プレイバック徳川家康・(45)巨城の呼び声
再び戦乱を望む者にその野望をそそらせる殺気の城・大坂城。秀頼がその城から出るのを拒んだとき、天下に騒乱を招く者として我が子忠輝ともども罰していかねばならぬと、江戸城に入った家康が苦悩の熟慮を重ねていたころ、当の忠輝は仙台に引き揚げた伊達政宗からの便りに若い夢を膨らませていた。
伊達政宗がカルロスに作らせ、イスパニアに出向していった船の模型を前に、忠輝は満足そうです。忠輝は自らヨーロッパに乗り出していきたいという夢を語りますが、福島城という田舎に押し込められている不満への反動にも見えます。忠輝の“思い立ったら行動を起こす”という気性も面影も、家康がまだその死を悼んで止まぬ長子信康とそっくりであった。
家康と対面した忠輝は、欧州遣欧の使節には自身が立つべきだったと訴え、船が帰って来たら海外との外交は自ら請け負うと名乗りを上げます。それにあたり忠輝は、家康に大坂城が欲しいと言い出し、慎まっしゃい! と家康を激怒させます。「そのようなこと、だれがおことに命じた! まず将軍家のご意向を伺うてみるが筋道じゃ」
その夜、家康を迎えての秘密評定が西の丸中書院で開かれた。大坂城内では宣教師が渡辺内蔵助と密談し、明石掃部が高山右近に密書が発せられています。九度山の真田幸村にも戦に誘う使者が出入りしているとかで、その報告を受けた家康は扇子を叩きつけて感情を露わにします。これまで好々爺だった家康が怒りを表し、家臣たちの間に緊張が走ります。
皆が泰平のありがたさを忘れかけたことにあり、戦の無残さを語り継がなかった不都合者の第一は自身だと家康はまくし立てます。泰平の世を作ることのみに力を入れ、その後の教育を怠ったわけです。忠輝を大久保長安に任せすぎ、秀頼を織田有楽斎や片桐且元に任せすぎたことが、いまのこの状況を生んでいるわけです。
すでに火の手は上がっていて、どう消していくか。野心を育てるのは大坂城という存在であり、秀頼には大坂城を退去してもらう必要があります。家康は、秀頼を一人前として扱うためにも、このことを彼の耳に入れるべきと徳川秀忠に勧めます。そして方広寺修復の寄進として秀頼へ1万石の加増を求めます。「天下を騒がせとうないゆえ、将軍家にまで無心をしてのけた。わしのその心を皆も決して忘れぬように」
家康は急ぎ豊臣家の家老・片桐且元を駿府に呼んだ。このまま放置していれば、秀頼は否応なく戦の中に巻き込まれてしまうため、秀頼には大坂城を出て行ってもらい、代替地として大和郡山城に移ってもらう──。秀頼が浪人たちに担がれて戦になれば、家康も私情を捨てて豊臣家を滅ぼさねばならなくなります。
いまの大坂の味方は、キリシタンでは高山右近、軍師では真田幸村であり、このふたりが立ちあがったときには忠輝と政宗が呼応して決起すると錯覚しているわけです。家康は、城内に兵を入れるのは方広寺落慶式だと推測し、且元はハッとします。さすが家康の洞察は鋭い。大坂方の思惑をズバリ言い当てたのである。家康は、豊臣の行く末を心配する自身の気持ちが秀頼と淀に伝わるように且元を言い含めて帰します。
天下に騒乱を起こすことなく豊臣家を無事に存続せしめる。そのため家康は油断なく次々と手を打った。キリシタン信者の中心人物・高山右近の追放。そして大坂城をくれと言い出した六男忠輝の高田移転命令である。
当然忠輝はこの命令を承服できません。これには大御所の深い考えが、と五郎八姫は忠輝をなだめますが、家康への怒りはいつしか将軍秀忠への怒りに変わります。家康の子の中でなぜ自分だけがこのような冷遇を受けなければならないのか。将軍家は自分を憎み、自分を警戒しすぎているのだと、もはや忠輝と将軍家の間の信頼関係はまったく崩壊してしまっています。
ついで家康は松倉豊後守に、九度山に隠棲する天下随一の智将とうたわれた真田幸村を訪れさせていた。家康は天下を騒がせたくなく、幸村には大坂には味方をしないことを決断してもらいたいわけです。幸村は味方すると承諾したものの大坂入城するとは返事していない段階です。ただ自分が味方するしないに関わらず戦は止められまいと、豊後守に家康へ伝言させます。
この世を生きた浄土にしたい家康の夢の一方で、この世に戦は絶えないものと言い切った父・真田昌幸の言葉も是であると幸村は考えています。秀頼の置かれた立場をしみじみと憐れむ幸村は、その秀頼に真田の六文銭の旗ひと指しを送って果てたいという思いが強いのです。「もはやこれまででござる」と豊後守は幸村の家を後にします。
