プレイバック徳川家康・(40)関ヶ原
慶長5(1600)年9月15日、朝。関ヶ原は濃い霧に包まれていた。総数108,000、西軍の布陣は東軍包囲の陣。一方、75,000の東軍は中央突破の魚鱗の陣である。
家康は、この朝すでに本陣を安全な桃配山から関ヶ原の東の端まで前進させていた。霧が晴れた時、敵方の度肝を抜くためであり、そしてこの戦いにかける家康の決意の表れでもあった。濃い霧から「厭離穢土 欣求浄土」の旗の文字が浮かび上がる中、家康は昨晩からの本陣の移動で、双方とも疲れが出ていると考えます。この戦いでは、敵に疲れていると思われた方が敗れる可能性が高いのです。
石田三成の本陣は、関ケ原の一番北・笹尾に二重の柵を構えていた。これは敵の来襲に備えてここに鉄砲を仕掛け、その命中率を的確ならしめようというものである。東軍を完全に包囲する陣形を取りながら、東の口を閉める南宮山の毛利と、西の口を閉じる松尾山の小早川勢が動かなければ、西軍の戦は底もふたもない桶で水を汲む徒労に終わってゆく。
霧の中、東西両軍の対峙は続いた。そして午前8時、ついに霧が晴れだした。家康は井伊直政に命じ、いよいよ行動を開始します。井伊直政を後見に、家康の四男・松平下野守忠吉がまず先陣を切った。初陣の愛児をいかに敵の前面に立てさせるか、家康の並々ならぬ決意の表れである。
福島正則は、忠吉軍が放った鉄砲音と怒涛の如く敵陣に突っ込んでいく様子を見て、あれは我々への挑戦状、早く出ていけという催促だと慌てて出陣していきます。あっという間に味方の最前線を走り抜けた井伊直政と忠吉は、今日の戦で最強とみられている島津勢へまっしぐらに馬を駆った。
島津義弘本陣では、井伊・忠吉軍が向かって来ていることを伝令が報告しますが、義弘はいたって冷静で、射程圏内まで十分引きつけておいてつるべ打ちにするように命じます。その後から細川・加藤・稲葉の各隊が追いかけてきている中、福島勢が宇喜多勢へ向かっていることを知り、義弘はこの陽動作戦を練った家康は只者ではなかったとつぶやきます。
南宮山の毛利勢、松尾山の小早川勢が未だに動かず、家康は午前中が勝負と考えます。一方、三成も迫りくる田中吉政勢に鉄砲で狙い撃ちするように命じます。家康は、今日の戦を人間の体力の限界で考えていた。家康出現により後手を踏んだ西軍は、関ヶ原への着陣で昨夜からほとんど眠っていない。井伊直政と松平忠吉を先陣にさせたのは、相手の疲労が回復しないうちに、決戦の火ぶたを切っておきたかったからである。
午前9時、中山道に一番近い位置で、福島勢と宇喜多勢とが一進一退の戦いを続けていたころ、田中吉政勢を迎えた石田三成は、島 左近を柵外で戦わせ、東軍をおびき寄せてから鉄砲のつるべ打ちを食わせようとしていた。だが三成に対して憎悪を抱く黒田長政が鉄砲隊を引き連れ、密かに石田勢の側面に回っていた。
その攻撃により鉄砲の的になった左近はあえなく討ち死に、ひるんだすきに長政勢が一気に三成勢に突っ込みます。島 左近討たるの知らせに愕然となった三成の元へ、思いもよらぬ情報がもたらされた。西軍中の有力な働きを成すべき小西行長が戦意を示さず、ために島津勢も守勢をとって動かぬという。三成は「いよいよ戦機は熟したり! 諸将は討って出られたし!」との口上を伝令に伝えさせます。使者はただちに島津・小西・大谷、そして松尾山の小早川秀秋の元に飛んだ。
このころから関ヶ原の運は急を告げ、いよいよ実力で押し合う中盤戦へと入る。問題の南宮山と松尾山を残しては、完全に決戦のるつぼと化した。その様子が、この松尾山からはいちいち手に取るように見える。それを思うさま見物する気だった秀秋は、大きな誤算の中に取り込まれていた。
すなわち山のすそには、大谷吉継の命を受けた脇坂・朽木らの軍勢が山上の秀秋を監視してあり、陣屋の中には北政所(ねね)の意を介した黒田長政の家臣・大久保猪之助と、家康の元から連絡係という名目で奥平貞治が、暗殺者の任を受けて取り込まれていたのである。猪之助は激怒して出陣を迫り、小早川重臣の平岡頼勝と言い争いになりますが、重臣がいながら長政や家康をだますまいと貞治はニヤリとします。
未だ毛利や小早川は動かずと知り、家康は安国寺恵瓊の陣に総攻撃をかけて毛利勢の動きを見てみることにします。
