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2023年11月 7日 (火)

プレイバックおんな太閤記・(49)天下の行方

関ヶ原の合戦後、天下の形勢は一変して強力な徳川体制が出来上がっていった。が、形の上では家康は、なおも豊臣家のいち大老として秀頼の後見役の立場を取り続ける。ねねの願った通り、天下は平静を取り戻したかに見えていた。大坂入城の徳川家康を襲撃しようと企て蟄居を命じられた浅野長政は許されて京に戻り、子息幸長はその活躍ぶりから20万石加増され、甲斐から紀州へ国替えされたとのことです。

福島正則も加増されて尾張から安芸広島へ転封、豊臣家も領地が3割程度に減らされ、江戸に近い領国は徳川の近しいもので固められ、みな口々に批判の声を上げます。ねねは、秀頼を思っての賞罰だと家康の肩を持ちます。所領を召し上げられた木下勝俊は、弟の小早川秀秋が宇喜多秀家の旧領を受け継ぎ備前美作51万石に出世したと喜びます。その岡山城から届いた書状を読み進めたねねは顔色を変えます。「すぐ備前に発ちます」

秀秋が乱心しているという知らせを受け、急ぎ岡山城に入ったねねと勝俊ですが、秀秋は放心状態で座り込んでいます。ようやく目線をねねに向けますが、まるで睨みつけるような表情です。ねねはそっと秀秋に近づきますが、寄るな! と秀秋はのけぞり怯えます。一方勝俊が少しずつ秀秋に近づいて肩を抱きかかえると、我に返った秀秋は表情を緩ませ、自分を責め続けます。

「わしが裏切ったばかりに……秀家どのの領地はお返し申す。領地が欲しゅうて裏切ったのではないわ」 哀れに思ったねねは秀秋の手を握ろうと近づきますが、秀秋は再びのけぞり刀を抜いて警戒します。慶長7(1602)年10月、小早川秀秋はついに正気に戻ることなく、良心の呵責(かしゃく)に苛(さいな)まれながらその短い生涯を閉じた。所領51万石は世継ぎの子がないことを理由に、家康に没収されてしまった。

 

開けて慶長8(1603)年の2月8日、家康は大坂城へ赴き秀頼に新年のあいさつをし、豊臣家の大老としての礼を尽くした。が、家康が豊臣に臣従の礼を取るのもこれが最後となった。その直後の2月12日、家康は朝廷より征夷大将軍に任ぜられたのである。恭しく頭を下げる家康は、微笑みながら挨拶を述べていますが、秀頼も淀殿もその後の出来事は予想だにしていません。

豊臣の大老たる家康が征夷大将軍になり、江戸に幕府を開くとはどういう了見かと淀殿は激怒します。大蔵卿と大野治長母子は、将軍職が世襲制ではないことを理由に、秀頼が成人したら必ず将軍職を譲られるものと説明し、淀殿の怒りを鎮めようとします。淀殿は大蔵卿を一瞥すると、居室から出て行ってしまいます。

直後、ねねの屋敷に大蔵卿と正栄尼(秀頼の乳母)の姿がありました。伏見城に入った家康は新たに二条城を建設するなど、豊臣家を蔑(ないがし)ろにする所業を挙げ、秀吉の生前に取り交わされた「秀頼と徳川秀忠の娘・千姫」の婚礼の儀を執り行いたいと口添えを依頼します。千姫はまだ7歳だと困惑するねねですが、婚儀をすれば秀頼は家康の孫になるため、粗略に扱わないだろうという思惑です。

ねねは軍叙任の祝いと称して伏見城に入ります。その挨拶もそこそこに、婚儀の話を持ち掛けるねねですが、家康も婚儀のことを忘れたわけではないにせよ、千姫がまだ幼いと躊躇します。ねねは、家康が将軍になったことで豊臣の中には家康の心を疑う者もおり、秀頼を粗略に扱えば暴挙に出る可能性もあると説得します。「今は豊臣に異心のないことを天下にお示しなさることが……どうかお察しくださいませ」

その年の5月、千姫は母小督に付き添われて上洛。7月28日、秀頼と千姫の祝言が大坂城で盛大に行われた。その陰にねねの努力があったことなど、お茶々は知る由もなかった。

浅井三姉妹が久々に揃い、ねねはホッと笑顔を浮かべます。小督は今や徳川将軍家の内室で淀殿を凌ぐ権勢と、初は目を細めます。ねねは、天下がどう動こうと変わらないのは姉妹の縁(えにし)と、豊臣と徳川が争うようなことがあっても姉妹が争って戦になるようなことは避けなければならないと諭します。淀殿は、そんな思いで千姫を送った小督の気持ちを無にはしないと約束します。

 

秀頼と千姫の結婚で、しばしの平和が保たれる中で、慶長10(1605)年4月12日、家康の奏請で秀頼は右大臣に任ぜられた。お茶々たちは秀頼が信長と同じ官位にのぼったことを慶び、家康が孫の秀頼を大事にしてくれていると安堵した。が、それもつかの間、4日後の4月16日、家康は征夷大将軍を秀忠に譲ったのである。

