« 大河ドラマどうする家康・(46)大坂の陣 ~最終決戦 真田丸の衝撃~ | トップページ | プレイバック徳川家康・(49)落城 »

2023年12月 5日 (火)

プレイバック徳川家康・(48)大坂夏の陣

前年の和睦にもかかわらず、大坂城内に残った浪人たちが再び騒ぎ出した。もはや秀頼親子の意向とはかかわりなく暴動化していく気配に、家康は駿府から再出陣の途についた。慶長20(1615)年4月4日である。桑名や伊勢、さらに西国の諸大名にも徳川家康や江戸から出陣の命が下され、戦に突き進んでいると大野修理は報告しますが、淀は修理の忠告を聞き流して気にも留めません。

織田有楽斎が名古屋へ向かったなど、修理は城内から裏切り者が出たと淀を煽ります。しかも家康が豊臣秀頼に大和郡山城へ早く移るように急かしている状況です。淀は修理を黙らせ、せめて自分が家康のご機嫌伺いに派遣した使者が戻って来るまでは、有楽斎の名古屋行きの話などは伏せておいてほしいと諭します。修理は頷くしかありません。

だが淀君の配慮は無視され、大野修理はその直後に戦評定を開いた。真田幸村は有楽斎の裏切りを「退散」と表現します。今の日本では大坂からの退散先とは徳川の天下以外にないわけで、その退散先がある者は退散してもらい、退散先のない者たちだけが大坂に残って結束する必要があると説きます。表情に参加した武将たちは、目が開かれたと大笑いします。

有楽斎が裏切ったと聞いた秀頼は激怒します。木村重成は、その裏切りは秀頼の手足をもいでいこうとする関東の誘いだったと言いたいわけです。昨年の和議が偽りだったとすれば、秀頼としてもどこまでも戦っていかなければなりません。秀頼は唇を噛みしめ、重成に命を惜しむなと叱咤します。

大坂方の推察通り、織田有楽斎はこの時すでに名古屋の家康の懐に飛び込んでいた。有楽斎は大坂城に母親や子どもを残してきたわけですが、それを家康が薄情者だと表現すれば、有楽斎は天下のための出奔だと主張します。「“窮鼠は猫を噛む”と申すが、この窮鼠もはやネズミでもネコでもない。今の気持ちで出陣すれば、大御所は生きてご凱陣は叶うまい」それは家康にとって、強烈なムチであった。

家康は直ちに淀君の使者として城内客殿にとどまっていた常高院を訪れた。将軍秀忠とその側近たちは、冬の陣の時から「大坂赦すまじ」の空気で、それを家康が苦心して抑えてきたわけですが、いま秀頼も淀も大坂の家臣や浪人たちによって戦う立場にされつつあります。それでも家康は諦めず、秀頼や淀を助けて見せると執念を見せます。

家康は大坂城を全軍が取り囲む前に、豊臣家大事を訴えるたったひとりの人物が、秀頼に少しの間大坂から大和郡山城へ避難して将軍の疑いを解くように勧める者が出てくるように働きかけてほしいと常高院に伝えます。家康が思うに、修理に依頼するのがいちばんの策です。「これはあくまでも将軍家に取り囲まれぬうちでなければ効き目はない。くれぐれも筋さえ通っていれば、あとは家康が引き受け申す」

 

家康の悲願は、常高院を通じて直ちに戦雲の立ち込める大坂城内の大野修理に伝えられた。秀頼や千姫を道連れにしては、家康の志にも傷がつくわけで、「修理どのにも、豊臣家の血筋を大切にするを忘れて何の義戦ぞ、と問い申すべし」と常高院に言われ、修理はうーんと考え込んでしまいます。

淀、秀頼、千姫の3人の命はどうにか助けたいという修理の思いは、家康のそれと合致するわけで、修理はその密命を帯びて大坂城内に入った奥原信十郎を訪ねます。修理は信十郎に、秀頼を大和郡山城に移るように説得してほしいと伝えます。移った後は泰平の世の邪魔にならぬよう、修理がキリシタン信者や浪人衆すべてを道連れに死ぬつもりなのです。信十郎はその修理の申し出を受け入れます。

大坂城総攻撃を目指す将軍秀忠は二条城に到着し、すぐさま軍議を開きたいと家康に申し入れた。秀忠は、謀反の根を断って泰平の世の到来を隅々まで徹底し、これを最後の戦いにしたいと表明します。家康は、その秀忠の決意は将軍家として当然だと評価します。秀忠は、26日には関東から引きつれた軍勢が全て到着するので、大坂城を取り囲んで今月中に勝敗を決したいと提案します。

