プレイバック徳川家康・(50)泰平への祈り [終]
慶長20(1615)年5月8日、難攻不落を誇った大坂城が無限の炎に身を焼いて落城した。天下のためとはいえ、秀吉からその将来を託された秀頼と、その母淀君を死に追いやってしまった事実が、家康を忌憚と痛恨のふちに突き落としていた。そしてその翌日、伊達政宗が婿である松平忠輝と二条城に家康を訪れた時──。
「なぜ助けられなかったのじゃ!」と家康に叱責を受けるのは柳生宗矩です。宗矩はどんな処分でも受ける覚悟ですが、家康は将軍徳川秀忠がいながら勝手に処分できるわけがないと吐き捨てます。怒りの元凶は秀忠も側近たちも家康の心のうちが分からず、その意向を完全に無視したことにあります。そしてその怒りの矛先は我が子へ、松平忠輝に向かいます。
原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
演奏:新室内楽協会
テーマ音楽演奏:NHK交響楽団
テーマ音楽指揮:秋山 和慶
コーラス:慶應義塾ワグネル・ソサイエティー
考証:鈴木 敬三
風俗考証:磯目 篤郎
殺陣:林 邦史朗
語り:館野 直光 アナウンサー
邦楽:杵屋 正邦
振付:花柳 寿楽
笛演奏:望月 太八
[出演]
滝田 栄 (徳川家康)
勝野 洋 (徳川秀忠)
田中 健 (松平忠輝)
宅麻 伸 (松平信康)
内藤 武敏 (本多正信)
本田 博太郎 (本多正純)
山本 亘 (板倉勝重)
竹原 英子 (茶阿局)
白都 真理 (お江与)
森塚 敏 (金地院崇伝)
木村 四郎 (土井利勝)
福田 勝洋 (茶屋又四郎)
門田 俊一 (井伊直孝)
内山 森彦 (遠藤弥兵衛)
高野 浩和 (徳川義直)
高橋 修宏 (徳川頼宣)
中村 仁 (徳川頼房)
嶋 英二 (竹千代)
飯村 隆司 (国松)
大島 大介 (国松丸)
吉行 和子 (高台院)
大出 俊 (本阿弥光悦)
奥田 瑛二 (松平勝隆)
岡本 舞 (五郎八姫)
石原 真理子 (千姫)
児玉 謙次 (松平重勝)
増田 順司 (医師)
前沢 迪雄 (百姓)
小貫 加恵 (乳母)
海原 俊介 (密使)
五十嵐 明子 (甘僧)
高橋 豊 (勅使)
坂 俊一 (勅使)
横尾 三郎 (勅使)
内藤 典彦 (小姓)
高橋 睦夫 (小姓)
宮寺 康夫 (近侍)
阿部 渡 (近侍)
黒岩 義和 (近侍)
黒田 伊玖磨 (近侍)
久萬 寿恵子 (侍女)
三宅 悦子 (侍女)
小野瀬 秀子 (侍女)
入江 正夫 (医師)
岡田 映一 (医師)
花柳 りかこ (遊女)
安藤 真由美 (遊女)
鹿倉 加代子 (遊女)
菊田 聖子 (遊女)
安藤 たか子 (遊女)
赤坂 七重 (側室)
増井 さおり (側室)
杉山 真稀子 (側室)
本間 章子 (側室)
鈴木 幸子 (側室)
若 駒
鳳プロ
早川プロ
国際プロ
東京放映
ひまわり
いろは
踊り:花柳社中
囃子:堅田社中
鷹匠:沢田 政広
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協力:上野寛永寺
夏木 陽介 (柳生宗矩)
竜 雷太 (天海)
尾上 辰之助 (伊達政宗)
制作:澁谷 康生
美術:内藤 政市
技術:石川 素宏
効果:柏原 宣一
照明:小野寺 政義
カメラ:中村 一美
音声:豊泉 利男
記録・編集:市川 筆子
演出:大原 誠
忠輝は大坂へ出陣途中、行列を横切った秀忠の家臣を手討ちにしたのですが、道明寺の戦いに遅参したのに加え、合戦には加わらず。忠輝は将軍に協力する気はなく、秀忠が討ち死にするのを待って自らがその地位に就こうと画策しているなどとうわさが立っています。岳父である伊達政宗は忠輝の前に進み出て、その咎は自分が受けるべきものと忠輝をかばい立てしますが、家康は政宗を黙らせます。