その毛利陣営では三成の口上を伝令によって伝えられると、毛利秀元は兵士に弁当を食べさせてから出陣すると返答します。関ケ原の西・南宮山には、父・輝元の名代として毛利秀元が陣している。しかし毛利一族の吉川広家が毛利家存続のため、すでに和議申し込みの誓書を送っていた。秀元もさらさら戦う気はない。秀元は広家に、恵瓊へ使者を送らせます。
秀元の消極的な態度に、秀元は西軍の対象ではないかと、恵瓊は秀元の使者を一喝します。そして時を置かずして池田輝政と浅野幸長の軍勢が鉄砲隊を先頭に押し寄せているとの報告に、恵瓊は唇を噛みます。「……こしゃくな!!」
小早川勢が未だに動かず、黒田長政の陣から督促の使者が赴いていますが、家康は爪を噛んでいら立ちを隠しません。もはや西軍は浮足立っている。今ここで小早川勢が山を下って大谷勢の横を突けば、一度に西軍は崩れ出す。そろそろ両軍ともに体力の限界に来ていた。もはや堪忍ならぬと、家康は小早川勢の松尾山に鉄砲を撃ち込めと本多正純に命じます。
「とうとう内府を怒らせたぞ!」と猪之助と貞治が決断できない秀秋に呆れますが、完全に自分を見失った秀秋は、今 山を下って大谷勢を突けとようやく立ち上がります。
松尾山から怒涛の如く駆け下りてくる小早川勢が自軍に向かってくると知ると、吉継は「我が恨み七生まで残る」と、秀秋の旗を目指して切り込めと下知します。大谷勢の奮戦は、小早川勢を一瞬でも食い止めたかのように見えたが、その時脇坂・朽木らの4隊が東軍に寝返ったのである。吉継は、もはやこれまでと傍らの茂助に介錯を頼み、自らは切腹して果てます。
茂助が吉継の首を抱いて戦場をかけ去ったころには、この戦の勝敗は完全に決していた。すなわち小早川勢は寝返った4隊と合流して宇喜多勢に殺到し、さらにその北の小西行長の残兵に襲い掛かった。そして石田三成の手勢もまた、東軍最後の攻撃をかけられ、伊吹山に向かって雪崩を打って敗走し始めた。義弘は「初めから負ける気であったと言われては末代までの恥辱」と、家康本陣への切り込みを命じます。
西軍は伊吹山に向かって総退却! と報告を受け、家康もようやく胸をなでおろしたところですが、そこに島津勢が向かって突進してきました。救援のために東軍諸将が本陣に集まってきます。この時まで、まだ一枚の鱗(うろこ)も損傷していなかった家康魚鱗の構えは次々と突破され、島津勢は前代未聞の戦線離脱に成功したのである。島津勢が通り過ぎ、家康は深追いしてはならぬと命じます。
慶長5年9月15日午後4時、戦場におびただしい血潮と悲哀を残して、関ヶ原はいま暮れようとしている。雨の中、けがを負った兵士が続々と運ばれてきています。家康はその一人ひとりに声をかけ、励ましています。そこに長政が現れ戦勝を祝います。秀元が挨拶に来るべきところと気にしている長政に、まずは大坂の毛利輝元と和議を結んだあとで挨拶するのが順序と諭します。
直後、右腕に深い傷を負った直政と、右手をけがした忠吉が戻って来ました。家康はよく戦ったとふたりの戦闘ぶりを褒め、家康自ら薬を塗って手当てします。そこに秀秋が到着しますが、居並ぶ正則たちはギロリと秀秋を睨みつけます。恐れるあまり平伏したままの秀秋に、家康は優しい言葉をかけ、ニッコリ微笑みます。
そのころ伊吹山に逃げ込んだ石田三成は、ひとり山中を彷徨(さまよ)い歩いていた。目指すは秀頼のいる大坂城、この世のありように服従できない人間の、ギリギリまでにする反抗の姿を、自分でハッキリ確かめておきたかったのである。
家康は菩薩に手を合わせ、ようやく横になります。付き従った正純は、家康が休んだのを確認すると灯された明かりを消して下がっていきます。何のために人間はこのようにむごいことを繰り返さねばならないのか。大勝利にもかかわらず、家康は今日ほど「厭離穢土 欣求浄土」の旗を見るのが辛い日はなかった。
明けて9月16日、三成の居城佐和山へ降伏を勧める使者が立った。しかし面目回復を図った小早川勢が城内に侵入、ために留守居の三成の兄・石田正澄は、一族を引き連れ天守閣に上って火を放ち、妻を刺し子を刺し、それは手の下しようのない地獄絵図であった。そして三成一族が全滅の噂は、ここ京にもいち早く伝えられていた。
涙を流して悲しむお袖に、ねねは母なる気持ちで救おうとした三成一族の菩提を弔う心を持つよう諭します。死んではならないと言葉をかけますが、はい……と短く返事するお袖の本心ではないと、ねねは見抜いたのでしょう。冷めた目で見ていたねねはお袖の腕を掴み、仏間に連れていきます。「まだまだ危ない地獄を覗いていやる……御仏におすがりなされ」
