プレイバックおんな太閤記・(50)平和への道 [終]
慶長16(1611)年3月28日、家康の力に屈して大坂より秀頼が上洛。京都二条城において家康と会見したことは、豊臣氏が自ら徳川の家臣であることを認めることになり、秀吉没後13年にして豊臣と徳川の地位は名実ともに逆転した。かつて家康が秀吉に臣従し、無念の涙を呑んでから25年、ようやく家康はその屈辱を晴らしたのである。
この豊臣の凋落に追い打ちをかけるように、その年の4月、ねねの妹婿・浅野長政が65歳で没し、また6月には加藤清正も51歳の生涯を閉じた。豊臣家の柱となってきたこの二人の死は、ますますねねの心を暗くしていた。そんな時、高台寺を訪れたひとりの客があった。前田利家の妻・まつです。人質で江戸にいながら、伊勢参宮を許した家康の配慮で高台寺まで足を伸ばしたのです。
みつもふみもよく仕えてくれていて、ねねは清須の昔を懐かしむように畑仕事に精を出す毎日です。ねねとまつは昔ばなしに花を咲かせます。小牧山ではまつの初めての出産で、みんな大騒ぎで赤子を取り上げたことを懐かしみます。ねねは、このまま戦がなければまつも江戸から加賀へ戻る日も遠くないと考えていますが、それはまつも同じで、ふたりで目に涙を浮かべています。
領国・加賀を出てから12年、ねねとのつかの間の再会を終えて、おまつはまた江戸へ戻っていった。前田家を一身に背負っているそのおまつの背を見送りながら、ねねはおまつに引き比べて秀吉と自分の手で築いてきた豊臣家にも関わらず、もはや手の届かぬ立場になってしまった自分が、それも子のないゆえかと今さらのようにみじめであった。
せめてこのまま何ごともないようにと祈るねねの元へ、慶長19(1614)年 秋、不吉な知らせがもたらされた。秀頼が亡き太閤殿下供養のためにと建立した方広寺の大仏供養の儀が、家康の突然の命により中止されたのであった。中止の理由についてみつが説明するところでは、大仏の鐘の銘文に「国家安康」という4文字があり、自分の名を引き裂いて呪ったものだと家康が立腹しているらしいのです。
8月は秀吉の17回忌であり、まさかそんなことで家康が腹を立てることもあるまいとねねは笑いますが、そこに木下勝俊がやって来ます。いよいよ豊臣に言いがかりをつけて取り潰しにかかろうとしているようで、73歳という高齢に焦りもあるように思われます。その証拠に南蛮から鉛のかたまりを大量に買い占めているようで、ねねは家康が本気で豊臣家をつぶしにかかっているのかと驚きます。
ねねは片桐且元に書状をしたため、駿府の家康に使者を送らせて穏便に済ませようと図ります。領地を召し上げられて今や豊臣にも徳川にも関わりない勝俊は、そのようなことで済むとは思えないわけですが、ねねには且元だけが頼りであり、一切を大坂に任せていてはどんなことになるか分かったものではありません。
片桐且元──。ねねの信任も厚く、大坂方にただひとり残された秀吉子飼いの武将であった。秀頼が上洛して臣下の礼を取り、これまでも家康に従ってきたというのに、豊臣に対して何の恨みがあって? と淀殿は腹を立てます。秀頼は家康がなにか勘違いをしていると主張し、その誤解を解けば分かってもらえると淀殿を説得します。そのために且元を使者に立てたのです。
且元はねねと対面したようで、家康と通じているねねに何を言い含められたのかと淀殿は疑います。大野治長も、且元のように戦を避ける考えでは家康の思うつぼと主張します。且元では信じられず、大蔵卿と正栄尼は家康の真意を自ら確かめてくると使者として名乗りを上げ、淀殿はふたりも駿府に派遣することにします。
