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2023年11月19日 (日)

大河ドラマどうする家康・(44)徳川幕府誕生

1600年・関ヶ原の戦い──。石田三成率いる大軍を、関ヶ原にて見事打ち破った我らが神の君。そのまま大坂へと進み、豊臣秀頼公へ戦勝報告をしたのでございます。徳川家康のことを、茶々に“新たなる父”と教えられた幼い秀頼は、「いただきます、父上」と盃に口をつけます。

家康は手をつき、天下の政は自分が務めると挨拶します。毎年正月に背丈の高さで柱に傷を入れていて、幼少の秀頼はまだまだ背丈は低いのですが、あと10年もすれば豊臣秀吉の高さに追いつくだろうと茶々は目を細めます。「太閤殿下の果たせなかった夢を、秀頼が果たすこともできましょう。それまでの間、秀頼の“代わりを”頼みまする」

立ち去ろうとする家康に、秀吉の遺言通り、家康の孫・千姫と秀頼の婚儀を進めていこうと微笑みます。豊臣と徳川の両家が手を取り合うことが大事だという茶々に、秀忠は承知したと頭を下げますが、家康は秀忠を一瞥し、婚儀のことは何も言わずに下がっていきます。ふたりの姿が見えなくなると茶々は秀頼を睨みつけます。「わかっておるな? あのたぬき、決して信じるでないぞ」

秀頼の元を辞し、憮然とした表情で歩いていく家康の後をついてくる秀忠は満面の笑みです。茶々が徳川と豊臣が結ばれることを望んでいると分かり、よかったと浮足立つ秀忠ですが、家康は秀忠をチラリと見て、茶々が早く人質を寄越せと言っているのだと吐き捨てます。婚儀は徳川にとっていいことだと考えていた秀忠は、まさかの家康の一言に言葉を失います。

家康は日本の地図を広げて誰をどこに配置するか頭を悩ませています。覗き込む本多正信は、豊臣とのつきあいが難しくなると、将軍になるという手を進言します。「徳川は武家の棟梁、豊臣はあくまで公家。棲み分けられるかもしれぬな」
そのころ、刀の手入れをする本多忠勝ですが、手を滑らせて指を切ってしまいます。忠勝はその傷口をじっと見つめて固まります。

 

柱に傷をつけた秀頼の成長記録が、慶長5年から慶長6(1601)年を経て、慶長7(1602)年。伏見城には於大の方と寧々の姿がありました。家康が誕生したときの逸話として、強く見せるために寅年生まれと皆に吹聴(ふいちょう)したが、実は兎年なのだと於大は明かします。しかし家康は今の今まで寅年生まれだと信じていて、その表情は狸のように呆然です。その純情ぶりに於大と寧々は大笑いします。

於大は自分を都に招いた礼を言います。天皇にまで拝謁とは夢のようです。家康は於大の長生きを願って薬を煎じます。於大はこれまで、国のためにすべてを打ち捨てよと家康に言ってきましたが、今となっては正しかったのかどうか分かりません。「そなたの大事なものを大切にしなされ。独りぼっちにならぬようにな」 このみつきの後、神の君に看取られながら、於大の方さまはそのご生涯を閉じられたのでございます。

 

慶長8(1603)年、我らが神の君は征夷大将軍に任じられ、ここに徳川幕府が開闢(かいびゃく)。新しき世を築くため、戦以外の才に秀でたる者を抜擢(ばってき)。若く知恵の優れた者を大いに登用したことで、太平の世を担う才能が、神の君のもとに続々と集まっておりました。ウィリアム・アダムスは家康に命じられた船づくりについてプレゼンし、若い武士たちは活発に調べ物をし、議論を戦わせます。

その中にひとり、「朱子学をもって正しき人の道を広く説かねばならぬ。乱れた世は乱れた心から」と言っている本多正純がいました。正純はイカサマ師との悪名高い正信の嫡男で、その割には律義さには定評があります。幼いころから“ああなってはならぬ”としつけられてきた正純は、父のような不埒な生き方を許さぬことこそこれからの世、と胸を張ります。

長く髪の君をお支えになった忠臣たちも、戦なき世を謳歌しておいででございました。伊勢・桑名では、忠勝が肖像画を描かせていました。榊原康政曰く、前の絵の方が似ていたそうですが、忠勝には似ているかどうかは関係なく、強そうに見えるかが最大の着目点なのです。まあ……強そうではあるが、と康政が答えると、忠勝はしぶしぶ承諾します。

