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2023年11月28日 (火)

プレイバック徳川家康・(46)老いの決断

慶長19(1614)年8月18日は、豊臣秀吉の十七回忌である。その供養のために作られたのが、この鐘であった。その供養はじめの直前に、家康からその豊国祭中止命令が出たのは、鐘銘の文中にある「国家安康」「君臣豊楽」の軸についてであった。だが、その真意は豊国祭を契機に都に騒乱を起こそうとするキリシタン信者と、戦乱を望む浪人を抑えるべく、秀頼の大人としての解決を要求した家康の、一大諮問だったのである。

だが、且元は今度もまた家康の真意を介さぬまま、ただひたすら豊国祭の許可を求めて駿府に出頭した。本多正純が家康の意向を携えて且元の宿舎を訪れたのは、その日の深夜に至ってである。「且元は何ひとつ約束を果たしてはおらぬ」と、家康が謁見しないことに片桐且元は愕然とします。正純は、梵鐘の銘文でわざわざ秀頼に謎をかけたりはしないと且元を見据えます。

この問題で秀頼がどう仕置きするのか──。且元は、初めて家康の本心を知り頭を垂れます。その上で正純は、深夜であるゆえに明朝に返事を聞こうと宿舎を後にします。且元は、大坂城を明け渡すという秀頼の誓書を持参しなければならないということだったかと考えます。そう解釈した且元だが、しかしそれが言えなかった。秀吉の城とその子秀頼は、たとえ情勢が変わろうと且元には絶対的な重さがある。

だが、その秀頼は相変わらず、わが身を巡る情勢の厳しさを何も知らぬところに置かれていた。家康から豊国祭の許しが出た時には、且元が早馬を飛ばして知らせる手はずとなっていて、今日にも早馬が到着するだろうと秀頼は笑みを浮かべます。豊国祭当日は晴れの日であり、秀頼の御台として晴れがましく装うように勧めます。

だが且元は豊国祭許可の早馬を走らせるどころか、腑抜けのようになってその夜も宿舎の徳願寺に座り続けていたのである。そしてその翌日、丸一日考え通して、もう一度家康に嘆願しようとした矢先、家康の正式の使者を迎えてしまった。家康の使者として、正純と金地院崇伝が宿舎に入ります。

鐘銘について、大坂城浪人入城について、の二箇条について家康からの詰問です。且元は詰問がこの二箇条のみであることを再確認し、それであれば且元が直々に家康に対面して申し開きをすると主張しますが、正純はこれを拒絶し、詰問状を持って秀頼たちと協議の上、改めて申し開きの使者を立ててもよい、と且元に委ねます。

 

だが、且元には秀頼の分別に任せる気など全くなく、どこまでも我が身の責任と思いつめてしまっていた。しかも今度の詰問状には、初めに言ってきた鐘銘問題はどこにもなく、且元は家康の心中を解せぬまま、混迷の中に放り出されて京に向かっていた時、その且元に不安を持つ淀君からの使者として、さらに大蔵局と正栄尼が恐る恐る駿府に到着していた。

緊張で身を固くするふたりに、家康は優しく言葉をかけます。鐘銘については身に覚えがないと頭を下げるふたりに、且元に言ってあるのでふたりが気にすることではないと家康はにこやかに笑います。最悪な場合、斬られるものと予想して生きた心地のなかったふたりの女使者には、思いもよらぬ家康のやさしいもてなしぶりであった。

その彼女たちはすっかり安心して、大法要に間に合うべく駿府を発ち、京へ15里半の土山宿へ到着したが、そこには一足先に発った且元が京へも戻れず彼女たちの情報を待ちわびていた。且元は駿府での守備をふたりに尋ねますが、特に難題らしいことは言われなかったとの返答に、これまた家康の真意が分からず頭を抱えてしまいます。

且元は、これまでの経緯を一から話せば甲斐ない愚痴になるので、ずっと思案してきた結果をふたりに打ち明けます。「淀を人質として江戸へ送る」「秀頼が大坂城を明け渡し他国へ移る」「秀頼が江戸に下り将軍に和を請う」の3つのうち1つを覚悟しなければ、難題は収まらないと且元はふたりを見据えます。

且元が必死に考えた3つの思案は、家康も知らぬことである。だがこの3か条は、大きな波紋を巻き起こすもととなっていった。大蔵局と正栄尼は且元のいないところで、家康が淀を側女に差し出せとか、城から出たことのない秀頼を江戸へ遣わせとか、且元は恐ろしいことを言うとヒソヒソ話をしています。「これは片桐どのの裏切りかもしれませぬな」