そのころ片桐且元は急ぎ駿府に下り、家康との対面を待っていた。家康は青竹踏みをしながら、且元はどうせ言い訳に来たのだろうと相手にしません。家康は、鐘銘の文言が不届きなこと、大坂に続々と浪人を集めているのは謀反の証拠と、名代にきつく申し入れさせることにします。
そして大蔵卿たちも到着しました。且元は秀吉の子飼いでねねの信頼も厚く、大蔵卿たちは淀殿の侍女であり、本多正信は大坂方も二つに割れていると察知します。且元を離反させる絶好の機会と進言し、家康は大蔵卿たちには会っておこうかとつぶやきます。ニヤリとする正信は、ふたりに目通りを許すと伝えます。
家康の面前に現れた大蔵卿たちは、家康を呪っているといううわさも信じておらず秀頼に対して他意はないと笑う家康の言葉にホッと胸をなでおろします。ただ、このように豊臣と徳川とで行き違いがあっては災いの元と、且元にはどうすれば両家がうまくやっていけるのかを大坂で話し合うように指示しておいたと伝えます。
駿府から戻った且元は、ねねに報告に上がります。結局家康には目通りが許されず、名代として対応した本多正純には浪人を抱えていることを詰問されたと厳しい表情です。しかも後から追いかけた大蔵卿たちには家康は対面したらしいと、使者が二組も立っては徳川の思うつぼだと不満顔です。且元は、自分を信用してくれない淀殿の気持ちが分からなくなったと吐露します。
治長は関ヶ原の戦いで敗れた武将たちを大坂城に集めているのは本当の話で、家康の豊臣つぶしの無理難題に乗っかれば必ず戦に発展してしまいます。ねねは、大坂城を明け渡して国替えを条件にしてでも穏便に済まさなければ、大坂方が絶対的に不利とみています。ねねは、淀殿が且元を信用していなければ、淀殿か秀頼が江戸へ人質として詰めることが条件だと強気の姿勢で説得するよう且元に命じます。
且元が大坂城に入った時には、大蔵卿たちはすでに駿府から戻ってきていました。且元が提示する条件に淀殿は激怒します。正栄尼は、鐘銘の件も家康が納得したと譲りません。且元は、ねねも淀殿に覚悟をするようにとの伝言を伝えると、淀殿は立腹します。「無礼じゃ! 家康に媚をへつろうている高台院の指図など受けぬわ!」 もはやこれまでと且元は大坂城を退去し、淀殿は治長に且元の仕置きを命じます。
説得が力及ばず、且元は茨木へ帰ると言い出します。ねねは且元をなだめますが、すでに豊臣家を改易となり、大坂城に戻ることはできません。淀殿が大坂をどうしようとするのか掴めないねねは、自ら大坂城に向かうことを決意します。「是が非でも淀殿を翻意させ、徳川に和を請わねば豊臣は自滅を待つばかりじゃ!」
が、この時すでに家康は、全国の諸大名に対して大坂出陣の命令を下していた。大坂の町には戦争の噂が飛び交い、人々は不穏な空気に包まれ始めていた。かくしてねねの大坂ゆきの願いは、むなしく潰(つい)え去ってしまった。
なぜ大坂攻めになったのか、約束が違うと淀殿は愕然とします。秀頼は、ねねが勧めるように家康に豊臣家の取るべき道を早く表明していればこんなことにはならなかったと後悔しきりです。大坂城を明け渡したり、江戸へ人質に行ったり、そんな辱めを受けてまで豊臣を守ろうとは思わず、豊臣家の威信にかけても徳川と戦わねばならないと、淀殿の暴走は止まりません。
ねねの元には勝俊と、福島正則が集まります。秀頼が頼りにする島津や池田、蜂須賀も合力を断っています。豊臣恩顧といっても現在の禄は徳川からもらったものであり、豊臣のために働こうという大名がいないというのも理の当然です。治長と浪人たち12万人がいいところの軍勢にしかなりません。ねねは家康を説得して戦を取りやめてもらおうと考えます。どのような手を講じても何か道があるはずです。
