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2024年1月 2日 (火)

プレイバック風と雲と虹と・[新] (01)将門誕生

霧の中、鎧に身を包み刀を振り上げる能面の男。振り返ると平 小次郎将門その人。

百姓たちはいろりを囲み、沈んだ様子でその火をじっと見つめています。「生きていなさるとも」「俺は見たぞ、昨日の夜更けに将門さまのお姿を」などと将門について穏やかに語っていた百姓たちは、どこからともなく馬のひづめの音が聞こえてくると顔を上げ、パッと表情が明るくなります。

平 小次郎将門の死は、天慶3年、西暦940年のこととされている。今を去る1,000年あまりの昔のことである。坂東の人々にとって、生ける将門は英雄であった。そして死して後の彼は、長く坂東の野に、山に川に、そして空に宿る坂東の民の守護神であり続けた──。


原作:海音寺 潮五郎
   「平 将門」
   「海と風と虹と」より

脚本:福田 善之

音楽:山本 直純

テーマ演奏:NHK交響楽団
      東京混声合唱団
演奏:新室内楽協会

時代考証:稲垣 史生
風俗考証:磯目 篤郎
語り:加瀬 次男 アナウンサー

邦楽:杵屋 正邦
振付:花柳 寿楽
殺陣:菊池 竜志

能指導:観世 栄夫
笛:矢野 宣
琵琶:鶴田 錦史
舞楽:小野雅楽会

[出演]

加藤 剛 (平 将門)

新珠 三千代 (将門の母 正子)

草刈 正雄 (鹿島玄明)

長門 勇 (平 良兼)

佐野 浅夫 (平 国香)

渡辺 文雄 (平 良文)
信 欣三 (村雄の殿)

水野 哲 (将門の少年時代)
金内 喜久夫 (狩りの民人)

入江 杏子 (乳母)
難波 和宏 (将頼の少年時代)
出原 健一 (将平の少年時代)

金親 保雄 (国府の上役人)
大浦 宏司 (国府の上役人)
井上 博一 (将門の家人)
岡本 隆 (将門の家人)

西沢 武夫 (民人)
秋月 喜久枝 (民人)
和久井 節緒 (民人)
篠田 薫 (民人)

笹川 恵三 (民人)
三由 茂 (民人)
森 康子 (民人)
阿部 英生 (民人)

大西 多摩恵 (民人)
高橋 真弓 (民人)
小島 勝美 (民人)
庄司 久美子 (民人)
大友 町子 (民人)

筧 豊子 (民人)
大野 紀志夫 (民人)
丸山 信二 (民人)
綿貫 宏和 (民人)
野村 須磨子 (民人)

花柳寿楽社中
若 駒
鳳プロ
劇団いろは
協力:相馬野馬追執行委員会

露口 茂 (田原藤太)

小林 桂樹 (平 良将)

制作:小川 淳一

美術:小川 和夫
技術:黒柳 要輔
   佐々木 秀次
効果:鈴木 一清

演出:岸田 利彦
   大原 誠


原作・海音寺潮五郎氏──非常に素朴な坂東武者という感じがまずしますね。正義感の非常に強かった男であろうと思います。結局、情勢が彼を革命時にしてしまったんですけれども、あの時代としてはですね、今日と人間の考え方が違いますから、容易に革命に突っ走るということはなかったはずですね。将門が出たために(藤原)純友が出てくる と。そういう感じですね。

それから将門という人はですね、大日本史が彼を叛臣伝の中に入れまして、すっきりしまして、だから水戸史学が彼を叛臣としたわけですね。その以前ももちろんありますけど、それは京都公家から見た見方ですから、必ずしも正しい公平なる見方とはいえない。

一般の庶民はですね、将門をどういう人物かと、していたかといえばですね、明治以前においては、関東において明神という神号を持った神社のほとんど全部は将門を祀ったものであった、こう言われております。将門は天皇家に対する反逆をしたわけで、藤原氏の政府に対する是正を求めた。ですから今日我々が考えるような、謀反というようなものではないと思いますね。

