プレイバックおんな太閤記・(47)関ヶ原前夜
秀吉が没して半年。豊臣政権は前田派と徳川派に分かれて、早くも一色即発の危機を迎えていた。嵐の中、大坂城西の丸ではねねが木彫りの仏像に色付けをしています。孝蔵主が、前田利家が重体であると知らせに来ると、来る時が来たかという表情のねねは、出かける支度を命じます。
利家危篤の知らせは淀殿の元にも届いており、利家まで亡くなったらと心配ですが、利家とねねの癒着を持ち出す石田三成は、徳川家康を討てる機会を逃したのも、戦を好まないねねの影響があると快くは思っていません。利家が亡くなればねねの後ろ盾もなくなるわけで、家康を今のうちに成敗しておくことも考えておく必要があります。淀殿は三成だけが頼りです。
前田家大坂屋敷にはねねの姿がありました。利家は対立していた家康と和解し、家康も利家を見舞いに訪問するなどして、心労が重なってしまったようです。利家は、自身の容態が変わったことで再び争いの火種になることを恐れ、重体であることは口外しないようにしていましたが、まつはねねにだけこっそりと教えてくれたのです。昔から恩のあるねねは利家の世話を買って出ます。
ねねとまつが寝ずに付き添って3日後、利家は床を出て起き上がり青空を見上げています。意識が戻ったとねねとまつは驚きますが、利家が夢の中で見たのは、秀吉が自分を何度も呼んでいる場面でした。秀吉はあちらの世界で、話し相手が欲しくて寂しがっているのかもしれません。
利家は自分の没後は家康と三成が必ず雌雄を決し、全国の諸大名も家康に味方する武将、三成に与する武将に分かれると断言します。戦は避けたいねねですが、信用できない相手と誓紙を何百枚取り交わそうと無意味と諭します。「豊臣家を取られるか天下の平和を取られるか」と利家はねねを見据えます。力の強いものが棟梁になる群雄割拠の時代、それを見極めるのが政所としてのねねの役割である、と。
慶長4(1599)年 閏3月3日、前田利家は英雄秀吉の後を追うようにこの世を去った。62歳であった。ねねとおまつは今や頼る人とてなく、押し寄せてくる時代の荒波にさらされることになった。そして翌3月4日──。
秀吉に恩顧を被った加藤清正ら七将が、利家が亡くなった夜に石田三成の大坂屋敷を襲撃する事件が勃発します。三成は宇喜多秀家屋敷に避難するも、その後の消息は不明です。皮肉にも利家が推測した通りになってしまい、ねねは悔しさをにじませます。利家という重しがなくなった途端にこのザマと、ねねはこの先どうなっていくのかと悲観に暮れます。
前田邸に集まった七将は、三成を討ち損じたことを「無念」と頭を垂れますが、ねねは怒りにこぶしをわなわな震わせます。甥の浅野幸長は三成にあらぬ讒言を受けた恨みもあり、しかし利家の手前 我慢に我慢を重ねてきましたが、利家の訃報に接して決起に加わったわけです。ねねは、五奉行のひとり浅野長政の嫡男であればみんなを丸く収めるのが務めと叱りつけます。
彼らは豊臣家と秀頼を守ってくれるのはねねと家康しかいないとの思いが強く、三成であれば豊臣家を滅ぼしかねないとねねに訴えます。ねねは衝撃を受けますが、そこにまつが、三成は家康に庇護を求めて伏見の徳川屋敷に入ったと駆け込んできます。今すぐ徳川屋敷に赴いて三成の身柄を引き取ろうと話し合う七将ですが、なりませぬ、とねねは低い声で答えます。「家康どのにご裁量をお任せするのが筋」
徳川屋敷に入った三成を本多正信が応対します。ここで討ち取られるわけにもいかず、豊臣家を守る役割の者として自分を助けるのが当然という態度に、話を聞いた家康は切羽詰まったかと苦笑いです。正信は三成を討つ好機と膝を進めますが、家康は逃げてきた三成を斬る理由がないと首を縦に振りません。天下欲しさに三成を討ったと見られ、いたずらに敵を増やして天下を乱すもとになるわけです。
それでもと食い下がる正信を急くなと制止し、家康は文机に向かいます。確かに三成を放免すれば今度は七将たちに反感を持たれ、家康は味方を失いかねません。世の中を騒がせた罪はあると、三成を佐和山へ引退させるのはどうかと正信に提案します。三成嫡男の石田重家が成長したときには奉行にするということを条件に説得する──。家康はニヤリとします。
家康に佐和山引退を勧められ、三成は反論せずそのまま受け入れたという結末に、淀殿は衝撃を隠しきれません。家康に討たれてもおかしくないところ、佐和山へ引退と収まっただけでもよしとしなければと大野治長は説明しますが、三成はこのまま引き下がるような男ではないとの発言に淀殿も頷きます。「そうじゃ……生きてさえいてくれたら」
大坂城西の丸の庭にしゃがみこむねねは、三成が佐和山へ追われ利家は亡くなり、何が何だか分からなくなったとこぼします。「三成を見損のうたわ」という秀吉の声が聞こえると、秀吉が三成を重用するからこんなことに! と愚痴も出て来ます。ねねがハッと気づくと秀吉がニッコリ微笑んでねねを見ています。
豊臣家には譜代の家臣がおらず、みんなが力のある者を選ぶだろう。豊臣家や秀頼のこともなるようにしかならない。秀吉は、力がある者が天下を取れば戦にはならないとねねを諭します。力がある者とは一体誰か。それはねねが決めることです。ねねと秀吉で作り上げた豊臣の未来はねねが決めるしかないのです。「おかかは無欲じゃ。子がおらぬからの。それが強みじゃ。おかかならば間違いはないわ」