慶長19年10月1日、すでに諸大名に豊臣攻撃の出動を命じていた家康は、11日、自身も駿府を発し大坂へ向かった。そして23日、将軍秀忠も大軍を率いて江戸を出発しようとしていた。大坂城には娘の千姫が嫁いでおり、小督は秀忠に家康へのとりなしを訴えますが、徳川に背いた豊臣を討たなければ天下への示しがつかないと、秀忠は聞き入れずに出陣していきます。
将軍秀忠の率いる大軍とともに、諸国からも家康援護の大名たちが続々と大坂へ集結を始めていた。その総数、実に20万人。大坂城はまさに孤立無援の状態にさらされた。豊臣方は果敢にも大坂城から打って出たが、家康は豊臣軍を蹴散らしながら11月末には完全に大坂城を包囲していた。
ねねの呼び出しに応じて、小雪舞う中を常高院(お初)がやって来ました。今回の戦で息子の京極忠高は徳川方に参戦し、姉と妹で敵味方に分かれる形にお初は涙を流します。それは小督も同じ思いで、ねねはそんなふたりが労(いたわ)しくてなりません。徳川方が大坂城を包囲している今こそ、したためた書状を持って家康に会ってもらいたいと願いを託します。「豊臣存亡の瀬戸際、引き受けてくだされ」
大坂城内には撃ち込まれる大砲の音が聞こえ、城に詰める家臣たちに動揺が走ります。それは淀殿も同じで、大坂城を壊す気かとうろたえますが、正栄尼は大坂城はびくともしないと胸を張ります。秀頼の呼びかけにも、淀殿は落ち着きを失っています。
そのころ家康の本陣を訪れたお初と孝蔵主は、家康にねねの書状を渡します。家康としてはねねの気持ちは分かっているし、戦を起こすのは本意ではありません。豊臣が恭順の態度を示して和平が成るなら自分たちも望むところと、家康はふたりに淀殿と和平の条件についてよく話し合いをするように伝えます。「高台院さまのお志、無にすることはできませぬ。はっはっはっ」
無数に上がる鬨の声が淀殿を追い詰めていきます。和を結ぶしか策はないのかと諦めかけた時、お初が駆け込んできます。家康から講和の使者として遣わされたと知り、淀殿の気持ちが揺らぎます。戦が長引けば徳川の損失も大きい。大坂城内の動揺を狙って仕掛けた寄せ手の威嚇射撃が功を奏し、淀殿は一も二もなく講和に飛びついた。家康にとってもお初の講和使節は渡りに船だったのである。
家康はお初の嫡男・京極忠高の陣中で、お初と自分の愛妾・阿茶の局を会わせ、お初から豊臣の、阿茶の局から徳川の条件を出し合って、女同士で講和を進めさせた。かくしてねねの願いが通じ、大坂冬の陣と言われる豊臣・徳川の対決は、3か月で一応決着を見たのであった。
しかし、それで全て終わったと思われた講和の条件が、実は豊臣にとって息の根を止められるものであったと分かったのは、ひと月も経たぬ翌慶長20(1615)年一月半ばのことであった。天守閣から城の堀を見た淀殿は、驚愕して治長を責め立てます。外堀だけ埋めるという和睦の条件が、徳川軍は内堀まで埋め始めていたのです。治長は家康にたばかられたと唇を噛みます。
確かに二の丸と三の丸を破壊することは認めましたが、内堀まで埋めるとは起請文にはありません。しかし徳川方は、二の丸と三の丸を取り壊すことは内堀まで埋めることだと主張しているのです。内堀まで埋められ、城は本丸だけを残し裸同然です。誤解させる起請文に、正栄尼は孝蔵主が豊臣に不利なように働きかけたと怒りをぶちまけます。「太閤殿下が心血を注いで築かれた大坂城……二度と元の姿には戻らぬのか」
大坂城を裸にされた豊臣側は、危機を感じて再び密かに兵糧・弾薬・浪人たちを集めた。大坂不穏の噂が巷に流れ始めていた。同じころ、高台寺のねねの元へ、大坂方が孝蔵主の命を狙っているという知らせがもたらされた。孝蔵主の身を案じたねねは、密かに家康に助けを求め、急ぎ駿府に向かわせた。