それから神田橋のそばの国税庁の近くに、将門の首塚というのが今日ありまして、あれは昔からですね、あれに触ると祟ると言われていて、今日でもそのまま残って、大変綺麗にしておって、占領中に米軍があれを撤去しろとか何とか言って何かやりかけたら、変なことがあったんでそのままにまたなった という言い伝えがありますね。

将門の首はいろんな説がありまして、京都に運ばれたという説もある。それから途中から飛び帰ってきたという説もある。いろいろあります。それで将門の死んだという所もですね、これから先出てくる最後の戦場で死んだんじゃないんだと、どっかへ逃げて死んだんだと。

それを伝えても地方は関東にも方々あります。それはもう「死なせたくない」という気持ち、そういう気持ちがそういう伝説を作ったんでありましょうし、また将門の一族か何かがそこへ逃げていって、そこで発見されて死んだとかいうようなことが、そういう具合に長い間になったんでしょうけれども、とにもかくにも将門を死なせたくないという気持ちは、当時の関東の民衆にはあったはずですね──。

 

将門の時代を語るには、律令制とその崩壊に触れなければならない。律令制とは7世紀中庸、大化の改新によって定められた、法に基づき公地公民制を基礎とする中央集権的国家体制のことである。天下の土地はみな公有で、私有を許さないというのが原則であったが、その後有力な者が“別荘付属の庭園”という意味の荘園という私有地を持ち始める。

そして9世紀も末になると、開墾、譲り受け、買収、横領、いろいろな手を尽くしそれを広げていき、中央政府の手の届かぬ独立国家のようなものにまで発展する。荘園が増えるに従い、公地公民制を基礎とする律令制は必然的に崩壊してゆくのである。一方、民人の幸福のために尽力する役人もいたし、律令制の回復を図る努力もあったが、中央政府を支配する貴族たちは、自分たちの利を図り財を増すことのみに狂奔する傾向が強く、内部の権力闘争が激しかった。

こうして9世紀が終わり、10世紀の幕が開く。10世紀の最初の事件は、右大臣・菅原道真の追放である。菅原道真は学者の家柄に育ったが、宇多上皇によって異例の登用を受け、ついに右大臣として左大臣・藤原時平とともに「内覧」つまり関白とほぼ同様な職務に就いた。宇多上皇は彼の重用によって、藤原一門の専横を抑えたかったのであろう。

しかし901年正月、藤原時平は幼い醍醐天皇を抱き込み、道真を大宰権帥に任ずるという名目で、政界から追放した。時平の静かなクーデターであった。「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」道真は2年間、大宰府の配所に暮らし、延喜3(903)年 59歳で痛憤のうちに世を去った。

権力は再び藤原一門の手に握られた。最高権力者時平は、律令制の建て直しになお力を尽くしていたが、宮廷に集う貴族たちはおおむね地方政治の実態に目もくれず、宇多法皇と醍醐幼帝を囲んで、内鞠、歌合わせ、さらに獅子の宴、くらべ馬などの享楽に明け暮れるばかりであった。平安京をとどろかす雷鳴を、人々は菅公の怨霊の業と信じた。藤原氏の専横を憎む心が、道真を神に祀り上げたのである。

畑を耕し、突然の雨に慌てて木の陰で雨宿りする百姓は。雷鳴とどろく中を響き渡る赤子の鳴き声に笑顔になります。903年、延喜3年、平安の都からはるかに遠い坂東の地に、平 小次郎将門の誕生である。良将は、将門が桓武天皇の来孫(きしゃご=5代後)にあたるも、今は坂東武者だから京を故郷と思うなと教え込みますが、乳母は生まれたばかりの赤子にまだ早いと笑います。

良将の屋敷では百姓たちが火を囲んで踊り、将門の誕生を祝います。その座には良将のほか弟の平 将文もいます。そこに祝いに現れた良将の長兄・平 国香は、下人たちと並んで祝いたくないと不満顔です。次兄・平 良兼は百姓たちに名乗り、良将がせっかく招待した百姓たちは、恐れをなして退散してしまいます。良将は悪びれる様子もない国香と良兼にいら立ち、悔しい思いを抑えきれません。

 

