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2023年11月 5日 (日)

大河ドラマどうする家康・(42)天下分け目

上杉討伐で家康が上方を留守にしている間、家康は伏見城を重臣の鳥居元忠に任せることにします。石田三成が挙兵するとすれば伏見城は真っ先に標的にされてしまい、役目としても逃げることは許されません。それだけに最も信頼の置ける人物に任せたいわけですが、元忠はしっかり預かると約束します。そして──石田三成、挙兵。

神の君がそれを知ったのは、上杉景勝を討伐するため会津へ向け進軍している途上の下野小山。君の元には事態の深刻さを知られる報が次々と舞い込んでおりました。慶長5(1600)年7月24日、家康を断罪する書状が全国にばらまかれ、大坂城には大谷吉継や小西行長、その他大名や奉行たちも加わります。徳川家康、天下を治むるに能(あた)わず──。家康は、それが民の声であり天の声かもしれないとため息をつきます。

大坂城では三成挙兵を聞いた家康側室の阿茶が、逃げ出す間もなく敵兵に囲まれ窮地に追い込まれます。取り囲んだその軍勢は敵兵ではなく実はお味方であり、実は家康から上方の留守を頼まれていた寧々が阿茶を助け出すように命じて送られた兵だったのです。それを書状で知った家康は、寧々に大変感謝します。

家康は、今は自分に従軍している福島正則、黒田長政、藤堂高虎、そして真田昌幸たちのことです。三成が憎いと言っても豊臣臣下であり、従うか寝返るか分からないのです。本多正信はひとりに褒美をちらつかせて抱きこめばいいと進言します。家康は軍勢内のまとめ役となり、明朝 諸将たちを集めることにします。

夜、真田信幸が家康本陣に着陣しますが、そこに昌幸や真田信繁の姿はありません。ふたりは信濃へ引き返したとのことで、信幸は義父の本多忠勝に謝罪します。真田が上杉とつながれば取り囲まれてしまい、やっかいな存在になります。忠勝は信幸の働きに期待していると肩をポンポンと力強く叩きます。

そのころ、信濃上田へと引き返す真田昌幸は。上野沼田城に差し掛かります。開門を要求する昌幸に、出てきたのは信幸の妻・稲です。鎧に身を固めた稲は開門せず、城内から何用かと声をかけます。信繁は無礼だと腹を立てますが、薙刀を手に一歩も通さない覚悟です。城を守る兵たちも昌幸たちに鉄砲を向けます。「さすが本多忠勝の娘じゃ。この城を乗っ取るのはやめじゃ」

翌7月25日、世に名高い小山評定。君の元には福島・黒田・藤堂ら豊臣の所掌が集められたのでございます。家康は三成が挙兵したことを告げ、西へ引き返すと宣言します。ただ諸将の妻子は大坂で捕らえられていて、三成に味方したいと思う者は出ていくように勧めます。ただ妻子に刃を突きつける者に天下を任せられようかと三成の非を批判し、諸将たちも同意します。

家康は諸将たちが三成方に味方して、たとえ孤立無援となっても三成と戦うつもりです。正則や長政の掛け声もあり、諸将たちは家康に従って行動することに決めます。家康は秀忠に兵3万を与え、正信や康政とともに信濃へ向かい真田昌幸を従わせるように役目を与えます。「石田三成を討ち、我らが天下を取る!」

みな立ち上がり、気合を入れて出ていく中、平岩親吉だけがその場に残ります。瀬名と松平信康を守ることが出来ずに死なせてしまい、一度は切腹を覚悟した親吉でしたが、ふたりが目指した世を作る手伝いをすることが使命と考え直したのです。そして今、その世が目前にまで来ています。「ようやく来たんじゃ……」と涙ぐむ親吉と、「厭離穢土 欣求浄土」の旗を見上げる家康です。

かくして井伊直政は福島らとともに東海道を西へ。真田の抑えに秀忠公、上杉の抑えに結城秀康を残し、君は戦に備え江戸へと向かったのでございます。

 