女たちに大きな誤解を与えたとも知らず、且元は板倉勝重に相談すべく京の所司代屋敷へ立ち寄った。勝重の口からは、且元の留守中に浪人が何千と城に入り、秀頼の名で九度山の真田幸村へ密使が出されたということでした。且元の裏切りは明白だと糾弾する勝重に、金蔵のカギを預かるのは自分だと弁明しますが、そのカギも留守中に取り上げられてしまっているのです。且元は言葉をなくします。

そしてそのころ大坂城では。淀はその3つの難題について、且元が言った通りに伝えよと大蔵局に命じます。ただ大蔵局は、「淀を人質として江戸へ送れ」というのを“家康に差し出せ”と、そして「3つのうち1つを覚悟しなければ」と言ったのを“3つのうち1つが欠けても決戦に及ぶ”と伝えてしまっています。どちらにしても秀頼と淀を大坂から追い出して喜ぶのは、北政所しかいなさそうです。

淀はふたりを下がらせ、大野修理と渡辺内蔵助を呼び出します。修理は且元の裏切り行為はまだあると淀に説明します。金蔵のカギを召し上げて中を確認したところ、且元は5万の兵で籠城すれば3か月も持たないと言っていたのが、10万の兵で3年間は充分に籠城できるものだったと言うのです。内蔵助は且元を血祭りに上げなければ士気は保てないと鼻息荒くしています。

「これはいったい……どうなるのじゃ」と不安に駆られる淀に修理は、家康の腹が読めた以上は千姫の身辺を厳しくし、戦の用意を進言します。そんな時、九度山から幸村が到着します。大坂城を見上げ、威風堂々たる入城です。こうした情勢の中で、淀君は大野修理をはじめとする主戦論者の論理に傾いていった。

 

一方、且元は大坂の我が屋敷に帰り着いた。そして城内の様子をお伝えした弟の片桐主膳から、そのすべてを聞かされた。「なんという……」と且元は声を絞り出します。豊臣家のため、秀頼のために骨を折ってきたのに、と無念な思いです。ともかくこの屋敷を出る覚悟をと主膳は且元に迫ります。

3つの思案が3か条に、軍用金が隠し金に、それらは且元の関東方への内通として誤解されてしまっていた。その且元が大坂と江戸の間にあって何とかまとめようとした腐心は、すべて裏目に出てしまった。しかも情勢は戦へと、最悪な方向へ流れ出していた。一方、上方から送られてくる詳細な報告に接しながらも、まだ事実上の出兵を迷っていた家康は、天海を呼んでその意見を聞いた。

「人間には老後もなければ死後もない、あるのは常に目の前の危機」 天海は、今こそ腫れ物を破いて膿を出すときと諭します。家康自ら陣頭に立つつもりですが、戦に勝ちすぎる恐れがあります。天海は同調し、勝ちすぎると根は深く広がり、後日必ず思いがけないところから不幸な芽吹きをすると伝えます。「ただそのお迷いの原因がご健康のことにあるなれば、これは別の陣立てを考えねばなりますまいの」

武田信玄を前例に、兵を進めて双方抜き差しならぬ状況になってから倒れると、その後の手順を狂わせてしまうことにもなりかねないのです。大人たちの落胆と武田勝頼への不満をどうすることもできなかったわけで、天海は今の徳川家と当時の武田家は同じだと指摘します。そこが思案のしどころと言われ、家康は深く考えます。

事実、家康の不安は健康上の理由が大きかった。だがその家康をして、これは出兵せねば済まぬと決心させたのは、9月下旬、秀頼から思いがけない届け出を受けてである。不届き至極の不忠のため、且元を処罰すると言う届け出です。秀頼には且元が許せない存在に映ったかと、家康は厳しい表情を向けます。

さらに10月1日になって、所司代板倉勝重から詳細を極めた大坂騒乱の報告書が届いた。引きこもっていた且元は、戦は避けられぬと大坂城を退去し、淀も主戦派に傾き始めているとのことです。「これは並の勇気では済まぬ……今さら骨身は惜しむまい」と、家康は戦を大きくさせないために自ら出陣する決意を固めます。

家康は正純に、大坂騒乱の討伐に 打ち合わせ通り、まず家康が陣頭に立って出発することに決めたと使者を送らせます。江戸へ向けて早馬を出させると、家康は諸大名に出陣の触れを出した。だがその胸中は晴れず、混迷の中にも和議への願いを秘め、老いの決断をもって10月11日、大軍をもって駿府を出発していった。

 

一方、大坂城にも続々と全国から駆けつける浪人たちの入城が続いていた。浪人たちはもはや烏合の衆で、戦って見事に死にたいという老人から、豊臣の天下になれば大名に取り立てられるという計算づくの若者もいます。それを精兵に変えるのが兵法だという幸村は、外堀の近くに出城を設け、いざという時には5,000の兵ですぐに打って出られるようにするつもりです。