関ヶ原の戦いの恩賞で、忠勝は桑名、康政は舘林へ。豊臣恩顧の大名に大きな褒美が行き、徳川家臣団には薄かったわけですが、ふたりともそれに不満があるわけではありません。ただ、若い者が次々と登用され、忠勝や康政らの活躍できる場がなくなりつつあるのは確かです。ともに戦った井伊直政は、関ヶ原の戦の傷が元ですでに亡く、「戦に生きた年寄りは、はや身を引くべきだ」と康政はつぶやきます。

難しい顔の家康のところに飛び込んできたのは千姫です。豊臣の家が怖いから行きたくないと無茶を言っていて、千姫の後を追いかけてきた江がほとほと手を焼いています。家康は豊臣家は母の姉がいる家だから怖いことはないと優しく諭しますが、江が普段から茶々のことを怖い怖いと口癖のように言っていたらしく、だから怖いと思っているのです。

江はせきばらいをし、もうひとりの姉・初はとても優しいと話をはぐらかしますが、千姫はそれにはだまされず、家康の元に行って抱きつきます。家康もまたせきばらいをし、江を一瞥すると、千姫に目線を合わせてしゃがみこみ、優しく言葉をかけます。「そなたはな、わしの孫、徳川の姫じゃ。それを片時も忘れるでないぞ。何かあればこの爺がいつでも駆けつけよう」

 

慶長9(1604)年、12歳の秀頼はまた背が伸びました。そしてあれだけ嫌がっていた千姫も輿入れを果たし、豊臣になじんでいるようです。大野治長(修理)は、豊臣家中がひとつとなって秀頼を支えていこうと発言します。茶々は、治長が大坂城に戻って来てくれて頼もしい限りです。家康に流罪を命じられた治長は、関ヶ原の戦いで東軍の福島正則軍で戦功をあげ、反逆心なしと家康に認められて赦されたのです。

江戸城に家康が入り、秀忠は丁重に出迎えますが、家康の視線は秀忠ではなくその兄・結城秀康に注がれていました。家康に政務の指南をもらいたいと来ていたわけです。一方の秀忠は千姫の心配をします。徳川・豊臣の両家がうまくいっているかどうかが気になったわけですが、まず身内の心配かと家臣たちの前で家康にたしなめられます。「関ヶ原に遅れた時から、何も成長しておらぬな」

あれは自分のせいで遅れたわけではないと秀忠は口答えしますが、わずかな供回りで急いだにすぎず、家康に言わせれば全軍を率いて関ヶ原へ来なければならなかったのです。同行していた正信も康政もそうしていいと言ったと弁解する秀忠を掴み、突き飛ばします。「人のせいにするな! すべてお前のせいじゃ」

忠勝は書状を顔に近づけて読んでいます。その後姿をしばらく見つめていた家康は、お互い年を取ったと微笑みますが、忠勝は思いつめたように進言します。戦しかできない年寄りは必要ないなら言ってほしい──。家康の一言があれば、忠勝はいつでも隠居するつもりなのです。忠勝は家康を見据えます。

そこに康政が来て、先ほどの場面について家康に諫言します。家臣たちの面前で叱るべきではないし、関ヶ原のことをいつまでも刺すのはよくない、と。秀忠の誇りを傷つけるだけなのです。「殿のお叱りようはあまりに理不尽。殿から見たら頼りなくも見えるでしょう。されど殿とて、あのくらいのお年のころはどれほど頼りなかったか!」

家康は、自分が若いころにはお前たちがいたと微笑みます。酒井忠次、石川数正、鳥居忠吉……。皆が家康をこっぴどく叱りました。秀忠を、誰があのように叱ってくれるか。耐え難い苦しみも、秀忠には未経験なのです。康政は、苦しみを知らないのは本人のせいではないと秀忠の肩を持ち、忠勝もこれから時間をかけて学んでいくと家康を諭します。「それでは間に合わぬ。関ヶ原はまだ終わっておらぬ」

関ヶ原の戦いは、所詮豊臣家中の仲たがいの戦であり、それが鎮まって再び一つになり秀頼の元に集まっています。もっと難儀なのは戦で敗れて改易や減封となった家臣です。多くの浪人があぶれて(=仕事に就けないで)いて、紀州九度山では真田信繁が家康憎しと多くの浪人たちとともに鍛錬に勤しんでいます。食い扶持は与えているはずですが、彼らが欲しているのは戦なのです。

このまま秀頼が成長したときには、戦になる可能性が高いわけです。康政は、豊臣に天下を返すか、それとも豊臣を……。家康は忠勝を見据えます。「平八郎、隠居など認めぬぞ。小平太も、まだ老いるな。まだ……お前たちの力がいる」 康政も忠勝もフッと笑います。いつになったら主君と認められるやら、と忠勝はこぼしますが、彼の中では家康はまだ主君ではないようです。