将軍職は徳川の世襲で、秀頼に譲る気がないと天下に示したことになります。秀忠が将軍宣下の儀式に上洛した際、伏見城へ秀頼に祝いに参上しろと要求しています。ねねに家康と手を切る覚悟を求め、豊臣恩顧の大名を集め戦を始めると脅す淀殿に、ねねは時の流れには逆らえないとつぶやきます。秀頼が誕生してから豊臣は二分され、大戦を経て今や豊臣には徳川に抵抗できる力はなくなってしまったのです。

65万石とはいえ大大名であり、今の豊臣にはそれが分相応だとねねは諭しますが、淀殿はねねが豊臣より徳川が大事ということだけは理解したようです。徳川には力があり天下も治まるが、ねねが子を産んでいたら豊臣を見捨てなかったと、徳川に味方する理由を秀頼が憎いからとされてしまいます。淀殿の暴言は止まらず、ねねは淀殿の言う通りかもしれないと涙を浮かべます。

着物を折りたたむねねの横に、秀吉の幻が立っていました。「おかかも言うのう」と笑う秀吉に、ねねは言い過ぎとは自認しつつも、いつかは言わなければ、淀殿は豊臣の立場を知らないまま過ごす恐れがあります。ねねは淀殿に言うことは言ったし、豊臣のために働くこともなくなったと、そろそろ落飾して天下とかかわりのない暮らしをしたいと秀吉に伝えます。

まもなくねねは出家し、朝廷より高台院という院号を賜ったのにちなんで、京に高台寺を建立。秀吉ならびに一族の菩提を弔う暮らしに入った。

そしてある日のこと。高台寺の門前を掃く僧がいます。庭掃除する者は別にいるので気遣いは無用と、ふみは銭を渡そうとしますが、銭が欲しくてしているわけではないと僧はつぶやきます。それでも無理して銭を渡そうともみ合っているうち、ふみは僧が副田甚兵衛であることに気づきます。

対面したねねは、甚兵衛の無事を喜びます。あさひの没後、せめて菩提を弔いたいと旅芸人一座を飛び出して出家し、托鉢する日日でしたが、ねねが高台寺にいるという風の噂を聞き、せめて門前だけでも清めさせてもらいたいとやって来たそうです。甚兵衛はねねに、今後はこの寺で豊臣の者たちの菩提を弔ってやってほしいと言われ、甚兵衛は感激します。

そこに大御所家康が訪問してきました。高台寺建立に際して家康に心遣いを得たねねですが、徳川が今日あるのもねねのおかげです。ねねは、自分が家康に味方したのは徳川ではなく天下のためだと念押しします。家康はねねの心に添うよう務めを果たすと表明します。その後家康は、徳川に反発する豊臣を相手にせず、江戸の秀忠を表面に立てながら大御所としての実権を握り、着々と徳川政権の強化に努めた。

 

徳川豊臣の対立関係に新たな変化が生じたのは慶長16(1611)年。家康が6年ぶりに上洛することになった時からである。家康の上洛の目的は、後陽成天皇が譲位し政仁親王の即位の儀式に参列するためですが、それを機に成長した秀頼と対面したいと、上洛を求めているそうです。加藤清正と浅野幸長に報告を受け、ねねは淀殿が承服するまいと首を横に振ります。

秀吉は家康に臣従の礼を取らせようと、妹や母を人質に送り込み上洛を促していましたが、臣従した家康はどんなに無念であったかとねねは慮ります。今や豊臣と徳川の立場は真逆となり、家康はよほどの覚悟を持って上洛を促していると感じたねねは、豊臣が生きるか死ぬかの岐路に立たされている大坂城へ向かう決意を固めます。

みなの説得に淀殿は、秀頼の上洛をしぶしぶ承諾しますが、治長は秀頼をおびき出して殺害しようという家康の謀だと反対を唱えます。ねねは秀頼について守り抜くと約束します。上洛しなければ豊臣の命運は尽き、戦になってしまう危険性があるわけです。清正も幸長も随行を名乗り出て、淀殿は秀頼の上洛を認めます。

慶長16年3月28日、秀頼は二条城で家康と会見した。秀頼19歳、7歳の時大坂城に移ってから、12年目の上洛である。秀頼に酒を勧め馳走を出す家康ですが、酒はたしなまないと清正が代わりに盃を受け、秀頼は腹下しで膳も食べないと幸長は頭を下げます。不気味な雰囲気に家康は笑うしかありません。死を覚悟して供をした清正と幸長だったが、家康と秀頼の会見は和やかに2時間ばかりで終わった。が、この会見以後、豊臣ははっきりと徳川に臣従し、徳川傘下のいち大名になったことを自ら認めることになった。豊臣の凋落は、誰の目にも明らかであった。


作:橋田 壽賀子
音楽:坂田 晃一
語り:山田 誠浩 アナウンサー
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[出演]
佐久間 良子 (ねね)
西田 敏行 (豊臣秀吉)

浅芽 陽子 (やや)
尾藤 イサオ (浅野長政)
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池上 季実子 (淀殿)
五十嵐 淳子 (小督)
井上 純一 (豊臣秀頼)
岩崎 良美 (豪姫)
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大和田 伸也 (木下勝俊)
大和田 獏 (小早川秀秋)
フランキー 堺 (徳川家康)
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制作:澁谷 康生
演出:北嶋 隆

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『おんな太閤記』
第50回「平和への道」(最終回)

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