プレイバック徳川家康・(38)機は熟す
天下は大きく割れかけていた。慎重と堪忍の家康をしても、時の流れは止まらなかった。その家康が伏見城に入城したのは、石田三成が無事に本国佐和山城へ入って6日目のことである。この入場を、京・伏見の市井の人々は、家康が三成を助けたのはこの取引があったとか、いや家康が天下を取る気になったのだと、明らかに三成びいき、家康びいきがうずまいている。その渦中を光悦は気になる情報を胸に秘めて、一路家康の元へ急いでいた。
その家康は、三成のことは無論、天下の情勢を逐一吟味していたが、その心中はほぼ固まりつつあった。家康が近々伏見から大坂城に移るというウワサがあり、その途上を討ち果たそうという前田利長の企てがあるようだと本阿弥光悦は報告します。家康は、そのウワサは長束正家や増田長盛あたりから出たものだろうとニヤリとします。
そういったウワサが出る第一の原因は家康自身にあり、秀頼補佐という与(あずか)りものを潔く与らなかったからだと家康自身は見ています。今回、正家や長盛ら奉行衆から大坂城内の乱れが目に余るので、その監督を頼みたいとの申し出があり、家康がこれを拒めば「地位・身分・財力・天下」という与りものに対して不忠であるとなります。「それゆえわしは、いよいよ大坂城へ赴くことに決めた」
これを聞いて一番狼狽したのは、石田三成と密接なる連絡を持つ増田長盛と長束正家であった。正家と長盛が、家康の大坂進出を阻もうと流したウワサの逆を取られたわけです。ふたりがどうしようどうしようと焦っている間に、家康は大坂に到着してしまいました。ふたりは慌てて、自分たちが家康の味方であると信じ込ませるために動くことにします。
家康の大坂宿舎を訪問したふたりは、大坂入城時に家康を暗殺する企てを、利長が浅野長政や大野治長と企てていることを伝えます。その成功を利長は金沢で待っているとなれば、家康はそれを討つために金沢へ出向きたくなるわけで、出て行ったそのスキに三成が大坂と伏見を占領するという、これが三成の筋書きです。家康は少しも動じず、ふたりを帰すと家臣たちを緊急で招集し打ち合わせます。
9月9日、大坂城へ登城した家康の供は、本多忠勝・井伊直政たちである。本丸への桜の御門は、これまでに他家の家臣をこのように大勢通したことはただの一度もない。通行は家康と側衆のみと番士が慌てて家康たちを引き止めると、みな側衆だから案ずるなと言って、家康はそのまま素通りしていきます。
無法といえば、これほど無法はない。たちまち本丸の中に狼狽と殺気がうずまいて走り抜けた。すでに本丸玄関には家康一行の姿はなく、正家はすべての部屋を改めるように命じます。その間、本丸お台所にある名物大行灯を見物する一行ですが、侍たちが家康たちのところへ駆けつけると、家康は涼しい顔で、秀頼の御前へ案内するよう伝えます。
秀頼と淀、主だった家臣たちが居並ぶ前で家康は、大坂城内に風紀の乱れがあるという長家らの発言を受けて入城をしたと告げます。警護に手落ちがあったというのかと長政は反発しますが、家康は風紀の乱れがあると言ったのは長束らだと一蹴します。さらに“真偽のほどは知らねど”と断ったうえで、家康暗殺の企てを持ち出すと血相を変えて否定する長政に、真偽は知らぬと突き放します。
ただ、難攻不落を誇る名城・大坂城で別棟のお台所に行くまで、責任者の静止もなければ問いただしもなく、秀吉が存命であればどれだけ嘆くことかと、家康はこんこんと説きます。「この家康決意いたしました。長束・増田ご両人の声を入れ、若君のお側にあって政務をとりまする」
泰平こそ秀吉の遺志というねねに従って動いてきた甥の長政ですが、長束らの讒言に足元をすくわれてしまった形です。家康はついに覚悟したのだとねねは悟り、大坂城を捨てることにします。天下の名城は秀吉がいれば日本の泰平の印でしたが、今や天下を狙う者たちの野心をそそる目印の塔と変わってしまったわけです。ねねは長政に、後は嫡子幸長に任せて甲斐で謹慎することを勧めます。