うわさにはさらに尾ひれがついて、大坂の陣は忠輝と秀頼が企てた謀反だとか、南蛮人と紅毛人の野望が加わった徳川家お家騒動だと話が広がっています。忠輝は容赦ならず、小刀を抜き自らの首に当てて自害を図ろうとしますが、周囲の重臣たちに止められます。自害したところで話は真実になっていくわけで、ふん、と家康は忠輝を睨みつけます。「それでも死にきれるなら死んでみよ」
忠輝の前に座った政宗は、父家康の言葉は子を思う慈悲にあふれたものだと諭します。政宗が道明寺の戦いで忠輝に手控えさせたのは、秀忠の顔を立てる慎みの心からで、忠輝が先駆けすれば戦は片付くものの手柄を独り占めすることになり、将軍の顔を潰すことになりかねません。だから政宗は、勝敗が決まった時に出てくるのが戦場の礼だと考え、忠輝にもそうさせたのです。
政宗はそれを忠輝に諭すように見せかけて、遠回しに家康に対して弁明します。政宗は、だからこそ家康の叱責は自分が受けなければならないと家康に手をついて詫びを入れます。家康は政宗の顔に免じて怒りを収めます。世情が最も好む噂は、豊臣家を潰した徳川家の兄弟不和の話なので、家康はくれぐれも気をつけるように言い聞かせよと政宗に命じます。
家康は悶々として寝付けなかった。政宗に対する怒りで忠輝を叱りすぎてしまったという反省からである。そう思うと、忠輝が不憫でならなかった。家康は政宗の闘志と野心がどのように強烈なものであるかを知っている。戦国武将の生き残りとして、依然天下を狙う夢を捨てきれない政宗である。そしてその夢を婿の忠輝に見続けさせようとし、今度の戦でも危険な前線に忠輝を出さなかったのである。
その面差しも気性も、忠輝は長子信康を思い出させてならなかった。育て方によっては想像力溢れた名将の素質を持ちながら、そのふたりとも傅役(もりやく)に人を得なかった。ためにその素質がかえって逸脱のもとになり、信康同様 忠輝もまた、不幸を自らつかみ取っていくような不安を、家康は感じ取っていたのである。眠れぬままに家康がたどり着いた結論は、もう一度忠輝を呼び出して自分の口から懇々と教えてやることであった。
翌朝、板倉勝重の誘導で忠輝が家康の居室を訪れます。忠輝はまず人払いを要求し、家康は素直にそれを認めます。忠輝は昨日の面前での叱りつけは、家康が世間に流れるうわさを信じているからだと訴えます。未だに大坂城をほしいという忠輝に、その通りにすれば我が子可愛さに豊臣家から大坂城を奪って与えたと思われると諭します。
忠輝が大坂城を欲しいと願い出ているのは己の欲得ではなく、家康が築いた泰平の世が続くようにという配慮からです。堅実律義な秀忠に代わって忠輝が異国掛総奉行として大坂にあって、紅毛人とは武力で結び、南蛮人との争いに大坂の戦で放出された浪人40万人を充てるわけです。それが引いては国内の泰平につながるという考えです。
戦うための戦略は覇道か王道か、家康は問います。南蛮人や紅毛人をだましてよいのは覇道、徳によって民を治めるのが王道と忠輝は答えます。「父が泰平の世づくりにかけた悲願は」と問えば、王道と答えます。家康はその王道に徹したいわけです。どうすれば戦のない世を作れるか──。忠輝は大笑いします。「こちらから出向かなんでも向こうからやってくればこれも戦、戦は決してこの世からなくなるものではありませぬ」
浄土には戦はないという家康は、この世に浄土を作りたいと懇々と忠輝に諭しますが、忠輝の興味のなさそうな顔を見て、心穏やかに忠輝を下がらせます。この世から戦はなくならないと主張するのは、真田幸村・伊達政宗に続き忠輝で3人目です。忠輝と入れ替わりで入ってきた勝重に、忠輝には将軍を敬う気持ちがないとつぶやきます。「わしはまたひとり、せがれを失うことになったぞ」