城内での威勢のいい戦評定に大きな疑問を持つ幸村は、先に入城し多くの守備と秀頼親子の連絡係を命じられている奥原信十郎を訪れた。信十郎に茶を点ててもらった幸村は、将軍に命じられて入城したのかと直球で尋ねます。いやいや……と否定する信十郎は、剣術の師・柳生石舟斎の「生死を縛る宇宙の家来であるを悟れ」という教えに従ったと打ち明けます。

その信十郎が見たところ、この戦は単純に豊臣家と徳川家のものではなく、キリシタン信者と泰平の世に飽き足らない浪人衆が時代に挑む戦であり、秀吉の遺族がそれに巻き込まれる形です。秀頼も淀も戦にしたくないという思いが感じられ、信十郎としては戦に関わりない人たちを救い出すという役目を背負っているのです。

これは家康の心と、石舟斎の教えにかなうことです。誰の臣下でもない兵法者がしなければならない役目だと信十郎はつぶやきます。それを背負った信十郎自身のことは と幸村は尋ねますが、「天の子は、その命を天に任せるまで」と信十郎は幸村を見据えます。幸村は信十郎を見つめたまま、かすかに微笑んで頷きます。

 

一方、家康は大和・奈良と回って秀忠の大軍と合流し、茶臼山で軍議を開いた。一気に攻めかかり潰してしまおうと鼻息荒い秀忠に、家康は時間をかければ必ず勝てる戦なので長対陣としたいと主張します。本多正信らは、父子で意見が異なることにピリリと緊張が走りますが、秀忠は家康の命令であればと自説を引き、議論することなく長対陣と決定。正信は安堵の表情を浮かべます。

家康の戦法は奈良に砦と高いやぐらを築き、そこに大砲を乗せて大坂城天守を撃ち崩すものです。和議の窓口はもはや淀だけであり、その淀を大筒で脅してしまえば、もう勝てぬと観念し和議はたちまち整うわけです。「人間が作った城は、人間の思案と心掛けによって崩れ去る。家康はあくまでも和議でござるぞ、将軍家」

関東勢の着陣によって、大坂城の戦雲はいよいよ高まった中で。家康は、秀頼が幼いころから“江戸のじい”と家康の膝の上で甘えてきた存在で、将軍は千姫の父。千姫の母は秀頼の母と姉妹というのに、戦というものはおかしなものだと投げやりになります。千姫は江戸の者でもこの城の者でもないような疎外感に襲われています。そんな千姫を、秀頼は抱き寄せます。

そこに機嫌のいい淀が入ってきました。侍女のおちょぼが慌てる中、遠慮なくふすまを開けると、秀頼と千姫が抱き合っています。その姿を見るや、淀は一瞬ひるみます。千姫が敵の総大将の孫姫ながら姪でもあり、心配で訪問したというのに、真っ昼間からこのような場所に秀頼が渡ってくるとは何事かと叱責します。豊臣のためにと入城した浪人たちはどう思うかというのです。

秀頼も戦を忘れていないからこそ所用で来たと顔を真っ赤にして反論、「いちいち子どもか何かのように干渉なさる……もうたくさんじゃ!」と出て行ってしまいます。その場に残された淀は、千姫が徳川の回し者と非難されていることを知っていて、千姫を守るために長局に移そうという考えだったのに、秀頼に「たくさんじゃ」と言われたことを嘆き悲しみます。

千姫は、秀頼が戦の際の淀を心配していたと打ち明けます。秀頼が千姫の居室へ来たのは、千姫を労わろうとする気持ちが4割、母を頼むぞという気持ちが6割。それで千姫は拗ねたのですが、秀頼の愛情が薄いからではなく、心の底には千姫が敵方の血筋という冷たい隔たりが感じられたからです。秀頼と離れたら死ぬと訴える千姫に、淀はいざとなれば3人で黄泉の国へ連れ立とうと手を握ります。

両軍の火ぶたが切られたのは、千姫が淀君の御殿に居を移した日であった。抜け駆けはまかりならぬという家康の厳命にもかかわらず、先陣争いによって大坂冬の陣は火ぶたが切られた。寒風の中でここだけは熱気が渦巻いている。そして家康の胸中にも戦争の終結を願い、一日も早い和議への熱い思いが燃えていた。


原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
語り:館野 直光 アナウンサー
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[出演]
滝田 栄 (徳川家康)
勝野 洋 (徳川秀忠)
内藤 武敏 (本多正信)
本田 博太郎 (本多正純)
井川 比佐志 (奥原信十郎)
山本 亘 (板倉勝重)
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若林 豪 (真田幸村)
谷 隼人 (大野修理)
利重 剛 (豊臣秀頼)
石原 真理子 (千姫)
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竜 雷太 (天海)
久米 明 (片桐且元)
夏目 雅子 (淀君)
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制作:澁谷 康生
演出:加藤 郁雄

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『徳川家康』
第47回「大坂冬の陣」

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