状は急変した。ひどくせき込む利家の元に阿松が駆け寄ります。利家は、我が家の将来まで家康に頼んでしまい、三成も家康を襲撃しようと図っていて、家康が死ねばいいのにと願ってしまいました。それがあったのか、利家を見下ろす家康の幻影が見え、小刀を掴んで立ち上がります。

 

前田利家死すの知らせが三成の元に届いたのは、その翌日のことであった。前田利長はその訃報を持って大坂城に城し秀頼に報告しているようです。三成は今自分が登城すれば、清正はじめ北政所一派の武将たちに襲われるかもしれず、屋敷を固めるように命じます。しかし清正ら七将が三成襲撃を決したとのことで、上杉景勝・宇喜多秀家に屋敷を立ち退くことを伝えさせ、屋敷を脱出します。

それから小半時後、加藤清正ら七将の手勢が雪崩を打って三成の屋敷に踏み込んでいった。そしてそのころ、三成を乗せた小舟は夜の川をまっすぐに伏見へと向かっていた。屋敷に残ったお袖は、博多の島井宗室から話を聞いた浅野幸長によって、身柄を監禁されます。

伏見・徳川邸にたどり着いた三成を、本多正信は客間に通します。“上様にすがる”という表現に無礼だと腹を立てる三成ですが、大坂を発って伏見に向かっている七将がこの屋敷を取り囲んだら、客間に通して直接談判をと突き放します。三成は慌てて前言撤回し、正信は来客中の家康の様子を見てくると呆れながら出ていきます。

目もくらむような屈辱であった。だが何よりも三成は屋敷を脱出することで、当面の危機を乗り越えたのであった。家康は利家の死直後に争うようなことはさせないと三成を保護します。さっそく七将が到着し伝えに来る直政ですが、天下の仕置きを預かる家康が屋敷内で預かる三成との私闘を許すはずがないと叱責して追い返すように命じます。三成引き渡しを拒否したのです。

家康の態度は意外であった。そして三成は、これは初めから自分に見せようとして仕組まれた芝居ではあるまいかと、とっさにそう考えたのであった。七将はいずれも秀吉子飼いの武将たちで、家康が切腹させるわけにもいきません。これからについて考えがない三成に、家康は領地佐和山への引き上げを提案します。

三成は衝撃を受けますが、その言葉に従わざるを得ません。佐和山までの道中は七将に手出しはさせないと家康に約束され、三成は悔しさをにじませて涙を流します。涙とはうらはらに、三成は決して屈服しないと決意していた。そしてすべてを図られたとしか受け取れぬ三成の心を知るだけに、家康は何もかも空しくもどかしかった。


慶長4年(1599)年 閏3月3日、前田利家が大坂の自邸で病没。享年62、諡(おくりな)は高徳院殿。

慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、

あと4年──。

 

原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
語り:館野 直光 アナウンサー
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[出演]
滝田 栄 (徳川家康)
瑳川 哲朗 (前田利家)
内藤 武敏 (本多正信)
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武田 鉄矢 (豊臣秀吉)
吉行 和子 (北政所(ねね))
御木本 伸介 (毛利輝元)
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神崎 愛 (お袖)
伊吹 吾郎 (加藤清正)
鹿賀 丈史 (石田三成)
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制作:澁谷 康生
演出:高橋 幸作

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『徳川家康』
第38回「機は熟す」

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