翌日、将軍秀忠が二条城に呼ばれた。家康は秀忠に、忠輝を罰すると表明します。秀忠が食い下がりますが、戦場に遅刻し道明寺の合戦に間に合わなかったこと、将軍の家来を無礼討ちしたことが理由です。豊臣秀吉の遺児の不都合をむごく罰した徳川将軍が、身内の不都合を見逃せば乱れの元になります。
忠輝の不都合は秀忠の落ち度に通じると、秀忠は忠輝の言い分も聞きたいと言い出します。しかし忠輝の言い分は家康がよく聞いたうえでの判断です。秀忠は自分の判断で咎を「謹慎の上 当分蟄居」「除封・転封」と提示しますが、甘すぎると家康は納得しません。それは明らかに切腹を暗示していた。家康は、忠輝を放置すれば秀忠の時代の障りになると厳しい表情です。
秀忠は忠輝の処分を自らが決すると家康に告げますが、千姫の処分も任されたいと申し出ます。千姫は離別されて城を出たのではなく、未だ“謀反人の妻”の立場で、懐妊しているようなのです。千姫に自害させ豊臣家の人間を絶やさねば、秀忠は泰平の世を盤石にできないと主張します。秀頼の遺児国松が捕らえられ、秀忠はすでに処刑を命じた以上、千姫を罰せねば秀忠は身勝手な不人情者に成り下がるのです。
国松とは当年7歳、秀頼が侍女に産ませた子であるが、常高院の手を経て身分を隠し、商人の手で育てられていた。世間には国松の存在も常高院の庇護も世間に知れ渡り、国松を見逃せば和平工作に手を尽くした常高院と京極家を、国松を逃がした責任として取り潰さなければならなくなるのです。となれば国松を処刑せねばならず、となれば我が子千姫も同様なのです。家康は涙にくれます。
国松の処刑は断行された。常高院と京極家を救うためばかりではなく、未だ捕まらない落人どもへの将軍家側近たちの力の誇示が目的だったのである。
家康は高台院(ねね)の寺を訪れます。再会のあいさつを交わす間もなく、家康は高台院に手をつき豊臣家のこと、国松のことを謝罪します。秀頼を豊臣秀吉の元に遣わしたのが神仏なら、奪い去ったのもまた神仏と高台院は家康をなぐさめます。「大御所さまにはこの後の泰平への道を、よりしっかりとお歩きいただきたく」 許されよ太閤、と家康は秀吉の位牌に手を合わせます。
一方、家康の思いとは逆に、京・大坂での豊臣家残党狩りの激しさは狂態という以上で、町中をいっこくの世界にし、全ての人々を無心地獄へと突き落としている。そんな京の町での暮らしがつくづくイヤになった本阿弥光悦は、二条城の家康の元へ別れのあいさつに出向きます。
光悦は、大坂城を立ち退けば豊臣家は存続すると信じていたものを、豊臣家を絶って天下のために何の利があったかと大激怒です。秀頼や淀を無理に刈り取れば、次の騒動の根をさらに深く張り巡らすものになってしまいます。さらに国松を処刑し千姫に自害を迫り、無抵抗の者を斬り捨てなければ保てない泰平に何の意味がある! と光悦の怒りは収まりそうにありません。家康はずっとうつむいています。
大御所はお疲れのご様子、と本多正純や板倉勝重の勧めで光悦が退出すると、家康は宗矩を伏見城の秀忠のところへ遣わし、伝言を頼みます。千姫の身柄を江戸へ送り返すこと、千姫の養女である秀頼の娘も千姫の江戸ゆきに同伴させること、どちらも家康直々の依頼です。2人の江戸ゆきは豊臣家菩提のためなのです。宗矩は土砂降りの中をさっそく伏見城に向かいます。
そして家康は、暴言を吐いて出ていった光悦を気にしていました。美しいものに触れて生きてきた光悦にとって、あのような暴言も愛情だと勝重はかばい立てしますが、光悦をどうこうしようというのではなく、洛北鷹峯(たかがみね)あたりの空き地を与え、気に入った茶碗や塗り物など光悦が美しいと感じるものを並べ、勝手気ままに暮らせるようにしたのです。勝重は目を潤わせて頭を下げます。