真田幸村の大坂入城阻止の勧告は果たせなかったが、かねて内意のあった秀忠の息女・和子入内のことを、家康は一挙に進めさせていた。これで将軍秀忠の地位は、禁裏との関係からも不動のものとなる。家康の、この水も漏らさぬ泰平のための準備に比べて、大坂方の片桐且元の動きは鈍く、肝心の移封のことを未だ秀頼と淀君の耳に入れていなかった。
秀頼は且元を大坂城の居室に呼び、世間の風評で心配だから秀吉が遺した法馬金1,000枚を1両小判にしておきたいと相談します。且元は誤解を受けると慌てて止め立てしますが、秀頼は軍用金と考えればいいことだと笑っています。大坂城内にいるバテレンを追放するには金が必要だし、軍事のことは大野修理が担当するから且元は方広寺のことだけに専念するように命じます。且元は完全に浮き上がっていた。
一方、淀の居室には修理と内蔵助がいました。大坂方へ味方を承諾した幸村の、九度山から大坂までの道中を、豊後守が軍勢を置いて固め出したのです。淀の戦法は将軍御台所(お江与)の考えもあり、京極(お初)の考えもあるわけですが、ただどちらにせよお初もお江与も江戸方の人間なので、その話に乗ってはならないと内蔵助は言いたげです。
江戸方を煽ってはならないと淀は忠告しますが、内蔵助に言わせれば煽っているのは家康の方です。内蔵助は幸村の言葉として、戦になるかならないかは大仏殿落成の日に決まると伝えます。落成祝いを口実に諸国から集まる浪人たちを大坂に入れまいと、家康はその前に手を打ってくるだろうというのです。その前に、豊臣家移封の話が出るだろうからと、内蔵助は淀に用心するように進言します。
慶長19(1614)年も初夏となり、家康はこの日到着する片桐且元を待っていた。再び戦乱の世を招かぬようふたりが誓ってから、半年が過ぎようとしていた。且元が到着し、家康は秀頼が移封に同意したかと尋ねますが、且元は、大仏殿落慶式を済ませてからと言葉を濁します。つまりこの半年の間、話は一歩も前に進んでいなかったわけです。
家康は且元を叱責します。大仏殿落慶式に浪人たちが蜂起したら元も子もなくなります。せめてその落慶前に秀頼と淀に移封の件は承諾させておかなければならないのですが、実際にはまだ話すらしていないわけで、且元の見通しの甘さが露呈してしまいます。大仏供養よりも暴動が起きないという保証の方が先だと、家康は且元に念押しします。
家康は茶阿の局に肩を揉んでもらいながら、長生きしすぎたとため息をつきます。秀頼や忠輝など、生々しい戦を知らない若者があふれ、泰平の世の中で暮らしながら心のどこかで波乱にあこがれる……。しかし一度波乱が起こったら、実力が伴わないためひとたまりもなく敗れてしまうのです。家康は泣き叫びたい感情に襲われます。「再び戦乱の世となった時、73年のわしの生涯はただの悪夢になろうでな」
片桐且元が改めて大坂から出てきたとき、家康は会わなかった。大仏の開眼供養は8月3日、堂供養は18日に行いたいという申し出に対しても、あっさりと許可して正純に告げさせたのである。これまで秀頼を立ててかえって潰していたような気がした家康は、強いて難題を持ち掛けることにします。
その難題が解けなかったときは戦になってしまいますが、心の中では家康は秀頼を殺したくはありません。秀吉の遺言のこともあり、万が一の時には秀頼と淀を助け出すつもりです。家康は柳生宗矩にその口実を考えてほしいと命じます。宗矩は3日の猶予を求め、このことは将軍秀忠をはじめ他には漏らしてはならぬと家康は付け足します。
ここは大和の柳生の里である。その夜のうちに駿府から消えた宗矩は、家康の依頼を果たすため一族である奥原信十郎を訪ねようとしていた。宗矩は信十郎に、万一の時には秀頼と淀を救い出してほしいからと、大坂方として城に入城するように依頼します。信十郎は意に添いかねるとはっきりと断ります。豊臣を恨む言われはない信十郎は、危険を冒してまで弱者を叩くような戦に味方はしたくないというのです。
信十郎はせっかく来てくれた従兄弟に湯漬けをふるまおうとしますが、殺気を感じた宗矩は刀を手に身をひるがえします。次の瞬間、ふすまというふすま、廊下から刀を抜いた家臣たちが宗矩に向かってきます。宗矩はなぜ斬ってこないのかと信十郎をあおりますが、信十郎は宗矩を見据えます。「我が師・石舟斎の教えは『不殺刀』にござる」
殺さずして人に勝つ「不殺刀」、この言葉を宗矩は入城承諾と受け取った。一族の者にも気づかれないふたりだけの暗黙の了解である。今日のところは見逃そう! と宗矩は素早く屋敷を後にし、家臣たちが追いかけようとしますが、信十郎は深追いをやめさせます。
