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2023年11月21日 (火)

プレイバック徳川家康・(44)騒動の根

慶長15(1610)年は、家康にとって内政充実の年である。一方、大坂城内の秀頼親子も、方広寺の大仏殿の建て直しに力を注ぐなど、まことに平穏無事な年であった。

その翌16(1611)年3月、後陽成天皇が政仁(ただひと)親王に譲位されることになり、これに参上すべく家康は上洛し、念願の秀頼との対面をさりげなく果たすすべを考えていた。だが大坂を取り巻く根は、まだ家康に疑惑を持つ者が多く、そうした空気の一掃と秀頼の成長を見届けたかったのである。この時家康、70歳である。

徳川家康は豊臣秀頼に会う秘策を板倉勝重に尋ねます。勝重は、徳川秀忠の妻・お江与にお願いし、京にいる常高院(=お初・京極高次の後家)に豊臣家のためだと働きかけてもらえば、ふたりの姉にあたる淀もイヤとは言わないだろうと答えます。家康は、うん、と力強く頷きます。「おなごはおなご同士という。これはまたとない名案かもしれぬぞ、うん」

家康の意を介したお江与は姉の常高院に、かつて淀君と秀吉の寵を競った松の丸殿を誘わせて、大坂城への使者とした。常高院は、家康も年を取り秀頼に会いたがっていると伝えます。松の丸は家康も寿命なのかもしれないとつぶやくと、生前に秀頼に会わせておいた方がいいのかと、気持ちが揺らぎ始めます。「それほどまでに大御所は若君のことを……分かりました」

この知らせは、直ちに京都所司代・板倉勝重から家康の元に届いた。常高院や松の丸が家康を“今際(いまわ)の際(きわ)の病人”に仕立て上げて話を通したことが愉快です。家康は手を合わせ、亡き豊臣秀吉に秀頼と会ってくることを報告します。この時家康は、3日念仏6万分の祈願を立ててこれを実行していた。家康が、最後の上洛となるべく駿府を発したのは、慶長16年の3月6日である。

一方、淀君はひとつの不安に捉われていた。淀が気にしていた、今回の上洛にも高台院が口出ししたのかという疑いは晴れたものの、心配性の淀も秀頼とともに上洛したいと片桐且元に相談します。且元は、今回は新帝即位の上洛であり、加藤清正や浅野幸長ら豊臣ゆかりの旧臣を従わせて将軍家との会見にふさわしい場を整え、淀の上洛は遠慮したほうがいいと回答します。

だがその後、伏見に着いた家康に、ねねから秀頼が上洛した折に顔を見せてはくれまいかという希望が、申し越されてきたのである。正式な対面は断らざるを得ない状況ですが、幸長は二条城で家康と秀頼が対面する時に、高台院に秀頼を見せる案を進言します。それはよい思案だと、家康はその旨を高台院に伝えさせます。

秀頼上洛についてねねを通じなかったのは、淀君の心情を考慮に入れてのことである。だがその配慮を忘れたほど、家康にとって秀頼との再会は気もそぞろだったのである。

 

そしてその対面の日がやって来た。対面の場に現れた秀頼は立派に家康に挨拶を述べ、家康は秀頼の成長ぶりに目を細めます。高台院も秀吉の分までじっくりと秀頼を見つめ、我々も老いるわけだと家康は大笑いします。家康は、駿府に来た琉球王が連れてきた入れ歯の細工人に、つげから入れ歯を作り上げてもらい装着していると、口を大きく開けて秀頼に見せるなど、終始上機嫌です。

だが淀君にとってねねの同席は寝耳に水の報告であった。淀の不快は、自分が遠慮した席に高台院が同席しているという事実で、それも淀の知らないところで話が進んでいたことです。何としても許せぬと声を荒げる淀は、傍らに控える大野修理を有無を言わさず下がらせ、饗庭局を呼び出します。

饗庭局とともに居室に現れた清正に、淀は今回の歓談に高台院がなぜ加わったのかと詰問します。清正は、高台院は秀頼の(豊臣家の)母であり当然なことだと主張します。懐から刀を取り出す清正は、自身に寄る病には勝てず今回が最後の忠義と心に決めていたと打ち明けます。もし家康が豊臣家を取り潰すような言動があれば、刺し違える覚悟だったのです。

その上で、豊臣家を滅ぼす者があるとすれば、それは徳川家ではなく“豊臣家自身の内にある”と指摘します。清正としては淀にその事実を厳しく心の内に刻んでおいてほしかったわけですが、淀は「ご苦労でした」と清正をいたわります。自分の過ちに気付いてほしかった清正はすっかり肩透かしにあってしまい、淀に失望したまま下がるしかありませんでした。