さらに家康は駿府に戻るにあたり、忠輝に「永対面禁止」の処分を下します。正純は必死に止めますが、忠輝が政宗のそばにいては危険だと、家康自身鬼になると決めたのです。ただ忠輝には逆上して恥を去らせたくないという親ごころから、忠輝へのその処分を告げる使者には誰がいいか正純と勝重に相談します。「そちたちも、ここでは鬼になってくれぬか。2人でよく相談しての」
選ばれたのは、家康の血縁にもあたり、忠輝とは幼なじみでもある松平勝隆であった。京都所司代屋敷に呼ばれた勝隆は、自分では器量不足だと勝重からの依頼を断ります。しかし断れば来年には戦になると勝重は見ています。政宗に隙を与えず、泰平の世を永続させるためには、忠輝を政宗から話して我が子を罰する以外に道はないのです。「これは大きな菩薩業でござるぞ」
戦後の処理を終えた家康が駿府に向けて京を発ったのは、元和元(1615)年と改元したその年の8月4日である。その同じ東海道を打ちひしがれた千姫も江戸へ向かっていた。夫秀頼を失った絶望の上に、身ごもったその子もまた陽の光を見ずに流産させてしまったのである。
一方、京を離れた松平忠輝が駿府の我が屋敷に立ち寄ったのは、家康の駿府到着より3日前である。
多くの遊女たちに囲まれて舞を楽しむ忠輝は、家康が駿府に帰城したと報告を受けます。翌朝 挨拶に城に赴くつもりの忠輝ですが、家康が直々に大切な用があるということで、名代の勝隆と対面します。「向後、永対面禁止を申し付くるものなり」と書状を読み上げた勝隆に、これを断り突き返せば切腹と聞き、忠輝は逆上して直々に申し開きをすると城に向かおうとします。
勝隆は、家康が泣きながら生涯会わないと言うからには深い事情があると諭します。南蛮人カルロスが帰国した折に岳父政宗が頼んだ書状によると、フェリペ王の大海軍を日本に必ず派遣させ、信徒とともに大坂城に立てこもり江戸征伐を開始するとあります。政宗が忠輝を人質にイスパニアからの軍艦を待っていたら、大坂の陣を一日でも引き延ばしたいわけで、忠輝遅参につながってくるわけです。
勝隆が忠輝だったとしたら、すぐに駿府を発ち江戸屋敷に入り、門を閉ざして謹慎し将軍の沙汰を待つと忠輝に助言します。まずは御台所五郎八姫の離縁を言い渡される可能性は高いでしょう。秀忠としても舎弟忠輝を憎んでいるわけはありませんが、秀忠側近の心のうちまでは計り知れません。愕然とする忠輝は酒を用意させ、勝隆と盃を交わします。
深夜まで酒を酌み交わし、勝隆を玄関まで送った忠輝である。屋敷の庭に人影があり忠輝は驚き咎めますが、それは政宗の密書を届けに来た密使でした。密書の内容は、「江戸へ帰っては将軍家側近より暗殺される恐れあり。国元の越後高田へ直行せよ。その後のことは追って連絡する」というものであった。
一方、江戸屋敷にある忠輝の妻・五郎八姫の元には、柳生宗矩が使者としてやってきた。家康の内命で離縁と聞き五郎八姫は神ゼウスに離縁を禁じられていると食い下がりますが、宗矩は離縁が無理なら別居を提案します。五郎八姫には何の落ち度もなく、忠輝の身に走った不都合と説明すると、五郎八姫は政宗に頼んで詫びてもらうと立ち上がります。「その儀ならば、効き目はないかと存じまする」
五郎八姫は、忠輝の身に走った不都合は父政宗にも原因があると悟ります。宗矩の狙いは、五郎八姫を使って伊達政宗の心を動かすことにあった。悲しみの五郎八姫に、宗矩は助け舟を出します。もしすがるのであれば、家康の信任が厚い天海上人以外にはいない──。五郎八姫は涙目で宗矩を見つめます。