吹雪く夜、素足に草履の孝蔵主を見て、ねねは奥から足袋を持ち、履かせてやります。もったいないと孝蔵主は感涙し、早く行くようにとねねの促しに手を合わせて、寺を後にします。ねねは孝蔵主の無事を祈りながら、その背中を見送ります。
ねねの元にややが訪ねてきます。大坂城で戦の準備をしていることが家康の耳に入ったのです。大坂方は慌てて弁明の使者を立てるも、家康は逆心のないことの証として、豊臣が大和か伊勢へ移るか、城内にいる浪人たちを追放するかの二択を迫ります。淀殿が江戸へ向かっていたらこんな事態にはならなかったと悔しい思いのねねは、危ないと引き止めるややの言うことも聞かず、大坂行きを決意します。
大坂城に入ったねねは、徳川の主張を淀殿がはっきり断るつもりだと知り、言葉を失います。秀吉の思いの詰まった大坂城を明け渡せないし、浪人たちも秀吉の恩顧を忘れずに集まってきた忠義者を見捨てることもできません。豊臣の生き残る道はないと説得するねねですが、淀殿も正栄尼もねねの忠告に耳を貸そうとしません。徳川に屈し屈辱を受けて生きるより、滅びる道が真っ当と考えているのです。
慶長20年4月5日、大坂からの使者が家康に、徳川が要求した条件を一切拒否する旨の回答をした。家康はただちに出兵を決意。再び諸大名に出動を命じて自らも上洛。密かに京の高台寺にねねを訪れた。
家康に豊臣を潰そうという考えはなくても、豊臣が幕府に対して盾突く以上は征伐しなければ、天下への示しがつかないという言い分を展開します。家康は再び条件を提示し、ねねに秀頼へ伝えさせようとしますが、ねねはすでに諦めていて、せめて穏便にと頭を下げます。豊臣が条件を受け入れなければやむを得ないと家康から最後通告が言い渡されると、ねねは家康を信じていると涙目で見つめます。
家康は再度、大坂方に徳川の条件を呑むことを勧告したが、豊臣が無視するに及んで、4月25日 大坂に着陣した。大坂に集結した徳川軍20万、迎え討つ豊臣軍12万、ここにいわゆる「大坂夏の陣」の火ぶたは切って落とされたのであった。城内からの鉄砲射撃に徳川は大砲で応戦。家康は孫娘の千姫の命だけは助けねばと本陣の中をうろついています。「助けた者には望み通りの恩賞を取らすぞ」
城外からの大砲が大坂城に到達し、各所で火の手が上がります。真田幸村が家康本陣を蹴散らそうと出撃するも果たせず、後藤又兵衛や木村重成らも討ち死にしたとの知らせがあり、淀殿は覚悟を固めます。治長は千姫を家康の元に送り届ける代わりに、秀頼と淀殿の助命を願い出ることを勧めますが、自分たちの助命など余計な気遣いは無用だと淀殿は断ります。
千姫を呼んだ淀殿は家康の元に帰すことにします。そして小督に再会したら、自分は生きたいように生き、城とともに果てると千姫に伝えさせます。大蔵卿は息子の治長と淀殿と運命を共にすると言ってくれます。淀殿を見つめる千姫は声を上げて悲しみますが、淀殿は柔和な表情です。「憐れんでくださるな。豊臣は最期まで徳川と対等じゃった」
高台寺を訪れたともは、大坂城が危ないと伝えますが、ねねは承知しています。いよいよ豊臣家の最後──。ねねも、ともも豊臣秀長もあさひも、いったい何のために苦労してきたのかと怒りに震えます。豊臣のために死んでいったものも数多おり、無駄に死んでいったのです。「秀吉どのが足軽でいてくれたら、みんな苦しまずに済んだものを!」と、ねねは数珠を引きちぎります。
