プレイバック徳川家康・(42)世界の風
慶長9(1604)年7月、秀忠に男子出生の知らせを受けた家康は、竹千代と命名することを宣言した。城内は喜びに沸き立つ。徳川家康の喜びように本多正信は困惑するほどですが、家康としては、これまで秀忠に男子なく家康の側室たちに“自分の子を養子にして世継ぎとするのでは”というあらぬ希望を抱かせまいとする、家康の転ばぬ先の杖だったのです。
大阪から帰って来た大久保長安と本阿弥光悦ですが、千姫に同道した栄(おみつ)から暇(いとま)願いが出されたそうです。栄は懐妊していて、豊臣秀頼から いわゆる手籠めにされたというわけです。家康の表情はいっぺんに曇ります。そしてそのことを知った淀は動転し、秀頼と言い争いに発展しています。長安は、それまで知らずにいた淀の責任は重大だと家康を見つめます。
大坂城に将軍家の使者として長安が入ります。長安に対面した淀は、すでに将軍家の耳に入ったということであれば居直りたいと言い出します。ほんの少し秀頼が早く大人になっただけのことで、将軍家にも秀忠にもお江与にも、そして千姫にも認めてもらうしかないというわけです。認めてもらえば身ごもった子は秀吉の血を引く子となり、栄を秀頼の側室として置きたいという気持ちです。長安は納得します。
おみつの身柄はすでに片桐且元の屋敷に預けられていた。片桐屋敷に向かった長安は、栄を一応秀頼から遠ざけ、生まれてくる子はいずれかへ預けるようにと、淀の伝言を伝えます。千姫には栄は病で療養中とだけ伝えています。栄にとっては千姫を裏切ってしまったことだけが唯一の気がかりだったのです。
そこに、長崎に行っていた茶屋又四郎が加わります。戦はもうないから心配せず世界の海に乗り出せという家康からの言葉を胸に、都を離れて世界の海に乗り出す基礎作りに没頭すると伝えます。それが終わったら暇乞いを申請して、晴れて夫婦となれるわけです。それまでしばらくは秀頼にご恩返しを求め、栄も頷きます。又四郎は栄の身に起きたことを把握しながら、あえて何も言わず普段通りに接します。
又四郎が栄を説得したおかげで、栄は自害を思いとどまります。栄は納屋蕉庵の孫娘であり、自害されたら納屋と茶屋の不和の元になるのです。そして長安は、佐渡で取れた莫大な黄金で秀吉の七回忌を派手に行いたいと家康に進言するつもりです。豊国祭とすれば、秀忠の吾子誕生も相まって盛り上がり、それをバテレン衆に見せれば、日本は泰平になったと世界中に伝え、海外貿易もやりやすくなるわけです。
長安は夢を見た。快い酔いの中で、その夢はさらに膨れ上がってゆく。世界と交易するため、資本となる黄金発掘に全力を尽くしたと胸を張る長安に、その技術を褒めた家康は、ますます山掘りに励めと命じます。長安はあくまで世界と交易するのが夢であり、家康の命令では一生を山掘りで終わってしまう……。光悦の義理の妹・於こうの声で、長安は夢から目覚めます。
深酔いしてしまったようで、記憶はありませんが三浦按針、本多正信、そして徳川秀忠の悪口をペラペラと──。ケラケラと笑う於こうですが、長安は於こうを側女にすると宣言します。於こうは、長安にせがんで連れて行ってもらうことにした黄金の山で、口封じのために殺されてしまうと怯えますが、長安は慌てて於こうを安心させます。
秀吉の七回忌・豊国祭は前代未聞の規模で実現した。祭りの盛大さは、太閤の人気いまだ地に落ちず、またこれを許した将軍家康の度量の広さも示されて、庶民たちは関東と大坂の不仲説を吹き飛ばして狂喜した。そして江戸もまた徳川幕府の政治の中心地として、活気あるその町づくりを完成しつつあった。
長安が江戸城に上がり控えの間に通されると、三浦按針(ウィリアム・アダムズ)が先客としていました。三浦按針とは、関ヶ原の戦いがあった年、オランダ船で漂着したイギリス人のウィリアム・アダムズの日本名である。そしてさらに、イスパニア人のカルロスと金髪女性が入ってきました。「世の中にはかような黄金もござったか……髪の色でござるが」