五郎八姫は天海を頼ると政宗に打ち明けます。そうすれば伊達の使命に関わると政宗はたしなめますが、五郎八姫は松平忠輝の妻であり、伊達のことは知らぬと開き直ります。家康が忠輝を処罰するのは政宗との紛争を避けるためで、政宗の謀反の志があって代わりに忠輝が処罰されるなら、政宗は夫の仇となります。天海を頼ってもなお聞き入れられなければ、五郎八姫は自害すると政宗に迫ります。
まずは五郎八姫に屋敷に留まるように言い置いた政宗は、家来の遠藤弥兵衛に鷹狩りに行くと命じます。勢子100人規模で、近場の狩場で不猟ならその先まで突っ走る──。加えて弥兵衛には、五郎八姫の動向に注視するよう伝えます。特に忠輝が越後高田に向かった際には、五郎八姫が自害しないようにと命じます。
知らせは直ちに家康の元に走った。鷹狩りに出た政宗は、獲物がおらぬと怒鳴りたててそのまま帰国したそうです。さらに忠輝も江戸に向かうはずが、そのまま越後高田へ帰国したそうで、世の中では忠輝と政宗双方が帰国し、示し合わせて謀反を企てているとうわさが立ちます。家康は五郎八姫を離縁する代わりに、秀忠の娘を政宗の跡継ぎに嫁がせることにします。
その夜家康は、忠輝の母であり 現在 奥の取り締まり一切にあたっている茶阿局を訪ねた。家康は茶阿局に、忠輝を見ていると信康を思い出されてならないとつぶやきます。突然、あの子のことは諦めてくれと言い出し、茶阿局は忠輝が何かしたのかと混乱します。しかし家康は泣くばかりです。「天下のためならばこの命も捨てようとな……戦国は実はまだ終わってはおらぬということじゃ」
翌日、家康は再び松平勝隆を召し出した。再び忠輝の元へ使者に立てと言われ、苦々しい表情を浮かべます。この役目は勝隆でなければならないのですが、むごい役目を勝隆にだけ押し付けません。もし政宗が江戸へ出てくれば、その時は時を置かずして家康も江戸へ向かうことにすると勝隆に約束します。「人喰いドラ一匹、泰平という檻へ入れるまでは、わしはここへは帰らぬ覚悟じゃ」
勝隆は、忠輝に切腹の儀だけは容赦してほしいと頭を下げます。忠輝の処分について家康はまだ何も言っていませんが、だからこそ勝隆は必死にお願いするのです。松平勝隆の忠告にも関わらず、舅・伊達政宗の指示に従い領国高田へ戻った忠輝ではあったが、将軍家からのけん責を待つ身の焦燥はたまらないものであった。そして明日、父・家康の使者として再び勝隆が来るという。すでに忠輝は死を覚悟していた。
早速にこの城を立ち出で武州深谷にて蟄居のこと──。処分を読み上げた勝隆は、内容に身に覚えがないと家康や秀忠に宛てて訴訟を起こすように勧めます。未練がましいことをさせるなとそっぽを向く忠輝ですが、勝隆は忠輝が自害しようとしているのを察知したのです。自害は潔いようにみえて、戦うことを恐れて逃避することは卑怯であると強く説きます。家康に負けない戦いをしてこそ真の孝行なのです。
「生死は問わぬ、が、いずれ相会うところは一つ。その折、父と子といずれが真剣に生きたるや。それを忠輝と競おうほどに」家康が勝隆を介して忠輝に伝えたメッセージです。父も子もやがて相会うところがある。それは言うまでもなく死後の世界である。落ち着いていた忠輝でしたが、感情がぐちゃぐちゃになり声を上げて号泣します。
家康が江戸に向かって駿府を出発したのは9月29日、74歳の身には本来冬ごもりに入る季節であった。これと入れ違いに、忠輝の妻・五郎八姫が江戸から奥州仙台の実家へ送り返されていった。
駿府を発った家康は、沼津・三島・小田原と大規模な鷹狩りを行った。表面は、どこまでも狩り好きの家康が遊山まがいの旅とみせて、実は江戸を取り巻く防衛線の整備であり、仙台の伊達家をけん制しての徳川家の一大演習でもあり、そして家康遺言の旅でもあった。