家康の動きは三成も注視していまして、三成の思惑通りです。茶々も、三成の手はず通りに進んでいることに満足げです。茶々は三成に、秀頼を戦に出す用意はあると伝え、必ず家康の首を取るように命じます。秀頼に「武運を祈る」と言葉をかけられた三成は、あとは任せよという毛利輝元らに見送られながら大坂城を後にします。

翌日、2,000の兵が守る伏見城に押し寄せた三成の軍勢は25,000。ついに戦の火ぶたが切られたのでございます。7月29日、嶋 左近が伏見城攻めを下知し、無数の鉄砲が撃たれます。城内からは元忠らが弓で必死の抗戦。妻の千代も鎧を身に着け戦に加わっています。

なかなか落ちない伏見城に「城を明け渡せば命は助けるものを」と、宇喜多秀家も吉継も予想外の反撃に戸惑っています。なんでも元忠は桶狭間を戦い抜いたという武勇が伝えられますが、秀家にとって桶狭間の戦いは昔ばなしでしかありません。そこに小早川秀秋が着陣します。小早川秀秋、北政所の甥。若くして筑前35万石を預かる大名でございます。

吉継も三成も、秀秋の着陣を心から喜びますが、秀秋も家康の勝手な振る舞いには憤りを感じていて、三成の決断には感謝しかありません。伏見城の松之丸の守備が弱いということで、秀家は明朝に総攻めすることを提案します。

8月1日、攻撃がさらに大きくなり、それでも弓矢で応戦する元忠でしたが、弾が腕に当たってしまいます。千代が駆け寄り手当てをしますが、元忠は千代に城外に逃げるように勧めます。千代には生きていてほしいわけですが、「お前さまが生きるならな」と手当の手を止めません。そこに松之丸陥落の報が入ります。千代や城兵は元忠と運命を共にする覚悟はできており、元忠はニッコリします。

元忠最期の戦い──。一発の銃声が聞こえ、振り返る元忠ですが、その弾は千代を貫いていました。千代は最期の力を振り絞って戦おうという姿勢を見せます。千代をかばいながら敵が振り上げる刀を払いのける元忠ですが、限界が来たようです。「殿……お別れだわ……浄土で待っとるわ」

 

8月7日、江戸城。渡辺守綱は伏見落城を家康に報告します。守綱は西に向かって仇を取ろうと進言しますが、落ち着けとなだめます。一時の感情に惑わされず、今は誰がどちらに味方し、どう動くかを見定めるときなのです。この戦は家康と三成のどちらが、より多く味方につけられるか。家康は諸大名への書状をしたためます。肩を落とし下がる守綱も、忠勝も、元忠の死を悼み涙を流します。

君が連日連夜、書状を書き続けているころ、美濃大垣城へ入り徳川軍を迎え撃つ用意を整える石田三成もまた、同じく諸大名へ家康糾弾の書状を送り続け、双方合わせて実に数百通が日ノ本全土を飛び交う、し烈な調略戦が行われたのでございます。

加賀金沢城。家康からと三成からの書状を受け取った前田利長は、「家康は気前がいい、三成は家康を断罪するばかり」とどちらに味方するか迷いに迷っています。伊勢の小早川本陣では、秀秋は秀頼が主君でありあくまでも三成に味方すると表明しますが、戦といえば徳川であり、どちらにも転べるようにしておけと命じます。

小西行長の元にも家康からの書状が届きますが、三成らとともに戦うとデウスに誓ったと笑います。その一言に安心する吉継ですが、ただ心変わりする者は出てくる可能性は高く、時が経てば経つほど危ういわけです。その行長の言葉を受けて、三成はうーんと考え込んでしまいます。

徳川の先陣、井伊直政・本多忠勝・福島正則らは、怒涛の勢いで三成たちへ進撃しておりました。正則は守りが4,000の美濃岐阜城を攻撃し、降伏させます。直政や忠勝は8月25日に岐阜城に着陣しますが、あまりに早すぎる展開に、決戦が早まってしまうと危惧します。家康や秀忠の本軍が不在のまま決戦が始まれば、すべてが水の泡となってしまうのです。