三成を悲劇の中に立たせた原因は無数にあった。だがお袖がその決心をあおったことは事実である。それだけに血筋のひとりも救えなかったことが、お袖の心を打ちのめしていた。
山中での3日間にわたる流浪の末、近江の伊香郡(いかごおり)に着いた三成は、村人に匿われ小さな岩穴につかの間の休息の時を得ていた。三成はこの地で生まれ、この地で秀吉に見いだされ、そして再びこの地へ敗残の将として戻ってきたのである。2634与三郎はそっと三成の元を訪れ、握り飯と銭を三成に渡します。銭を見た三成は、ここから出て行けという意味に受け取ります。
与三郎の舅(しゅうと)は無類の善人で、舅を罪人にはしたくないというのです。明日役人を連れて各人の家を見回るため、匿っているなら三成を他へ移すか落とすかせよ、というお触れが庄屋から出されているようです。もし見つかれば村中が罰せられることになるため、与三郎は夜明け前に自分と逃げるように進言します。
「待て」と三成は穏やかです。与三郎にとって三成とともに逃げるのはリスクでしかなく、逆に三成を捕まえて差し出した方が恩賞に与れるわけですが、与三郎はじめ村人たちがそんなことをできるはずもありません。敗残の将だと自嘲する三成が、民からはずいぶんと慕われているこの皮肉です。
三成はかつて領民をいじめようと考えたことはなかった。しかし命を懸けて慕われるほど、領民を愛してきただろうか。三成は与三郎と岩穴から出ることを決意しますが、浜に向かうのではなく庄屋の元に向かうと言い出します。それでは話が違うと顔面蒼白の与三郎に三成は、与三郎の真心に応え得る三成の好意なのです。
三成捕らわるの報は家康の元に直ちにもたらされた。中山道を進んで来た秀忠勢と合流した直後のことである。家康は三成が来たら作法に則って扱うように厳命し、淀が報復を恐れているようで大野修理を大坂城へ派遣させます。「そうか……生きて捕らわれたか」と家康は複雑な表情を浮かべます。
家康の命を受け、修理は大坂城の淀と秀頼と対面します。そして今回の戦はふたりに対して他意はないという家康の態度を伝えるとともに、修理自身もそう見極めたと淀を見据えます。淀は秀頼を抱きしめ、号泣します。もう少し大野修理の到着が遅れていたら、淀君は秀頼を刺し、自らも死ぬ気でいたのである。
そのころ、西軍の総帥・毛利輝元の元に秀元が吉川広家とともに到着した。輝元は口をポカンと開け、放心状態です。和議を結びたいという家康の考えを輝元に伝えます。輝元は大坂城西の丸を退き二心ないことを誓書にしたためることに同意します。「わしとしたことが……まんまと三成にはめられて……」
毛利輝元の誓書が送られてきたのは9月25日。その同じ日、大津の家康本陣に三成が送られてきた。戦は時の運、と家康は三成をあくまでも五奉行の一人として扱うと言葉をかけますが、自棄になる三成はどのように扱われてもいいと吐き捨てます。家康は鳥居元忠の嫡男・久五郎成次に、三成に囲まれて無念の最期を遂げた父のこともあり、三成の身柄を久五郎に預けることにします。
死に格別の変わりはない。だが三成にとってこれほど心外なことはなかった。少なくとも家康を相手に天下分け目の戦をした西軍の事実上の総帥として堂々処刑されるつもりが、鳥居久五郎の父の仇の地位にまで蹴落とされてしまったのである。久五郎は仇敵を惨殺するに違いない。しかし意外や久五郎の陣屋に於いて三成は風呂のもてなしを受け、新しい下着と小袖に着替えさせられていた。
三成は、久五郎が用意させたニラ雑炊のにおいを楽しみます。ニラ雑炊は三成の好物で、久五郎は家康に好物を聞いたらしいのですが、家康にもてなせと言われたのでなく久五郎の計らいであり、豪勢な魚や鳥は心無いわざと遠慮したのも同様です。三成は“魚や鳥を遠慮した”という言葉の真意を尋ね、三成一族の初七日との説明を受けます。「やはりそうであったか」と三成は言葉を絞り出します。
三成は久五郎に、切腹を許すのか斬られるのかと尋ねますが、久五郎は首を横に振ります。三成を憎む者が多く、このままでは誰かが三成を手にかける可能性が高いわけです。そこで家康は実父を討たれた私怨深いであろう久五郎に預けることで、竹を組み見張りを増やして警戒させているのです。この時、三成は初めて、譜代の臣を持った家康の強さを知ったのである。