魚を献上した百姓に親しげに声をかける家康ですが、四公六民では百姓は生きるのがやっとで、だからこそ武士は節約第一を旨とせねばならないと家臣に諭します。そこで家康は、新しく開墾した土地は7年間年貢を免除し、次の3年間は三公七民にしようと決めます。この10年で良い田に仕上げれば、食料不足がなくなる計算なのです。同行する宗矩も家康に同意します。
そこに、伊達家家老の片倉小十郎が亡くなったとの知らせが舞い込みます。政宗にとっては大切な片腕で、大きな柱を失った政宗が今後どうなるか気になるところですが、家康はそれには触れず、そっと小十郎の死を悼みます。
その後も狩りを続けて江戸へ入った家康は、江戸城大広間で江戸に滞在する諸大名の挨拶を受けた。秀忠・家康に並んで上座に座る孫の国松に、「ここは国どのの座るところではない。国どのは竹千代どのの家来なのじゃ」と優しく言い聞かせます。国松は侍女に促されて竹千代の後方に移動します。家康は、12歳になる竹千代を三代将軍として一同に宣したのである。後の徳川家光である。
江戸城の千姫の居室を家康が訪問します。千姫は写経をしていたとあって、家康は感心した様子です。家康は千姫を幸せにしてやれなかったと詫びますが、人には運命があると、どんなことがあっても心確かに生きねば幸せはやってこないと伝えます。しかし千姫は、幸せなど自分とは縁のないことと諦めきっています。
家康の祖母・華陽院は5度、母の於大は2度、そして千姫の母・お江与は4度と夫を代えさせられています。そのいずれも政略の縁組であり、それでも嫁いだ先で必死に幸せを築いたのです。家康は千姫の手を握り、母にしてやることが出来なかったことを悔いています。秀頼の命を奪ってしまった負い目もあって、女たちが泣かずに済む 戦のない世を作ると千姫に誓います。千姫は突っ伏して泣き崩れます。
再び狩りに出た家康は、途中 川越の喜多院に師と仰ぐ天海を訪れた。応仁の乱以降、乱れた天下を統一した織田信長は、勤皇の心を旗印にしました。禁裏とは日本民族の宗家ですが、それを私利私欲のために利用しようという曲者(くせもの)が出ないとも限りません。日本宗家の血脈を絶たれる不祥事があれば、家康の油断が日本を、そして太平の世を潰してしまう結果となりかねません。
そこで家康は、源 頼朝が野州の二荒山(ふたらさん)の前例に倣い、天海に親王を関東にいただいてくるように依頼します。その派遣された親王は二荒山ではなく、江戸に新たに建立した寺に滞在してもらうのです。都に王朝鎮護の比叡山があるように、関東には江戸城の鬼門である上野台地に泰平永続の祈願を凝らすのです。これが後の上野寛永寺の構想である。
一方、柳生宗矩は仙台青葉城に伊達政宗を訪れていた。家康も秀忠も伊達と争うつもりはなく戦意はないと宗矩は伝えます。太刀は抜かなくとも虎の暴れまわる余地のないように目配りをし、目を光らせておけば天下にことは起こるまい──徳川から虎を追い詰める気はないわけです。「駿府の虎はただ無為に歳を重ねただけの虎ではおわさぬ」 政宗は厳しい表情です。政宗はこの時、我が戦意の完全に封じ込められたことを悟ったのである。
鷹狩りを続ける家康は、狩りの傍ら専ら開墾と水位の開発を指図して秀忠と合流した。これで江戸の守りは充分と、家康は駿府に戻って正月を迎えられると笑顔です。家康は秀忠に、百姓の取り分をかすめ取るなどの領主の悪政を百姓は誰に訴えるべきかと問います。領主の悪政でも百姓は将軍家への直訴も道としてあると示しておかなければ、領主のワガママは抑えられないのです。
秀忠は、直訴や一揆を許せば過去には荒法師の強訴もあると言葉を濁します。家康は、大名は取り潰すが百姓は磔にすると笑います。驚いて言葉を失う秀忠ですが、その根にあるのは慈悲であり、悪政の抑えになるのです。こうして遺言の旅をつづけた家康が、駿府への帰途についたのが元和元年も押し迫った12月半ばのことである。