家康はもともと浅野家や前田家を敵にするつもりはなく、いよいよ三成と一戦を交える覚悟を固めたようです。ねねが大坂城を退去するにあたり、三成が反抗心を捨ててはくれないだろうかという念願があります。三成が執念を捨てない限り、秀吉子飼いの武将たちが二派に分かれて殺し合う結末が見えて、ねねにはそれが哀しいわけです。
それから間もなく、北政所は京の三本木に居を構え、浅野長政も甲府へ行った。そして石田三成は側近の島 左近と佐和山近くで会っていた。三成はねねの心中を測り兼ねていますが、ともかく家康とともに天下を動かすつもりはありません。家康と戦になった時に味方してくれるよう、しっかりとした布石を打っているわけです。左近はお袖をねねのところへ送り込み、場合によっては手にかけることを三成に献策します。
七将の手により保護されたお袖のもとに、密かに届けられた手紙は三成のものであった。三成に誇りある自滅を願って戦を決意させたお袖が、長者以上の役目を引き受けようとしていたころ、金沢の前田家に対し当主利長の母・阿松を江戸に差し出すようにと家康からの命令が届いていた。
前田家は家康の臣下ではないと利長や前田利政は反発します。家康のその挑戦に、利長はその挑戦を受けると鼻息荒いです。ねねはふたりの息子をなだめ、かつて秀吉も生母を岡崎へ送ったことを持ち出し、天下泰平のためならば喜んで人質になると、江戸へ行く覚悟を固めます。実はこの阿松の覚悟の裏には、昔なじみのねねの働きかけが存在していたのである。
家康にとっていよいよ毛利や上杉の去就が問題になってきました。毛利の動向は掴んでいる家康ですが、城郭補修や道路整備に精を出しているらしい上杉が、これからの天下についてどう考えているのか、会津へ転封されたばかりの上杉のことはハッキリとは分かっていません。秀頼名代として、城郭整備が反乱のためかどうかの取り調べのために上洛を促してみることにします。
その上杉景勝には直江兼続という重臣があった。家康は景勝よりこの兼続の動きに注目していたのである。兼続は大坂からの使者を叱りつけて拒絶するように進言します。三成のことがある以上、家康は上杉攻めのために大坂を留守にするわけがないのです。「ここは断固として謙信公以来の上杉家、家康連れの末座につくものではないことをハッキリと天下に示しておく絶好の機会」
一戦も辞さぬ覚悟の上杉家上洛拒否の返書には、家康を非難する激しい言葉が連ねられていた。世にいう「直江兼続弾劾状」である。家康は諸大名を集めてこの書状を公にした。家康は上杉の罪は重いと征伐の準備に入ることを宣言しますが、戦は我々の手でと言う加藤清正や福島正則らをなだめ、小田原征伐を前例に挙げ、秀頼補佐役の自分が陣頭指揮に立つと譲りません。会津・上杉征伐は決定した。
ねねの屋敷を訪れた光悦が、三成は上杉と徳川を戦わせたがっていると言うと、ねねは表情をゆがめます。ともかくねねには、秀頼の行く末が案じられてならないのです。ねねは思い出したように手を叩いて人を呼ぶと、侍女がやってきました。顔を上げると、光悦は思わず「あっ」と声を上げそうになります。左近の提案で三成によってねねの元へ送り込まれたお袖だったのです。
三成に送り込んだお袖が、今はねねの屋敷にいる。奉公の決意をさせたのは三成だったと打ち明けるお袖は、いざという時はねねを刺せとの命も受けています。お袖は浅知恵で三成に家康と戦うように仕向けましたが、それは家康が上杉討伐に出た後の、大坂に残った家康方の武将の妻子を三成が人質にとることであり、何の罪もない人たちを生き地獄に送り込むことだと気づき、罪滅ぼしをしたいとこぼします。
家康の行動は活発であった。諸大名の動向を調べ、上杉征伐の準備は強引に進められた。そして家康は会津攻撃は7月と決め、初めて大坂城内で軍議を開いたのは慶長5(1600)年6月2日のことであった。無論まだ、敵味方入り混じっての同席である。家康は自分が決めた配置について諸大名に発表します。その名に場に居並ぶ者たちはザワザワし始めます。
唖然となったのは、同席の諸侯全員である。会津の重要な攻め口に配属されたのが、全て三成側と目されている大将だったからである。その上、大坂城の留守居に命じられたのがまた、前田玄以はじめ増田・長束の三成側三奉行で、奉行のうち出陣を請われたのはすでに不治の病に侵されていた大谷吉継ひとりであった。