家康は、秀忠が“今月中に”と言うのはいささか短気だとたしなめます。今度の敵は追い詰められたネズミなので、何をしでかすか分からない相手です。だからこそ攻め手は慌てず悠然と構えるように助言します。野戦となれば、旅に慣らしてきた兵と城内で鍛錬を怠った兵の差がはっきりしてくるはずです。

本多正信は、齢70にしてようやく家康の本心が分かるようになってきました。つまり家康は秀吉への信義もあって、秀頼親子の翻意を促したいわけです。家康にとっては不本意な戦だから、親子の翻意を通達したうえで開戦しなければ、単なる謀略となってしまいます。家康は秀忠に異存がないかを確認し、安心の表情を浮かべます。

後の世にこの戦を指して、“家康は無慈悲に太閤の遺児を討った”と評する者が出てくるに違いない。家康は最後の手段として、再び常高院を大坂城の秀頼の元へ送った。

だが、そのころ──。大坂城内で修理が何者かに襲撃を受け、右腕を負傷する事件が発生します。信十郎は秀頼に事件を報告しますが、下手人は修理の弟・大野治房の家来ではないかといううわさです。秀頼は、血気に逸る者たちは自分を家康に渡すまいとため息をつきます。「おかしなものよの。この城は秀頼のための城でのうて、秀頼を閉じ込めるための牢獄であったわ」

そこに常高院が到着し、26日の出発を28日に延期するので秀頼には大和郡山城に退去するように、という家康の諫言を伝えます。退去すれば城の浪人衆は追い払うとの言葉を聞き、治房は自分たちが決死の覚悟を固めているにもかかわらず、子供だましでたぶらかそうとすると大笑いします。「いかにも。秀頼はもはや子どもではない」 これで、完全にこの城と家康をつなぐ糸は断ち切られた。

姉妹を敵味方に分けたくないという常高院の努力は水の泡となり、淀は肩を落とします。このような責め苦を受けるのは、織田信長に殺された父・浅井長政、羽柴秀吉によって命を落とした母・お市の祖霊の祟りに違いないと自分を納得させるしかありません。血肉を分けた舎弟が兄の命を狙う環境では、千姫もいつ襲われるかと淀は不安に駆られます。修理は千姫を何としても守護すると約束します。

そこに大蔵局が飛び込んできます。治房が大和郡山城に火をかけて焼き払ったのです。治房の母・大蔵局は責任を取って自害するとわめきますが、淀はそれを止めます。これですべては決まったわけじゃ、との淀のつぶやきに修理は絶句し、常高院は衝撃を受けます。「許してたもれ。こなたには無理しか言わなんだ我が身をな」 淀は大粒の涙をこぼして手をついて詫びます。淀君はもはや自らの死を覚悟していた。

武将たちを前に秀頼が下知します。今回は、秀吉が築いた大坂城を秀頼が墓とする覚悟で行った戦であり、必要であれば伏見城も二条城も焼け、と熱く語ります。秀頼は武将たちに心置きなく働けと激励して送り出します。ここに大坂夏の陣は開始された。先陣は大野治房の兵2,000、勢いに乗って郡山東北を焼き尽くし、それでおくと奈良一帯も焦土になりかねない危機を迎えた。

「許されぬ!」と家康は激怒します。どんなことがあっても京都と奈良は焼かせてはならないと、家臣たちに厳命します。家康の厳命によって水野勝成の一隊が奈良方面に急行するとともに、紀州浅野勢が5,000の兵をもって和歌山城より出陣。勢いよく大野治房の兵と激突した。

西軍の作戦は失敗。大野治房は大坂城に引き揚げた。後藤又兵衛は大和路へ向かった敵の主力を待ち受け、先頭をたたけば奈良から郡山へ退却すると主張します。幸村はその仮定であれば戦場は道明寺付近になると予想し、修理に意見を求めますが、修理には異存はありません。第一陣は後藤勢、第二陣は真田勢で秀頼に裁可を仰ぐことにします。

現在の大坂方の最高責任者は大野修理である。だが彼はもはやこの戦に絶望感しかなかった。冬の陣が終わった時点ですでに大坂城の主は秀頼ではなくなってしまったことを、いま痛感したのである。安心して死ねると胸を叩く又兵衛に、幸村はニヤリとして指摘します。「後藤どのほどの大軍に元来生死はないはずゆえ、あるはただ勝利だけでござる」

 

慶長20年5月5日、道明寺に到着し小松山を占領した後藤又兵衛に、東軍の奥田勢を尻目にかけると、松倉豊後・藤堂高久の勢と激突した。阿修羅のように戦う後藤又兵衛に関東勢は続々と新手が加わったが、西軍にはそれがなかった。そのころ真田幸村は兵3,000を率いて天王寺から道明寺への道を進んでいた。

