プレイバック徳川家康・(39)関ヶ原前夜
慶長5(1600)年7月、家康は西の風雲をよそに、上杉討伐のため堂々江戸城を発進した。先陣の総司令官は秀忠、率いる数は37,000。本隊は家康自らが率いて、福島ほか外様大名29名、3万余である。
一方、安国寺恵瓊に説き伏せられ吉川広家の意見を退けた毛利輝元は、7月16日、西軍の総帥として家康のいた大坂城西の丸へ入った。そして石田三成の草案になる家康攻撃の檄文が評議決定されていったのである。「内府ちかひの条々」という書き出しで始まるこの檄文は、十三箇条にわたる家康不都合の列挙であった。秀吉没後の家康の行為すべてが、豊臣家の天下を盗もうとする陰謀だとされている。これはそのまま大戦趣意書であった。
石田三成はその檄文を淀に見せます。万一にも負けることはあるまいの、と淀は心配顔ですが、三成は自信たっぷりです。会津の上杉景勝が必死に徳川家康に当たっていけば、後詰の西軍との挟み撃ちで必ず消えていくというのです。それにあたり三成は、諸将の家族を監禁し、新たに西軍に加わった大名にも人質を差し出すように命じています。「伊達が人質を……やはり豊臣家は天下のお家じゃな」と淀は微笑みます。
家康討つべしの大義名分を確立した三成は、直ちに伏見城留守居の鳥居元忠に対し、城明け渡しの使者を送った。秀頼が伏見城を接収するという理由ですが、8歳の秀頼にこんな命令が発せられるのかと元忠はこれを断固拒否します。西の大軍が伏見城を取り囲んでもかと使者は脅しますが、元忠の返答は変わりません。「いささか三河者の手並みをお目にかけて進ぜましょう」
使者を追い返すと、元忠はすぐさま本丸の大広間に家臣を呼び集めた。元忠は改めて「死んでも死なぬ」という覚悟を、家臣たちに再確認します。この伏見城に籠城してどれだけ敵を引きつけられるかが、家康へ向かう軍勢を少なくできるかのカギとなるわけです。
果たして伏見城はその日のうちに続々と迫った西軍によって取り囲まれた。その数4万。それに対して城内の兵数はわずか1,800。双方の銃撃戦は次第に激しさを増していった。三成側から挑んだこの戦いは、その実、徳川方の断固とした挑戦であり、家康の厳しい決意なのである。
一方、小山に着陣した家康は、続々と早飛脚がもたらしてくる味方に不利な情報を、豊家恩顧の諸将たちにそのまま知らせていた。今回の企ては恵瓊のもので輝元ではないということは、毛利内部に内紛があるのは明らかです。しかし家康はこのことを伏せておきます。味方に不利な情報は流しても、有利な情報は流さない。戦が始まる前に知らねばならないのは真実であり、真の味方の力量です。
19日に火ぶたを切った伏見城攻めも、元忠たちの手厳しい抵抗に出会って5日が経過していた。これが西軍全体の戦意に影響することを恐れた三成は、ついに総攻撃の命を下した。かくて太閤普請の名城は、火矢・大筒・鉄砲の的となり、落城は時の問題であった。鳥居元忠、享年62歳。重臣から小姓小者に至るまで、文字通りひとりの生存者もなく伏見城は落城した。
その知らせは、直ちに家康の元にもたらされていた。家康は諸将を集め、この戦は秀頼のためと称しつつ三成が起こした逆心だと確認します。その上で、大坂に残した妻子のこともあって、この地を陣払いして秀家や三成に忠誠を尽くしたとしても、家康は恨まないと約束します。そこで元忠が守る伏見城も落城したと発表し、諸将に動揺が走ります。
しかし藤堂高虎はふた心ないと主張し、福島正則も命を懸けて徳川に味方すると宣言します。ほかの諸将も、我先に「それがしも!」「存亡を共に!」と言い出します。家康は諸将の心をありがたく感じつつ、「会津に攻め入り、その後に大坂へ発進すべき」か「会津を捨て置き、直ちに大坂へ向かうべき」かを諸将に諮ります。
正則は、上杉は枝葉に過ぎず、根本は石田・大谷・宇喜多の野心であり、上杉を捨て置いて即刻大坂へ急ぐべきと主張します。山内一豊は、掛川城を家康に預けると言い出します。城を預けるということは人質徴集などとは比較にならぬ鉄壁の信頼である。かくして軍議の大勢は決した。
次は、上杉にどう対処して返すかの問題である。家康は次男結城秀康に、この残留司令官を命じた。上杉に勝つ総大将は並の者には務まりませんが、実戦経験がない秀忠では心もとなく、秀康であれば秀吉と家康を父に持つ武門の子であり、上杉に対しても盤石の構えを見せられると期待しての命令なのです。秀康はそれを聞き、喜んで小山に残ることにします。
謙信以来の弓矢の前に立ちはだかる。それがどのような危険をはらむ大事かは、秀康より家康の方が知りすぎるほど知っていた。そして慶長5年7月28日、上杉征伐のため東上していた軍勢は陣払いし、西へ引き返した。家康もとりあえず江戸へ向かったのである。
一方、西の三成にとって、思いがけない事件が勃発した。人質として城内に拉致しようとした細川忠興の妻であり、熱心なキリスト教信者であるガラシャ夫人が、命を絶ち炎の中でその身を焼くことを家臣に命じた。彼女の抵抗は諸将の留守居を奮い立たせ、迂闊に手を出すとみな自害しかねない空気を作り出してしまった。三成の人質戦略は失敗したのである。