「こたびの正月には駿府に年賀に行かねばならぬかのう」 政宗は、青葉城に戻ってきた千姫につぶやきます。忠輝は深谷に幽閉、関東では家康の点検を受ければ、政宗でも万事休すです。愛娘と婿の仲を割いてまで一度は反乱を狙った我が身を、今さらながら責めているのです。「忠輝さまとわらわを結び給うたのはゼウスさま。天下のために引き離されようと、夫婦の糸など切れたとはつゆ思うてもおりませぬ」
年が明けて元和2(1616)年の正月、京からしばらくぶりに本阿弥光悦と茶屋又四郎が家康を訪れた。光悦が移り住んだ鷹峯での暮らしがよいらしく、光悦は出来のいい茶碗を家康に披露します。又四郎はオリーブ油を土産として家康に渡します。長崎で流行っているように、海で取れたものをオリーブ油で揚げる調理法を紹介します。
さっそく調理させた鯛の天ぷらを食す家康は、あまりのおいしさに顔をほころばせます。この日、上機嫌の家康は鯛の天ぷらを三度取り回し、潮汁(うしおじる=お吸い物)を二杯、飯もたっぷりと二膳食べ、寝所に入ったのが午後10時近くであった。そして午前2時。家康は厠で倒れてしまいます。高熱を発し意識もありません。宗矩は江戸へ知らせを走らせます。
知らせを受けた秀忠は、弟の頼宜(よりのぶ)・頼房(よりふさ)を連れ、江戸から駿府まで途中八里の箱根山を越えて、普通ならば5日ばかりかかる道のりを一睡もせず、わずか36時間で駆けつけた。すでに義直も名古屋から駆けつけている。家康はそっと目を開き、同行した頼宜たちに、将軍の言いつけには背くなと言い置きます。「将軍家よ、くれぐれもわしに代わっての」
泣き出す子どもたちを叱りつけた家康は穏やかに諭します。この世にあるのは大きな命の大樹で、一人ひとりは大樹に生えた枝であると言えます。枝が枯れても大樹が枯れたとは言えないわけで、この現身(うつしみ)は隠しても命の大樹の中に生きるのです。「成すことは同じ、生もなければ死もあるない」
2月に入ると家康の病状は一進一退。そのたびに駿府城内は重苦しい緊張に閉ざされ、諸大名も続々と駿府に集まった。そして京からも勅使が到着した。自身の重体が西に知れて不心得者が出たらどうすると激怒する家康は、松平忠実を伏見城に入れて京都守護に当たらせることにします。家康が重体でも天下は微動だにしないことを示さなければならないのです。
家臣や茶阿局が止めるのも聞かず、家康は無理を押して束帯姿に着替えて勅使と面会します。勅使は主上よりの見舞いとともに太政大臣を任命して、なおも日本国のために一日も早く病を癒すようにという詔(みことのり)を伝えた。上方のことは警備を厳重にするように命じたので、安堵するよう勅使に頭を下げます。
知らせを聞いた伊達政宗も、急ぎ仙台を発ち江戸を素通りして駿府に到着した。もはや政宗に、謀反の心はなかった。家康は政宗に今後のことを頼むと言葉をかけます。同じく見舞いに駆けつけた金地院崇伝には、人間は腹が膨れると魂が飢えるものだと、学問を怠らせないように伝えます。天海は親王のことは安堵するように報告すると、こぼれ落ちそうな涙を必死にこらえています。
切れすぎる、努めて敵を作るなと正純を諭し、宗矩には秀忠と竹千代のことを頼むと言い置きます。本多正信には長年の勤仕を労わり、幼い子どもたちには民の心を聞くように説きます。そして秀忠には、金銀財宝、我が命、子や孫まで、遺産は万一の折の軍用の杖にして、飢饉に備え富士の災害に宛てよと言葉を残します。「天は常に我らに油断あるや否やを見て試されてあるぞ。汝のために使うてはならぬ」
家康は自身の死後の処置について、出来るだけ早く家康の亡きがらを久能山に送り、久能山から西に向けて立ち姿のまま葬るように秀忠に命じます。「そこでわしは西をじっと睨み続ける。都のことばかりではない。ずっと西には南蛮もあれば紅毛人の国もある」 さらに一周忌が過ぎたら下野二荒山に塔を立て、家康自身は関八州の鎮守になりたいと伝えます。関八州がしっかりしていれば日本は安泰なのです。