時は流れる。小次郎将門は父に似て、たくましい少年に育った。早駆け馬にしがみついていた将門が落馬し、良将は慌てて駆けつけますが、怪我がないと分かると再び馬に乗せて馬術の特訓を続けます。将門は何度も何度も落馬しますが、それでも食らいついて乗馬を続けます。その甲斐あってかたちどころに馬術を習得し、手放しで飛ぶ鳥を弓矢で射るほどの腕前に成長します。

射落とされた鳥を拾い満足げな将門ですが、そこに狩りの民人と鉢合わせします。民人は相手がお屋形の若殿であると悟り、カラスウリを射てみせますが、負けず嫌いの将門は外してしまいます。そこに現れた良将は、矢の羽根の模様から鳥を射たのは民人だと気づきます。将門を見て獲物を譲った民人の腕前に感心する良将ですが、民人は良将が引き止めるのも聞かずに立ち去ってしまいます。

良将は、坂東には弓矢の達者な者や武勇に優れた者が多いと説明します。200年前から坂東武者は防人として徴集され、筑紫国に赴いたり蝦夷と戦ったりしてきました。その「東人(あずまびと)」の習わし“額には矢を立つとも背平(そびら)には矢を立てじ”から、戦うときは真っ向から進み敵に背を見せて逃げないのが東人だと諭します。「小次郎も東人なのですね」と父を仰ぎ見てニッコリします。

小次郎には次々と弟が出来た。三郎将頼、四郎将平、その長兄として小次郎は早くから、やがて一家を担う跡継ぎとしての自覚を育てていた。母と子で一生懸命に畑を耕しています。その合間に汗を拭う将門は、狩りの民人が役人に連行されていくのを目撃します。実は狩りの民人は、公地公民の義務である租税や30日の庸役が辛く、土地を放棄した「浮かれ人」だったのです。

どうにかならないのかと将門は良将に相談します。国には国の決まりがあり、役人は民人から税を取り立てねばなりません。もし良将が浮かれ人を家人にしていたら、民人は辛さからは解き放たれますが、公民が減り税が減ることにつながります。「あの人たちが救われるこみとが、国家が困ることになるのですか? 間違っています! 何かが間違っています!」

この年、平安の都から良将に、陸奥の鎮守府将軍として赴任すべき命が届いた。鎮守府とは、東北辺境の開拓と蝦夷鎮圧のために置かれた郡政府のことである。少なくとも2年は赴任するという良将に、母の正子は国香と良兼が油断のならない義兄だと不安げです。良将は、自分たちよりも民人のほうがもっと辛いのだと正子を諭します。

陸奥鎮守府将軍・平 良将は、この後ついに豊田の里へ帰ることはなかった。将門の家の館は、今の茨城県結城郡石下町にあったとされている。豊田というところは現在石下町内の一部であるが、将門の時代の豊田は東は小貝川から西は鬼怒川を超えて広がっている、ひと月後、小次郎も父を追って胆沢城へ向かった。旅に出たその翌日、下野の国府のそばに差し掛かった時のことである。小次郎はこの日、彼の生涯にとってやがて重大な役割を果たすことになる人物に会う。

捕縛されて馬上の人となり、門から出てきたのは田原藤太です。不公平な裁きに役人を殺してしまった反逆の罪で捕縛されたのです。将門はそのはなむけに腰刀を藤太に献上します。せがれに代わって刀を受け取った父の藤原村雄は名を尋ねますが、「行きずりの旅の者、ご平安をお祈りいたします」と家人が慌てて将門を引き下がらせます。田原藤太。ある時は友として、また宿敵としてこの二人は相まみえることになる。

そして、時が流れた。小次郎将門は久方ぶりの故郷に向かって駆けていた。筑波の山が見えれば、母や弟たちのいる豊田はもうほど近い。川で選択する小娘のからかいに赤面しつつ、草むらで笛を奏でる若武者に遭遇します。声をかけ名乗る将門ですが、無表情のその若武者は後方転回して逃げ出していきます。小次郎には、笛の音とともにこの若者のことが心に残った。

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『風と雲と虹と』
第2回「恋あらし」

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