閏3月13日、家康は伏見の屋敷から伏見城に移り、名実ともに天下の第一人者として君臨することになった。そして同じ年の9月には、傅役の利家に代わって秀頼を補佐するという名目で、大坂城へ乗り込むことを宣言した。家康は伏見城とともに大坂城をもその手中に収めようとしていた。
長政は思いつめた表情でねねの居室を訪問します。家康の大坂入城を拒否できるのはねねしかいないと必死の説得です。しかしねねは、いま家康と争えばそれこそ豊臣家が危うくなるわけです。「わたくしは、この大坂城を家康どのにお譲りするつもりじゃ」というねねに、長政は愕然とします。時の流れには逆らえず、今はただ穏便にと、ねねは長政を諭します。
しかしねねの必死の願いも裏切られた。慶長4年9月9日、浅野長政と大野治長が大坂城に登城する家康を襲撃しようとして失敗したのである。慌てるややはねねの居室に赴き、長政のとりなしをねねに頼みます。あれほど事を構えるなと言ったのにとねねは哀しみますが、ともかく家康に目通りを求めるしかありません。失意のまま立ち上がるねねに、淀殿が対面を求めてきます。
家康が大坂城に入れば豊臣家は家康の思うつぼだと淀殿はねねに訴えます。ねねは淀殿の訴えを「心得違い」と一蹴します。これからの豊臣家は家康の力添えがなければ生きてはいけないと、ねねは誰よりも感じ取っていたのです。家康が守ってくれれば諸大名も黙って従うわけで、家康を敵と思ってはならないとねねは淀殿に言い聞かせます。「それが豊臣と天下を守る私どもに残されたたった一つの道じゃ」
やがてねねが大坂城を去る日が来た。落花の音に見上げると、木の枝に秀吉が腰かけてねねに微笑みかけています。大坂城は長浜城に次いで思い出深い城ですが、秀吉のいない城暮らしに何の未練もなく、秀吉との思い出を胸にもう二度と大坂城へ戻ることはないでしょう。大坂城では天下がどうのこうのと頭の痛いことばかりで、ねねは少し疲れてしまったようです。
大坂城を出るからと言って秀頼を見捨てるのではありません。ねねは一歩引いたところから成長ぶりを見守っていくつもりです。家康を盛り立てて天下が収まれば、大坂城をやっても惜しくはないと秀吉は笑います。秀吉の姿も消え、孝蔵主がねねを呼びに来ました。「ご出立の刻限にございます。お心うち、お察し申し上げます」ねねは静かに、京都三本木に移っていった。
一方家康は、ついに慶長4年9月28日、念願の大坂城入りを果たした。そして10月2日、家康襲撃を図った廉により長政に武蔵国府中へ蟄居、治長にも流罪を命じた。そんなときねねの屋敷を家康が訪問し、ねねは困惑しながら家康を迎え入れます。
家康はねねの身を案じますが、ねねはそんなことよりも秀頼と豊臣家のことをと頭を下げます。大坂城西の丸に入る意味を家康はしっかりと理解しているつもりです。秀吉の遺志を継いで秀頼のために働くつもりであり、ふた心はないとねねに誓います。「浅野長政どのの仕儀はさぞご心痛のことと存じまするが、いずれ良い時を見てええように取り計らう所存」
しかし、大坂に戻った家康は諸大名をそれぞれの領国に帰し、五大老五奉行制度を有名無実なものにしていった。ねねは家康の心中が測り兼ね、不安であった。木彫りの仏像を彫っていたねねは手を滑らせ、小刀で指を傷つけてしまいます。その出血が仏像の目のあたりから下に流れ、まるで仏像が血の涙を流しているように映ります。ねねの平和への祈りも空しく、天下は思いがけない方向へ大きく揺れ動こうとしていた。
慶長4年(1599)年10月2日、徳川家康は浅野長政を隠居の上、徳川領の武蔵府中で蟄居させ、大野治長は下総国の結城秀康のもとに追放する。
慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、
あと3年4か月──。
作:橋田 壽賀子
音楽:坂田 晃一
語り:山田 誠浩 アナウンサー
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[出演]
佐久間 良子 (ねね)
西田 敏行 (豊臣秀吉)
浅芽 陽子 (やや)
尾藤 イサオ (浅野長政)
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音無 美紀子 (まつ)
池上 季実子 (淀殿)
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神山 繁 (本多正信)
滝田 栄 (前田利家)
フランキー 堺 (徳川家康)
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制作:澁谷 康生
演出:佐藤 幹夫
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『おんな太閤記』
第48回「豊臣家の岐路」
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