三成は恵瓊を呼び、戻って来る家康を濃尾平野で討ち取る考えを明らかにします。それには清須城の正則を味方にしておく必要がありましたが、今では徳川方の巨大な存在です。恵瓊は岐阜を固める一方、伊勢にも別動隊を配して清洲と家康を遮断する策を提案します。三成はその陣頭に輝元を立てたいと伝え、恵瓊から輝元に説得してほしいと依頼するのですが、恵瓊はそれを遮り、心配しないように微笑みます。
かつて秀吉と家康が雌雄を争った小牧山の近くで、今度こそ天下分け目の戦いが決せられる。両軍の総大将は徳川家康と毛利輝元、だが歴史の主軸を握っているのはどこまでもこの自分自身なのだと、三成は確信していた。
京・三本木のねねの隠居所では、徳川軍が続々と西に引き返しているとねねはお袖に伝えます。お袖は三成らしい最期をと勧めながら、これほど大きな火になったことをねねに詫びます。戦とはそういうものじゃ、とねねは表情を変えません。「誰が本当に若君のお味方なのかの。亡き太閤の志をしっかりと受け継いでおわす内府が西軍に勝ってもらわねば……それが真の天下のため、泰平のため、豊臣家のためゆえな」
だが江戸に着いた家康は、なぜか西に向けて進発するとは一言も言い出さなかった。また、味方の諸将が福島正則の清須城に到着したという知らせがあっても、岐阜の織田秀信が敵方に呼応したと知っても、なぜか家康は腰を上げようとはしなかった。清須城から家康の進発を促す使者が続けざまに何回も到着した。しかしそれでも、家康は依然として動かない。
松平忠吉は家康に西進を迫ります。家康は、今回の騒動に対しての自分の態度が、私情による穢れた野心のものではなかったかと思い返しています。私情や野心の戦には無理が含まれ、それはいつか崩れてしまう。諸将が味方したのは家康の実力を知っているからで、家康が采配を振るえば、諸将は家康によって戦わ“され”ます。采配を振るうべきは泰平を築こうとする万人の意志でなければならないのです。
ただ、清洲からの催促に対しては遣いを出さなければなりません。家康は村越茂助を遣わします。茂助は人前で満足に口も聞けない男ですが、余計なことは言わない性格を家康が買ったのです。村越茂助が江戸を発った翌日、西軍もまた宇喜多秀家が1万の兵で、小早川秀秋が8,000の兵を率いて大坂を発し、近江に着陣した。従って茂助が清須城に到着したとき、城内の空気はただならぬものがあった。
いつ家康が出立するのかと汗だくの茂助に迫る正則ですが、正則は家康の口上として、諸将が家康の臣下であれば家康は一つひとつ指図するだろうが、臣下はなく味方であり、なぜ手をこまねいているのかと伝えます。なるほど! と正則は合点し、浅野幸長も自分たちの意志で行動すべきだと発言。諸将も立ち上がって出馬していきます。清須城の空気は一変し、たちまち進撃へと活気が沸き上がった。
そしてその報告を受けるや、家康は直ちに秀長と正信を呼んだ。家康はついに出馬の準備に入ります。家康は東海道を西進し、秀忠には中山道を来るように命じます。意外そうな表情を浮かべる秀忠ですが、家康は命令だと言い聞かせます。そして正信には榊原康政とともに秀忠を補佐させます。「ただし進軍は……できるだけゆるりとな」
一方、石田三成も佐和山の居城から兵を率いて、大垣城に進出した。そこで島津義弘・小西行長と協議の上、総大将の毛利輝元を大坂から引き出して、岐阜に進もうというのである。だが、三成からの激しい督促にも関わらず、輝元は養子秀元から手厳しい反対に出会っていた。
秀元は、どうしても三成に呼応して出陣するというのなら秀頼を伴うように求めます。秀頼出馬となれば三成に反感を抱く諸将も手向かうことはないわけで、このままでは三成への恨みがそのまま毛利に振り替えられると危惧するのです。輝元は反論できず、うーんと考え込んでしまいます。
毛利輝元が大坂城を動くに動けない中、清洲を怒涛の如く発した東軍は一気に木曽川を押し渡り、岐阜城に進撃。福島正則の手勢を先頭に、たちまちこれを押しつぶしていった。8月22日である。村越茂助の清洲到着4日目にして、西軍の最重要前線拠点・岐阜城は、東軍の手中に収められたのである。そして石田三成は岐阜城の陥落後、その夜 大垣城で知らされた。
大坂城の輝元は未だ出て来ず、長盛には東軍への内通の噂もあります。三成はいやでも自分が前に出ていかなければならないと心を固めます。左近は、初めから家康との一騎打ちだったのだと笑って三成の背中を押します。
9月1日に江戸城を発った家康が、東海道を通って清洲へ入城したのは9月11日。初陣の四男松平忠吉が同行していた。本多忠勝は秀忠の着陣はいつごろかと尋ねますが、中山道は悪路ゆえ相当かかろうとニヤリとします。家康の考えでは、秀忠着陣前に戦を仕掛けるつもりです。自分がもし戦死しても秀忠が跡を継ぎ泰平の世を築かせねばならないという意味で「ゆっくり来い」だったのです。