その後も一進一退を続ける家康の病状は、深谷に蟄居している忠輝の元にも刻々と届いていた。知らせを送っていたのは母の茶阿局です。家康の勘気が解けずとも臨終に間に合わなければ一大事と、駿府に近いところまで来るようにとあります。その文面を呼んだ忠輝は、顔を上げてただ一点を見つめています。
多くの側室の中で、家康のそばを片時も離れず看病しているのは、忠輝の母・茶阿局ただ一人であった。家康と二人きりになった深夜に茶阿は珍しく願い出をし、忠輝のことだと家康は察知します。茶阿は忠輝が赦しも得ないまま近くに来ていることを打ち明け、対面が叶わなければふすま越しでも別れの言葉をかけてやってほしいと懇願します。
家康は信長から贈られた「野風の笛」を、自分が死んだら形見分けで与えるように茶阿に頼みます。猛々しい信長にも笛の音を愛でる優しさがあり、この笛は家康に人間を信じさせてくれた宝物なのです。茶阿は直々の手渡しを求めますが、家康は拒否します。「あれには会えぬ。我が子の憎い親がこの世にあろうか。小さな犠牲を積まねばならぬ。これはほかの弟どもと天下の諸大名への見せしめでもある」
家康は茶阿に忠輝を宿舎として臨済寺に入れさせ、忠輝が無断で出てきたため寺に足止めしたと秀忠に報告するように助言します。これは秀忠に忠輝を捕らえさせるためではなく、忠輝を監視するために人を派遣するはずで、これが忠輝の身がかえって無事に保たれるのです。「わかってくれたも……わしもあれが可愛いのじゃ」これが家康がこの世に残した最期の言葉であった。
勝隆は預けられた野風の笛を持って忠輝のいる臨済寺へ届けます。秀忠からの伝言で、太刀を捨てて風流の道を歩めと家康が言っていたこと、秀忠が最も恐れていた家康からの切腹命令でしたが、家康から届けられたのは笛だったわけで、ありがたい笛だとのことです。忠輝は笛を握りしめ、涙を流しています。
「我、天寿まさに終わらんとすれども、将軍天下を過ぐるがゆえに、憂うることさらになし。しかれども天下はひとりの天下にあらず。天下は天下の天下なり。もし将軍の政道 理にかなわず、億兆の民 艱難することあらば、誰にても取って代わるべし。四海安穏にして、万民その仁恵に欲すれば、すなわち我に於いていささかも恨み思うところなし──」
家康の容態が急変したと知らせがあり、秀忠たちは家康の寝所に駆けつけます。医師からお別れを勧められて、秀忠は末期の水を取ります。頼宜が進み出るのを止め、忠輝の代わりにと茶阿局に水を取らせます。枕元にある洋時計が寂しげに時を知らせます。「亥の刻、ただ今ご遠行にござりまする」 居室は一斉にすすり泣く声が響き、天海は手を合わせます。
元和2年4月17日 朝、家康はいま今生の別れを告げたのである。遺体が駿府城を出たのは午後6時過ぎ、家康の遺言どおりその日のうちに葬列は久能山に向かった。涙雨が降る中、臨済寺の忠輝は野風の笛を吹き、家康の死を悼みます。そして家康の遺体を運ぶ野辺送りの行列は、夜の道を無数の松明が延々と続き、家康の人物の偉大さを象徴するかのようです。
75年、まさしく泰平の悲願を生き貫いて久能山に祀られる家康の遺体もまた、立って西に臨み、さらに1年後には二荒山に移って平和の根になろうという、飽くなき祈りの往生である。そのすさまじい遺志の前に、戦国はひれ伏した。この卓絶した悲願を、後の世の人々がどう受け継いでいったか。それは厳しい歴史の根が裁いていくに違いない。
──完──
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