ただ、正則や長政が徳川とともに戦うと世に知らしめることができたわけで、家康は今こそ西に向かう時だと立ち上がります。中山道を通って真田調略を命じた秀忠には、真田に構わず西に向かえと命じます。「9月9日までに美濃赤坂へ」

君が西へと向かったそのころ、信濃では秀忠公の軍勢が真田に迫っておりました。秀忠軍38,000が真田に向かって来ていると知り、昌幸はあっさりと降伏の使者を出すように命じます。その書状を受け取った秀忠はホッと胸をなでおろし、役目を果たしたと高笑いです。正信は信幸に、すぐに城明け渡して昌幸に出頭させるように勧めます。

しかし、待てど暮らせど真田は上田城にこもったままで。約束が違う! と秀忠はオロオロし、信幸を責め立てます。正信はそれが“表裏比興の者”昌幸の手であり、嘘を平気でつくなどどんな手でも使うといたって冷静です。信幸はもう一度父を説得すると上田城に向かいます。正信は稲刈りをして敵をおびき出すことを提案します。

稲刈りに対して真田方は即座に反応、信繁は秀忠軍に斬りこみ、たちまち蹴散らします。ゴロンと寝転がる昌幸は、秀忠軍には正信や康政という知恵者がいるだけあると感心しています。「家康と三成、どちらの才が上回るか。どちらに転んだとしても真田は生き残る。乱世を泳ぐは愉快なものよ」

 

9月8日、秀忠は家康から、決戦が早まるので真田は捨てて西に急げという通達を受けます。ただ、美濃赤坂に9日までに着陣せよという命令に秀忠は愕然とします。使者を務めた大久保忠益は、書状を船頭や百姓に奪われてしまい、それを昨日ようやく取り返したと涙ながらに詫びます。真田の狙いは秀忠らをここに足止めすることにあり、書状を奪われたのも真田の忍びの仕業なのです。

秀忠軍が来ていないことを知った家康は、たちまち険しい表情になります。一方で三成は、宇喜多秀家に見事だと賞賛されます。秀忠軍はいわば真田のクモの巣にかかったわけで、家康は本軍なし、こちらは秀頼と輝元の本軍を迎えれば、兵力の差は歴然です。決戦の地は大垣城ではなく……と、三成は地図を広げます。「より大きなクモの巣を、もう一つ張っております」

そのころ家康も、地図を広げて見ていました。三成の思惑は交通の要衝・関ヶ原に誘い出すことだろうと考えた家康は、その手に乗ってみようと思い立ちます。「三成よ、これは天下分け目の大戦じゃ」


慶長5年(1600)年9月14日、徳川家康が赤坂に着陣。徳川秀忠は信濃国上田城攻めで後れを取り、未だ到着せず。

慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、

あと2年4か月──。

 

作:古沢 良太
音楽:稲本 響
語り:寺島 しのぶ
題字:GOO CHOKI PAR
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松本 潤 (徳川家康)

山田 裕貴 (本多忠勝)
杉野 遥亮 (榊原康政)
板垣 李光人 (井伊直政)
音尾 琢真 (鳥居元忠)

岡部 大 (平岩親吉)
古川 琴音 (千代)
松本 若菜 (阿茶局)
木村 昴 (渡辺半蔵守綱)
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中村 七之助 (石田三成)
忍成 修吾 (大谷吉継)
池内 万作 (小西行長)
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北川 景子 (茶々)

吹越 満 (毛利輝元)
松山 ケンイチ (本多正信)
和久井 映見 (寧々)
佐藤 浩市 (真田昌幸)
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制作統括:磯 智明・村山 峻平
プロデューサー:堀内 裕介・国友 茜
演出:川上 剛

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『どうする家康』
第43回「関ヶ原の戦い」

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