伝令が大坂城の秀頼の元に走り、戦が始まるいま、秀頼に前線に出て皆を激励してほしいと重成の伝言を伝えますが、秀頼は拒否します。大坂城を出れば城内の治房が裏切って秀頼を討ち取り、そのまま東軍へ寝返る可能性もあるというのです。信十郎は秀頼をしかと守るので、西軍の武将たちには心置きなくお働きを、と重成へ伝えさせます。

その木村重成は、すでに藤堂勢と激しい戦いを繰り広げていた。一方、真田勢は味方の各隊を目前にして、いつか混乱の中に突入していた。幸村は又兵衛と重成の戦死の報に、引き上げを命じます。ほら貝の音に武将たちは駆けつけますが、戦が始まってすでに一昼夜が過ぎ、兵を休ませると幸村は主張します。「戦はこれからでござる」

早々に退却せよという秀頼の命令でもあるわけですが、この戦に全く加わっていない松平忠輝の大軍勢があり、万一にもその大軍勢に追撃されてしまう可能性を考えて、撤退するのは早い方がいいという幸村の決断です。しんがりは幸村が引き受け、各隊はその間に兵をまとめて退却するように勧めます。

そのころ忠輝は、敵は前面や背後だけではなく時には側面からもやられることもあるため、戦役に出るのは断念せよと舅の伊達政宗からの助言を受けていました。味方が善戦している戦に見物で終われという助言に床几を蹴って不満を爆発させますが、家康に命じられた忠輝の補佐役からの助言です。忠輝は地団駄を踏んで悔しがりますが、助言を聞き入れるしかありません。

この日、忠輝の軍勢が真田勢を追撃していたら、この日のうちに大坂方は壊滅していたに違いない。だが、これを許さなかったのは伊達政宗であった。彼はもう一日だけ戦の推移を見届けて、情勢によっては忠輝の軍勢とともに大坂城を乗っ取る腹づもりであった。

茶磨山(ちゃうすやま (ちゃすりやま とも))に本陣を構える幸村は、雌雄を決するのは天王寺付近であると再度確認します。冬の陣であれば籠城という手も、今では堀を埋め立てられてできません。幸村は城内の軍勢に茶磨山から天王寺へ出撃させ、東軍を誘い出す作戦を考えます。そして別隊には総力戦の最中に茶磨山の南に迂回させるわけです。

枚岡(ひらおか)の家康本陣では、「昼寝でもしておったのか?」と松平忠直が叱責を受けています。今日中に大坂城に東軍が入っていれば、間違いなく明日には西軍は投降するわけで、その分敵も味方も損失が少なくて済んだのです。家康は忠直を下がらせ、忠直は不満顔で軍議の席を後にします。その実、家康は忠直を、忠輝と政宗の代わりに叱りつけたのである。

その上で家康は、明日は自分も前面に出て命を捨てて戦うと言い出します。秀忠が慌てて止めますが、将軍家は別に確立されているし、家康自身は命を落としても問題ない年齢だというのです。その代わり秀忠には、明日の号令一切はすべて秀忠が発するようにと命じます。「最後の一手じゃが、将軍家のお名で改めて城中へ使者を送ってくだされ。降伏を勧める使者じゃ。それが戦の礼だと思え」

大坂夏の陣──。その決戦開始まで残すは数時間。家康はなおも、秀頼親子の降伏を切望していたのである。


原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
語り:館野 直光 アナウンサー
──────────
[出演]
滝田 栄 (徳川家康)
夏目 雅子 (淀君)
勝野 洋 (徳川秀忠)
内藤 武敏 (本多正信)
田中 健 (松平忠輝)
本田 博太郎 (本多正純)
──────────
夏木 陽介 (柳生宗矩)
谷 隼人 (大野修理)
利重 剛 (豊臣秀頼)
石原 真理子 (千姫)
──────────
若林 豪 (真田幸村)
井川 比佐志 (奥原信十郎)
尾上 辰之助 (伊達政宗)
──────────
制作:澁谷 康生
演出:松本 守正

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『徳川家康』
第49回「落城」

|

« 大河ドラマどうする家康・(46)大坂の陣 ~最終決戦 真田丸の衝撃~ | トップページ | プレイバック徳川家康・(49)落城 »

NHK大河1983・徳川家康」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 大河ドラマどうする家康・(46)大坂の陣 ~最終決戦 真田丸の衝撃~ | トップページ | プレイバック徳川家康・(49)落城 »