それでも秀忠率いる本隊を待つべきと忠勝は食い下がりますが、いま清須城にある徳川軍で戦えば、後からやって来る徳川本隊はそのまま手付かずで残る形になります。「今度の戦は、勝つだけでは済まぬ戦なのじゃ」 勝った後も天下の乱暴者にびくとも言わさぬ余力を残しておかなければならない。すべては後の泰平のため、と諭されます。
慶長5年9月14日、西軍司令部である大垣城の近く 赤坂に、家康が到着した。大垣城では家康は江戸にいるという認識でしたが、家康の旗印を見てようやく家康の着陣を認めるありさまです。東軍が佐和山を突き、一気に大坂へ攻め入る作戦と知り、三成は大谷吉継が戻って来次第、島津義弘を含めて軍議を開くことにします。その吉継は松尾山の小早川秀秋の陣に赴いています。
松尾山は関ヶ原の西南にあって、ここに登るとその周辺は全て見通せる。“金吾中納言”こと小早川秀秋は三成との軍議も持たず、この松尾山を勝手に陣屋と決めていた。秀家はじめ6名の連署で、秀頼が15歳になるまで秀秋に関白職を譲るとあり、吉継は秀秋に去就を誤らないように念押しします。秀秋の重臣・平岡頼勝は、我らの戦をご覧あれと返答し、安堵した吉継は帰っていきます。
「わしを関白にして、毛利や石田は何になる気であろうや」 フンと鼻で笑う秀秋を頼勝はたしなめます。東軍よりも西軍の方が恐ろしいとの頼勝の助言にも関わらず、秀秋は情勢を見てから判断するという態度を崩しません。松尾山に陣取った この懐疑主義者の進退は、諸刃の剣となって不気味に東西両軍の陣営を睨んでいく台風の目となっていた。
松尾山の秀秋だけではなく、長束正家も恵瓊も南宮山の南に陣取って日和見の様子です。どちらにしても籠城は不利とみて、三成は明日、野戦に勝負をかけたいと相談します。義弘は、東軍よりも機先を制するためには、本日着陣したばかりの家康を夜襲で負かすしかないと提案しますが、小勢で大勢にあたるときの戦法だと左近に遮られます。案を聞き入れられず、義弘は軍議の席を蹴って出ていきます。
島津義弘の献策は涙が出るほど嬉しかったが、三成にはそれに応える自信がなかった。今や西軍の中で信頼できるのは大谷・宇喜多・小西の3将だけである。その情勢の中で夜襲はできない。実は左近も夜襲に賛成だったわけですが、三成はうまいエサで人を釣って味方につけさせるやり方の破綻を感じています。「わしが心で卑しめていた者はことごとくわしを裏切ろうとしておる。その武将らを頼りにせねばならぬとはの」
9月15日午前3時、西軍108,000に対する東軍75,000の配置はすべて完了していた。東軍は西軍の包囲の中に乗り出した配置になっていて、西軍は東軍を絞り切る作戦です。絞り切られたら東軍は全滅し、逆に西軍は東軍に正面を突破されたら収拾できないほどの混乱に陥ると家康は見ています。そこで家康はあくまでも関ヶ原を突破して、三成の本拠である佐和山城を突いて大坂を目指すと宣言します。
背後は毛利勢の南宮山、左前方 松尾山には小早川秀秋。戦況次第ではどちらへも寝返ろうという勢力を感知しながら、ついに家康の旗印が立った。「厭離穢土 欣求浄土」 19歳にして初めて立てたその旗は、今59歳の家康に同じことを問いかける。この戦、果たして欣求浄土の戦なりやいなや──と。それは家康が戦うたびに、自分に問いかける言葉であった。
慶長5年(1600)年9月14日、徳川家康が赤坂に着陣。島津義弘が家康本陣への夜襲を提案するも、島 左近が反対し三成がそれに従う。
慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、
あと2年4か月──。
原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
語り:館野 直光 アナウンサー
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[出演]
滝田 栄 (徳川家康)
夏目 雅子 (淀君)
勝野 洋 (徳川秀忠)
内藤 武敏 (本多正信)
本田 博太郎 (本多正純)
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吉行 和子 (北政所(ねね))
田崎 潤 (島津義弘)
御木本 伸介 (毛利輝元)
高岡 健二 (本多平八郎)
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神崎 愛 (お袖)
川津 祐介 (島 左近)
鹿賀 丈史 (石田三成)
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制作:澁谷 康生
演出:大原 誠
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『徳川家康』
第40回「関ヶ原」
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