慶長19年夏、大仏殿の開眼供養をいよいよ明日に控え、京の町は諸国からの見物人でにぎわっていた。無論その中には、騒乱に加わろうとする浪人たちの群れが、ただならぬ数で紛れ込んでいた。京都守護の板倉勝重は片桐且元邸を訪れ、大仏殿の梵鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」の文があり、家康を切断し豊臣家と楽しむ意味だと指摘します。
大仏殿供養の日を延期するようにと言われて、且元は必死に食い下がりますが、その訴えも空しく供養開催は断じてならないと言われてしまいます。勝重も守護職として天下を狙うような不届きな銘文を認めるわけにはいかないのです。命を懸けて儀式は行わせないと宣言し、顔色を失った且元は、慌てて大坂城大広間の秀頼の元へ駆けつけます。
淀は且元を見るなり助けを求めます。家康の腹黒い計略を分かっていながらお江与に謀(たばか)られて騙され、敵に先手を打たれたと豊臣家臣たちが淀を責め立てていたのです。有楽斎は、大坂城内には家康を呪う者(修理)がいて、初めからこの話に亀裂が入ると見て現場放棄するつもりだったところ、且元というバカ律義な忠臣がいて結果的にそうさせなかったと明らかにします。
内蔵助も、且元は斬ってしまい浪人たちを城内に引き入れ、所司代屋敷や伏見城を落とした上で籠城する。豊臣恩顧の大名たちに兵糧の面倒を見させれば、2~3年はびくともしないと主張していたと公表します。いよいよ爆発点に達する大坂方の真相を、有楽斎は且元に説明したのです。これは有楽一流の且元への好意である。
且元は、大仏殿供養の日の延期については真野豊後に頼んできたため大丈夫だろうと見解を示し、今回の問題は梵鐘の銘文が原因なので、疑いを晴らすために再度駿府に派遣してほしいと秀頼に懇願します。秀頼は家康の健康がすぐれないことを心配し、その疑いが晴れれば元気になるだろうと考え、且元を派遣することにします。
この時まで、秀頼にも淀君にも一戦する気など微塵もなかった。従って、且元がふたりに家康の考えを説いていったら、あるいは案外あっさり移封を承知していたかもしれない。大坂城内では、獅子身中の虫である且元を斬るという動きが出始め、大野修理と治房兄弟を中心に、企てを実行に移していくことになります。
淀は有楽斎を呼び、且元とともに駿府へ行ってほしいと頼みますが、持病があって無理だと断られます。有楽斎は代案として、大野修理の母・大蔵局と、内蔵助の母・正栄尼を且元につけ、これを家康が素直に帰すか人質に取るかで家康の心が読めると勧めます。そして母を人質に取られた修理と内蔵助が、それでも戦うと言うかどうか。その代案に淀は深く考え込みます。
城内の主戦派・七手組の武者長屋には、すでに続々と浪人どもが入り込んでいる。が、そのことを秀頼は誰からも知らされていなかったのである。
宗矩は、大坂方と戦になった場合、淀や秀頼、そして千姫の脱出の手はずは整ったと家康に報告します。家康は秀頼と戦いたくはなく、一人前の男として家康の難題を解いてみよと呼びかけているのです。「祈っておるのじゃ」 そう言う家康の背中を、宗矩はただ黙って見つめていました。
原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
語り:館野 直光 アナウンサー
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[出演]
滝田 栄 (徳川家康)
勝野 洋 (徳川秀忠)
内藤 武敏 (本多正信)
田中 健 (松平忠輝)
本田 博太郎 (本多正純)
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夏木 陽介 (柳生宗矩)
久米 明 (片桐且元)
谷 隼人 (大野修理)
岡本 舞 (五郎八姫)
利重 剛 (豊臣秀頼)
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若林 豪 (真田幸村)
井川 比佐志 (奥原信十郎)
夏目 雅子 (淀君)
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制作:澁谷 康生
演出:松本 守正
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『徳川家康』
第46回「老いの決断」
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