その家康が大坂城西の丸に入ると、人が違ったように尊大となった。家康が“兄弟のように仲良く”と誓書を与えたその直後に、毛利輝元は「内府ちかひの条々」を出したのです。三成や恵瓊に乗せされたという言い訳は通用せず、日本中を仕切り直して所領再分配を図りたい家康は、毛利を長門と周防の2か国だけ残すと言い放ちます。「それで聞き入れなんだら是非もない。この際毛利は踏みつぶしてやるがよい!」
戦に勝つのは事業の半ばに過ぎない。問題はその後の経営にある。一歩誤るとすぐさま次の乱の芽生えに移行する。家康は厳然たる法の執行者でなければならなかったのである。
一方、石田三成は小西行長、安国寺恵瓊とともに七条河原の処刑場へ引き出されていた。
今まさに処刑されようとしている三成を、処刑場の外から見ていたお袖は、三成の最後を見届ける前にその場を離れ、竹藪の中で自害して果てます。三成をひとり黄泉の旅に立たせるわけにはいかない。お袖にとってこれが愛だったのである。お袖がわが愛を貫いたとき、七条河原でもまた、三成が41歳の生涯を閉じようとしていた。
本阿弥光悦が堺の納屋蕉庵屋敷に戻って来ました。光悦から見て今回の戦は、かの小牧・長久手の戦いの終盤戦のようにも思えます。家康と秀吉は表面的に譲り、結び、忍耐と知略で競ってきたものの、秀吉の中には家康不信の気持ちが残っていて、討てなかった家康を許さず……というよりも征服できなかったわけです。
それは蕉庵も同じで、三成の不幸は、その秀吉の憎しみや恐れを知らずに受け継ぎ、己の卓見と受け取ったことにあると考えています。蕉庵の養孫・おみつは、茶屋四郎次郎の弟・又四郎清次に「お退屈でございましょう?」と助け船を出しますが、勉強になりますと答えたために蕉庵はさらに調子に乗って政治向きの話を続けます。
関ケ原の合戦の後に残る一番の気がかりは、三成に担がれた淀と秀頼が大坂城本丸に残ることであり、大坂城に秀吉が残した莫大な金銀の使い道も不安材料ではあります。律義者の家康だから、許すこと許さぬことの区別はついていると、西洋酒を呑もうとグラスに注ごうとしますが、おみつはグラスを取り上げてたしなめます。
家康は、秀忠が江戸へ発った後に大坂城から伏見城に移るつもりです。泰平は根なし草のように右に左に揺れ留まるところを知りません。こういった状態をどう封じていくか。家康は征夷大将軍の話を受け、武将として泰平を築きたいと秀忠に打ち明けます。秀忠は、このまま京の近くにいては“戦で我が地位を築く”昨日までと、“戦がない”明日からの区別がつきかねるため、父が江戸で幕府を開こうとしていると思い至ります。
秀忠は江戸へ向かった。その秀忠の心に、かつてない感動が渦巻いていた。新しい時代がやって来る──。そして今、家康の構想の夜明けが、新しい日本の夜明けが始まろうとしているのである。
慶長5年(1600)年9月15日、関ヶ原にて東西主力の戦闘が行われ、東軍が勝利する。
慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、
あと2年4か月──。
原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
語り:館野 直光 アナウンサー
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[出演]
滝田 栄 (徳川家康)
夏目 雅子 (淀君)
勝野 洋 (徳川秀忠)
内藤 武敏 (本多正信)
中山 仁 (茶屋四郎次郎)
大出 俊 (本阿弥光悦)
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鹿賀 丈史 (石田三成)
吉行 和子 (北政所(ねね))
田崎 潤 (島津義弘)
御木本 伸介 (毛利輝元)
高岡 健二 (本多平八郎)
本田 博太郎 (本多正純)
萬田 久子 (おみつ)
谷 隼人 (大野修理)
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神崎 愛 (お袖)
川津 祐介 (島 左近)
石坂 浩二 (納屋蕉庵)
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制作:澁谷 康生
演出:大原 誠
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『徳川家康』
第41回「将軍家康」
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