金髪の美しい女性の話に、家康は身を乗り出して興味津々です。長安は、カルロスが三浦按針に敵意を持つように映ったと感想を言うと、ヨーロッパは二つに割れていると家康が教えてくれます。イスパニアやポルトガルの旧勢力は南蛮人、イギリスやオランダの新興勢力は紅毛人(こうもうじん)と、分けて考えなければなりません。世界と自由に交易するには、その双方とも等しく交際していく必要があります。
長安は膝を進め、世界に乗り出すための資本として、掘り出した黄金の塊を家康に披露します。家康に命じられた金山奉行として西へ東へと大忙しの長安ですが、その分、松平忠輝への奉公が思うようにできないことが悩みです。「相変わらず働き者じゃな」と家康は大笑いします。
江戸の町には諸大名の屋敷が競って作られ、ここもその一つ、家康の六男・忠輝と一の姫を婚約させた伊達政宗の屋敷である。忠輝の家老でもある長安は婚儀の打ち合わせと称して、政宗の元へ足しげく通ってきていた。カルロスは政宗に、黄金色の髪をした美女を献じたいと言っているそうで、長安はカルロスが按針にやられる前に政宗にすがって、将軍家を動かそうという働きかけと解説します。
南蛮人マルコポーロが日本を黄金の国と吹聴し、南蛮人の商人がこぞって日本に来る時代。長安は、それを逆手にとって南蛮人をまとめて相手にすることを夢見ています。ただ現状、将軍家には紅毛人の按針しかおらず、南蛮人側が不利となります。長安は、忠輝の舅の政宗に南蛮人の後ろ盾としてガッチリと抑えてもらうべく、署名してもらおうと連判状を差し出します。
慶長9年もあと3日で暮れようとしている日である。家康は天海と対面します。家康は来春に上洛し、将軍職辞任の願いを禁裏へ出すつもりです。秀頼を右大臣に奏請し昇進させた上で秀忠の将軍宣下を待ち、秀頼を都へ招く。天海は、秀頼側に時節の移り変わりをはっきりと分からせるため、新将軍秀忠へ挨拶に上洛せよと呼ぶ形を勧めます。
家康の征夷大将軍辞任の噂は、さまざまな波紋となって伝わり、淀君は片桐且元と大野修理をして、直ちに今日の所司代まで事情を探りに派遣した。家康の隠居は来春と確定し、淀は次期将軍は秀忠なのだとため息をつきます。秀頼16歳に成長の折に政権を譲られるという約束は、石田三成の軽挙により反故となりました。大坂城は徳川に敵意を見せなかったため今も生き残れているわけです。
秀忠の将軍叙任の時に合わせて秀頼を右大臣に推挙するという話ですが、その意味を問われた且元は、やがては関白にも太政大臣にも通じる道で、立派に秀吉の後を継げると答えます。徳川が将軍家、豊臣が関白家、この両者が力を合わせて揺るぎない日本を作り上げることが出来るのです。淀は腑に落ちたと、表情明るく何度も頷きます。
しかし秀頼の反応は違いました。「江戸の家来か、豊臣家の家来か」と且元に迫ります。秀頼に諸大名を抑える力がないため、千姫の父(=秀忠)に将軍職を譲るのだと秀頼は受け取ります。みなで自分を笑いものにして! とふてくされる秀頼に、ここには秀吉の御霊が安置されていると諭す且元ですが、御霊に礼を言って出ていくと投げやりな態度を示します。
そんな秀頼に淀は厳しく叱りつけます。将軍家は秀吉との約束を厳しく果たしてきた。関ヶ原の折も東軍勢に追われることなく、大坂を落ちることなく過ごせているのは、秀吉が将軍家に必死に頼んだからこそなのです。「そのお父上のご霊前でそのような態度は、この母が承知しませぬぞ」 淀のすさまじい剣幕に、且元が唖然とする中、秀頼はシュンとおとなしくなります。
家康が関東と大坂の永遠に争うことのない願いをもって江戸を発し、上洛の途についたのは慶長10(1605)年正月。これを追って秀忠も将軍宣下拝辞のため、その昔、武家の棟梁・源 頼朝上洛の故事に倣い、16万の大軍を率いて出発した。伏見城に入った家康は、訪問してきたねねを招き入れ、秀吉の最後の花見のことを語らいます。
秀頼は右大臣、秀忠は一つ下の内大臣征夷大将軍、家康はこの二人を並べ、諸大名からの祝儀を受けたいとねねに伝えます。そのためにねねから秀頼に上洛の指図を願い出るのです。家康が招く形よりは、ねねが久々に会いたいと言って来させるほうが角も立たず上洛する可能性が高いのです。「これで大名衆の心の鬼は追い出せましょう。秀頼どののご上洛、確かにこの尼が取り計らいましょう」