一方でともは別の見方をします。誰かが天下を取らなければ乱世は終わらなかったわけで、秀吉はそれを成し遂げたとつぶやきます。徳川も秀吉がいなかったら天下を取れなかったのです。豊臣はそのためになくてはならぬ務めを果たしたのです。「豊臣のために死んだものと一緒で、無駄ではない。徳川が豊臣の成し遂げたことを受け継いで天下に泰平が訪れるなら、決して無駄ではなかったはず」
ただ、このような時代には生まれたくはなかったというのも正直なところです。次に生まれ変われるなら、何も望まず戦のない時代に生まれたい……。その時、大坂の方角に火の手が見えると甚兵衛が飛び込んできます。ねねが見に行くのをついていこうとする甚兵衛ですが、ねねを一人にするようともに止められます。
慶長20年5月7日の戦闘で大坂方の主力は全滅し、夕刻には大坂城の天守閣も炎上した。ねねが夜空のかなたに見たのは、豊臣家を焼き尽くす終焉の炎であった。息をのんでその炎を見つめるねねの胸に、秀吉のおかかになってから54年の、喜怒哀楽の思い出が鮮やかに浮かんでは消えた。
寺の裏山に登り、大坂の方角を見ると、夜空に赤いものが見えています。ねねはあの世の秀吉に、自分の力が及ばず豊臣をこのようにしてしまったことを許してほしいとつぶやきます。おかか! と呼ぶ声に目を移すと、寺の屋根には秀吉の亡霊が立っています。
ねねが精いっぱいの力を尽くしてくれて、思い残すことはありません。茶々も自分の思うように生きて悔いはないでしょう。豊臣は秀吉とねねで築いたわけで、一代で終わってもその役割を果たしたのです。秀吉もねねも自分の力の限りを尽くし、信長の志を継いで天下を治め、徳川に渡した豊臣の務めは終わったのです。「おかか! ご苦労じゃった!」
とはいえ、自分のおかかになってしまったばかりに、しなくてもいい苦労をさせてしまったと、秀吉は残念がります。ねねは首を横に振り、秀吉のおかかになったことを悔いたことはないと返します。秀吉に添いたいという気持ちです。次に生まれてくるときは、戦のない時代に行きたいということだけが望みです。
豊臣は秀吉と私だけのもの──。ねねはそっと手を合わせ、裏山をゆっくりと下っていきます。
──完──
作:橋田 壽賀子
音楽:坂田 晃一
演奏:新室内楽協会
テーマ演奏:NHK交響楽団
テーマ指揮:小松 一彦
監修:桑田 忠親
語り:山田 誠浩 アナウンサー
風俗考証:磯目 篤郎
殺陣:林 邦史朗
[出演]
佐久間 良子 (ねね)
西田 敏行 (豊臣秀吉)
池上 季実子 (淀殿)
音無 美紀子 (まつ)
東 てる美 (みつ)
木原 光知子 (ふみ)
南風 洋子 (孝蔵主)
斎藤 美和 (大蔵卿)
東 恵美子 (正栄尼)
坂東 正之助 (大野治長)
長山 藍子 (とも)
神山 繁 (本多正信)
大和田 伸也 (木下勝俊)
せんだ みつお (副田甚兵衛)
篠 ひろ子 (阿茶の局)
奈良 富士子 (初)
加藤 健一 (加藤清正)
三上 寛 (福島正則)
佐藤 佑介 (徳川秀忠)
高見 知佳 (千姫)
藤堂 新二 (浅野幸長)
伊藤 勉 (近習)
加藤 忠 (近習)
川越 晶水 (侍女)
秋山 裕美 (侍女)
木村 翠 (侍女)
高柳 葉子 (侍女)
若 駒
鳳プロ
国際プロ
早川プロ
浅芽 陽子 (やや)
井上 純一 (豊臣秀頼)
五十嵐 淳子 (小督)
岡本 信人 (片桐且元)
フランキー 堺 (徳川家康)
制作:澁谷 康生
美術:田坂 光善
技術:大森 如一
効果:岩田 紀良
照明:佐野 鉄男
カメラ:塩谷 貞夫
音声:山崎 彰
記録・編集:那須 正尚
演出:宮沢 俊樹
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