 

八王子・大久保長安陣屋。そしてここには、ひとりの女が遺書になってゆく文を密かに書き綴っていた。それは本阿弥光悦に頼まれて、大久保長安の行動を探っていた於こうの、最後の務めであった。「恐らくこの文が兄さまお手元に届くころには、この身はすでにこの世にはないものと存じまする」から書き出された文を、於こうは神妙な面持ちで書き綴っています。

於こうは、黒川谷の金鉱について長安を調べてもらいたいと光悦に依頼します。佐渡金山の産出量が少なく、幕府に届け出なかった分はすべて八王子の陣屋に保管していることは判明しています。その集められた金銀の行く先は黒川谷であり、新たな金山を掘ると言いつつ、これまで蓄積してきた金銀を埋蔵するのが目的と於こうはにらんでいるのです。

ただ、このことが明るみに出た時に案じられるのは、長安が渡り歩いて集めてきた連判状の存在です。長安の夢を主君・松平忠輝に託し、二代秀忠に代えて将軍家とする夢に広がっていく様子を見ると、於こうは命あるうちに光悦に報告せねばと考えたのです。長安の悪事を知った以上、命は消されてしまうと覚悟する於こうは、その場所が山祭りの桟敷の上と分かった上で祭りに参加します。

村人たちが愉快に踊る中、山の木々につるされて作られた桟敷の、蔓(つる)が何者かによって切られようとしています。そしてついに切られた直後、桟敷の上で待っていた村人たちは落下し、川の激流に呑まれます。

長安がひとり盃を傾けていると、暗闇に火の玉とともにぼんやりと浮かぶ於こうの姿がありました。長安は於こうに手を取られ、黒川谷への道を進んでいきますが、於こうが同道するのは黒川谷までで、その先はひとりで行くように勧められます。「誰か助けてくれ! 於こうが死神になりおった! わしを迎えに来おった!」

 

長安死すの知らせは、彼の主君である松平忠輝の元へまず急報された。世界の海に乗り出そうという長安の連判状が、現在の政治に飽き足らず謀反を企てる下心ありとみなされてしまう可能性があるのです。忠輝は特に焦るでもなく、単なる余興に過ぎないと気にする様子もありません。

だが、さすがに伊達政宗の受け取り方は鋭かった。憔悴するカルロスは、長安に脅されてしぶしぶ署名したものの、その連判状に怪しいうわさが立っているとなると、どうすればいいのか分からず政宗に助けを求めます。政宗は仙台へ帰ると宣言し、カルロスがその気なら仙台に連れて行くと言ってくれます。

家康が長安の死を知ったのは、その翌日である。本多正純は、長安の連判状の真偽を調べてみる必要があると家康に主張します。秀忠の耳にはまだ入れておらず、また入れていいものかどうかも迷うところです。厳しい表情の家康は、柳生宗矩を呼ぶように正純に命じます。

柳生又右衛門宗矩は柳生石舟斎の一子で、将軍家兵法指南番だが、その鋭敏な頭脳を買われて家康の懐刀とされていた。連判状の真偽はともかくとして、家康は 謀反の企てがあったのかどうかを宗矩に探らせることにします。いま国家が乱れれば、これまでの苦労はすべて水の泡と化してしまいかねないのです。宗矩は険しい表情で一礼し、下がっていきます。

宗矩はただちに八王子の長安の陣屋に飛んだ。服部正重(四代目服部半蔵/服部正成の次男)は、長安の死によって大きな柱を失った旧教信者が騒ぐ恐れを危惧します。国外追放されるかもしれないと、ポルトガルやイスパニアの宣教師たちは大坂城に立てこもる可能性は高いです。正重は「これは充分証拠になるもの」と、懐から連判状を取り出し宗矩に渡します。

すでに連判状を探し出していたのは、長安の娘婿・服部正重であった。宗矩は手渡されたのが写しであると、実物を見たいと要求しますが、正重によれば実物はすでに駿府城の正純に差し出したそうです。もう一通の写しは将軍家へ渡り、それ以外には漏らしてはいないという言葉に、宗矩は安堵したようにうなずき、自分の懐に収めます。

これが将軍秀忠の手元に入れば、充分にただならぬ意味を持ってくる可能性があった。そしてさらに。宗矩は長安陣屋の金蔵に入り、ため込んだ金銀の状況を確認します。これは明らかに長安の不正といえます。長安が謀反を起こすつもりだったかは、正重はあくまでも将軍家が判断することで、家臣である自分たちはその証拠集めをするだけと答えます。