家康は秀忠を呼び、関ヶ原の不始末が秀忠の責任であると確認します。家康や秀忠のような上に立つ人間は、うまくいったときには家臣たちを称え、うまくいかなかったときは自分たちが責めを負えと教えます。秀忠も神妙に手をつきますが、家康は秀忠に近づきます。「征夷大将軍、1年のうちにそなたに引き継ぐ。用意にかかれ」

秀忠は、後継者に自分を選んだのは兄が側室の子だからかといぶかりますが、康政は家康がそんな理由で決めるわけがないと否定し、正信は秀康に才能があるからこそ跡取りにしないと打ち明けます。「才ある将が一代で国を栄えさせ、その一代で滅ぶ。その点、あなたさまは全てが人並み! 人並みの者が受け継いでいけるお家こそ長続きいたしまする。いうなれば“偉大なる凡庸”といったところですな」

 

「こんなものを寄越してきおった!」と茶々はわなわな震えています。征夷大将軍の座を家康が秀忠に譲ったことを知らせる書状です。それは天下は徳川が受け継いでいくというメッセージで、治長は秀吉との明らかな約定違反と批判します。そしてずうずうしくも秀頼に挨拶に来いと言っていて、それが茶々の怒りをさらに大きいものにしています。「秀頼を行かせるぐらいなら秀頼を殺して私も死ぬとな!」

康政が忠勝の館を訪問すると、未だに肖像画を書き直させていました。絵師も忠勝を見ずに書き続けていて、もはや忠勝とは別人の仕上がりです。それでも強そうに見せたい忠勝に、康政はフッと笑います。康政は方々にあいさつ回りしているようで、忠勝が帰ろうとする康政を掴んで問いただすと、実ははらわたの調子がよくないと白状します。

まだ老いるなと言われただろうと忠勝は康政を叱りつけますが、康政は掴んだ忠勝の傷が入った手を見て、今まで戦で傷を負ったことのなかった忠勝の目が見えなくなってきていることを知ります。迂闊なことで笑い種と忠勝は自虐しますが、康政はポツリとこぼします。「老いには抗(あらが)えぬ。無念だがわれらはここまでのようじゃ」

とぼとぼと帰ってゆく康政を引き止め、忠勝は槍を康政に渡して構えます。「老いなど認めぬ。見届けるまで……死ぬな」 激しく太刀合わせをするふたり、お互いがよろめきながらも果敢に挑み、忠勝は槍の穂が取れても戦い続け、康政も柄の部分でその攻撃を受けます。その太刀合わせは、ずっとずっと続いています。

でも忠勝は、本当は家康のことを主君だと認めていたのでした。あれは桶狭間直後の大樹寺に入った折、「そなたたちのことは、このわしが守る!」と言われ、雷が落ちたような衝撃を味わったのでした。そしてそれは康政も同じで、十戒のように開いた道を堂々と行進していく家康の背中を、じっと見つめていました。「まだ見ていたいのう……あの背中を」

 

慶長11(1606)年、康政死去。そして慶長15(1610)年には忠勝も死去します。
そして翌年の慶長16(1611)年に迎えた評定です。大坂城では浪人たちを集めて施しを行っているようで、徳川が上方から去った時からあからさまに活発化しています。秀頼は19歳──。

茶々は秀頼の背の高さで柱にキズを入れながら、どこからどう見ても見事なる天下人と笑みを浮かべます。家臣たちの前に現れた秀頼は容姿端麗、柔和な笑みを浮かべています。「さあ、宴のときじゃ」

時が満ちた──と家康は睨みつけ、立ち上がります。


作:古沢 良太
音楽:稲本 響
語り:寺島 しのぶ
題字:GOO CHOKI PAR
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松本 潤 (徳川家康)

山田 裕貴 (本多忠勝)
杉野 遥亮 (榊原康政)
板垣 李光人 (井伊直政)

松嶋 菜々子 (於大の方)

松本 若菜 (阿茶局)
森崎 ウィン (徳川秀忠)
マイコ (江)
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大森 南朋 (酒井忠次(回想))
音尾 琢真 (鳥居元忠(回想))
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松重 豊 (石川数正(回想))

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北川 景子 (茶々)

玉山 鉄二 (大野治長(修理))
松山 ケンイチ (本多正信)
和久井 映見 (寧々)
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制作統括:磯 智明・村山 峻平
プロデューサー:堀内 裕介・中村 周祐
演出:村橋 直樹

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『どうする家康』
第45回「二人のプリンス」

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