家康の構想の一翼を成す16万の大行列を率いた秀忠が、伏見城へ入ったのは3月21日である。16万の大軍に淀は怯えますが、且元の「将軍家がなんでわざわざ赤子の手をねじるような真似を」と笑います。豊臣に兵を総動員してもその1割に満たないとはいえ、豊臣家がもはや“赤子の手”かと、淀はカチンときます。そんな淀の怒りに油を注いだのは、大局は気にせず花鳥風月を愛でていればいいという修理の発言でした。
且元は、新将軍叙任の際に秀頼にも上洛を促す遣いがねねから来たことを打ち明けます。秀頼と秀忠、揃って祝賀を受けさせる意味を伝えますが、怒りに震える淀にはその言葉は届きません。修理は、秀頼が上洛を拒めば将軍に反旗を翻すことになりかねないし、従一位北政所が上洛を促した時、断れるのは淀ではないと突き放します。断るとしても協議の上、秀頼直々の裁断が必要なのです。
そこに秀頼が入ってきます。秀頼は淀の様子がおかしいことに気づき、近づいて声をかけますが、淀は懐刀を秀頼に突き付けます。「動くとこのまま若君を刺してわらわも自害! 動くまいぞ!」 且元と修理は必死に淀をなだめますが、もはや狂った歯車は止まりません。「徳川の家臣になどされてよいものか、格式は従一位であろうとわらわは信長公ゆかりの血筋。秀頼さまご上洛にお口出しは無用にせよ、とな」
淀君の宣言は、豊臣家が立つか滅びるかの境目に立つことになるのである。秀頼は上洛しないと決定し、ねねは家康に合わせる顔がありません。平素からの心遣いが足りないとねねは自分を責めます。家康はさほど気にしていないそぶりを見せ、六男忠輝をねねに引き合わせておこうと呼び寄せます。長安とともに現れた忠輝に、ねねは目を細めます。
家康は、忠輝には秀忠の名代として大坂に向かわせることにします。秀忠とともに諸大名の挨拶を受けることになっていた秀頼が急病となり、忠輝には見舞いの使者として赴くのです。しかし兄秀忠の使者なのに父家康から指図を受けたことが忠輝にはおかしく、確かに一理あると考えた家康は、長安に改めて秀忠から命を受けて出発させるように命じます。
家康はねねと庭を歩きながら、大坂に上洛のことを言わせたのは自分の誤りだったと、ねねには忘れるよう諭します。忠輝のことも危なっかしくて見ていられません。ねねは忠輝を評価していますが、隙あらば食らいつこうとする戦国の世の目だと家康は笑います。「忠輝がわしを笑うも秀頼どのが上洛を断るも、同じ根による若さの反抗。ゆっくりと見ていてやりましょう」
慶長10年4月16日、秀忠に将軍宣下。ここに徳川家二代将軍が誕生して、家康はこの後、大御所と呼ばれることとなった。
原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
語り:館野 直光 アナウンサー
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[出演]
滝田 栄 (徳川家康)
夏目 雅子 (淀君)
勝野 洋 (徳川秀忠)
田中 健 (松平忠輝)
内藤 武敏 (本多正信)
本田 博太郎 (本多正純)
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津川 雅彦 (大久保長安)
加賀 まりこ (於こう)
吉行 和子 (北政所(ねね))
久米 明 (片桐且元)
大出 俊 (本阿弥光悦)
萬田 久子 (おみつ)
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竜 雷太 (天海)
谷 隼人 (大野修理)
尾上 辰之助 (伊達政宗)
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制作:澁谷 康生
演出:松本 守正
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『徳川家康』
第43回「連判状の夢」
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