柳生宗矩はすぐさま江戸へ飛んだが、将軍秀忠が連判状を手にしてどう判断を下すのか、不安であった。金銀の不正は火を見るより明らかですが、謀反の一件は話が出来すぎていて、宗矩が考えるに長安の迂闊さでああいう形で取り残されただけだと主張します。だからこそ、連判状の取り扱いには充分に注意する必要があるのです。

秀忠は宗矩を駿府へ遣わし、遺族を召し取って金山奉行だった長安の責めを負わせることだけを家康に報告させます。連判状の件は何も言わなかったことにし、家康の判断を仰ぐよう指示します。「ことは忠輝に関わりのあること。老い先短いお父上に兄弟の不和を匂わせては孝道にもとる。くれぐれも連判状の件は世間に漏らしてはならぬぞ」

連判状の存在を一切極秘にして、八王子の陣屋の者は秀忠の命によってただちに全員捕縛されたのだが……。秀忠がすでに金銀不正で追っ手を向かわせたことを知った家康は、実は秀忠が連判状の存在を知った上で命を下していたことに“しまった”と険しい表情です。油断していた、この責任は取らなければならない、と家康は自分を責めます。

秀忠は絶対に家康には背かない律義な人物だからこそ、家康が秀忠を裏切るほどの方策を出した時は、親子とはいえ信頼は揺らいでいくに違いありません。家康は5本の白羽の矢──家中の対立・キリシタン・家臣の浪人・大坂・家康自身の年齢──に囲まれてしまったと宗矩につぶやきます。「人間にも寿命があるということは、時には大きな悪であったぞ。宗矩」

 

ここに不幸なことが重なった。旧教国イスパニアと敵対している新教国イギリスから、その国使が日本に到着した。そして家康に会い条約を交わすという。このことは、家康が旧教禁止に踏み切るきっかけになると信者側は考えた。その結果、幕府の弾圧を不落の名城・大坂城で抵抗せんとする切迫した騒ぎになっていったのである。まさに家康が完璧な生涯を閉じようとするときになって、この事件は勃発した。

大坂城に日本中のキリシタンが立てこもれば簡単には落ちず、イスパニアからの援軍も到来する可能性もあります。「幕府を倒して豊臣の天下を取り戻す」が大坂方の論拠で、加賀に隠れ住む高山右近、九度山の真田幸村にも密使を飛ばしているようです。家康は秀忠と話し合うため江戸に向かうことにします。忠輝のことは家康が糾明するしかなく、江戸到着後、密かに会うつもりです。悪鬼となるか菩薩となるか──。

宗矩は、家康がイギリスと国交を開始した以上は三浦按針を側近の座から遠ざけ、新教・旧教問わず世間を騒がす者は許さないという態度を明らかにするよう進言します。そして秀忠と忠輝の気まずさを政宗に収めさせれば、残すは秀頼のことだけです。宗矩は秀頼を一日も早く大坂城から移すことを提案します。どれほどの兵でもびくともしない威嚇の城に秀頼を住まわせれば、浪人たちに利用されるだけです。

家康は、秀頼が大坂城を出なかったときは天下の大乱になるかもしれないと覚悟します。「我が子忠輝と言えど同罪じゃ。その方はわしのそばを離れぬようにしていてくれな」 かしこまりました、と言って頭を下げた後、宗矩はじっと家康の背中を見つめています。家康は黙って写経をし始めます。

すでに、騒動の根は張り出してしまっている。この根を未然に断つために、9月17日、泰平の世の創建者であるという自信が、足元から崩れ出しているのを感じながら、家康は駿府を発って江戸へ向かっていった。


原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
語り:館野 直光 アナウンサー
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[出演]
滝田 栄 (徳川家康)
夏目 雅子 (淀君)
勝野 洋 (徳川秀忠)
田中 健 (松平忠輝)
大出 俊 (本阿弥光悦)
本田 博太郎 (本多正純)
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津川 雅彦 (大久保長安)
久米 明 (片桐且元)
吉行 和子 (高台院)
伊吹 吾郎 (加藤清正)
谷 隼人 (大野修理)
岡本 舞 (五郎八姫)
利重 剛 (豊臣秀頼)
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夏木 陽介 (柳生宗矩)
加賀 まりこ (於こう)
尾上 辰之助 (伊達政宗)
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制作:澁谷 康生
演出:加藤 郁雄

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『徳川家康』
第45回「巨城の呼び声」

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