京も大坂も慌ただしい戦雲に包まれ、総大将として家康が準備完了したのが6月15日。翌16日、家康は手勢を連れて伏見に向かい、浅野・福島たち大名もそれぞれ兵を連れて、江戸へ集結すべく出発していった。家康の大胆な決断によって、きれいに大坂は空となった。その報告を受けた三成は、ついに決意を固めます。
そして家康は伏見城で、鳥居元忠と最後の別れを惜しんだ。駿府人質の少年時代から50年、ふたりの間には兄弟以上に共通する思い出があった。だがこの伏見城は、戦になれば真っ先に炎に包まれる運命にあった。元忠は家康と盃を交わすと、この世に思い残すことはないと笑います。家康が必ず天下を固めなおしてくれるという家康への信頼です。家康は元忠の手を握ります。
7月11日。一方、石田三成は手勢を連れて江戸に向かおうとしていた大谷吉継を、必死の思いで佐和山城に呼んでいた。三成は家康が考えた通りに挙兵し、反家康派の武将たちと戦ってみたいと、自分に命を預けてほしいと吉継に頭を下げます。三成では反家康の柱になり得ないと考えた吉継は、毛利を味方につけて動かすことを条件に三成側につくことを約束します。
諸将の軍勢が続々と会津に向かった19日、江戸に到着した家康へ、急使が 毛利輝元を総大将として三成と大谷吉継の大坂城入城を知らせてきた。家康がいる居室へ結城秀康が急ぎ足で駆けつけ、大坂の情勢を聞きすぐに西に取って返さねばと諫言します。結城秀康──お万が生んだ家康の次男で、秀吉の養子となった於義丸である。
しかし家康は動じません。それどころか大坂の様子は逐一諸侯に知らせる段取りすらとっています。三成は大坂に残した諸侯の妻子を人質にとることは目に見えているわけですが、家康はそれによって去っていく諸侯と家康に従う諸侯とをふるいにかけ、見極めたいわけです。「選ばれて太閤亡きあとの天下安定のために働く。この使命は盤石よりも重いと知れ! もはや諫言は無用にいたせ」
7月20日。戦の目的を鮮明に告げた家康の元に、川越喜多院より師・天海が訪れた。日本中の人心が家康に傾くか、三成に傾くか。いよいよ天下の大掃除と捉える天海は、家康が大きな自信を持ったようだと見据えます。「神仏は泰平への道を求め続ける者にのみ、行くべき道をお示しなさりましょう」
そして7月21日、家康は大坂の動きを胸に秘めて一路会津へ向かった。慎重と堪忍とが円熟しきった家康の信条であった。だがその家康がいま、天下平定のためその殻を破って激しく立ち上がろうとしていた。
慶長5年(1600)年6月16日、徳川家康は大坂城京橋口から軍勢を率いて上杉景勝征伐に出陣する。
慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、
あと2年7か月──。
原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
語り:館野 直光 アナウンサー
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[出演]
滝田 栄 (徳川家康)
勝野 洋 (徳川秀忠)
内藤 武敏 (本多正信)
大出 俊 (本阿弥光悦)
川津 祐介 (島 左近)
本田 博太郎 (本多正純)
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鹿賀 丈史 (石田三成)
吉行 和子 (北政所(ねね))
神崎 愛 (お袖)
高岡 健二 (本多忠勝)
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竜 雷太 (天海)
伊吹 吾郎 (加藤清正)
夏目 雅子 (淀君)
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制作:澁谷 康生
演出:加藤 郁雄
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『徳川家康』
第39回「関ヶ原前夜」
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