プレイバック春日局・(30)ああ大坂城
【アヴァン・タイトル】
大坂の陣で、豊臣家が苦戦を強いられた背景には、頼みにしていた豊臣恩顧の大名たちの離反が、大きく絡んでいました。しかし諸大名の側にもやむを得ない状況があったのです。
大物大名がここ2~3年の間に相次いで他界したことも、そのひとつです。慶長16年の浅野長政を始めとして、同じ年、秀頼の身を最も案じていた加藤清正が、慶長18年 池田輝政が、翌19年には前田利長が世を去っていきました。薩摩の島津義弘はこの時80歳、家督は息子に譲っており、世は既に秀吉とは縁の薄い二世の時代でした。
一方、生き残りの有志である黒田長政、加藤嘉明、そして秀吉子飼いの大名・福島正則らは、力があるだけに家康にとっては侮れない存在でした。そこで家康は、江戸城修築を理由に彼らを江戸に足止めしたのです。
こうして豊臣恩顧の大名たちは、家康の巧みな豊臣包囲網に完全に抑え込まれてしまったのです──。
二の丸・三の丸を取り壊し、外堀を埋めるというのが和議の条件でしたが、二の丸と三の丸の取り壊しは内堀まで埋めることだと徳川軍は主張していて、茶々は工事の差し止めを大野治長に命じます。そこに参上した真田幸村と木村重成は、出陣の下知を求めますが、豊臣秀頼はせっかく成った和議であり、双方の思い違いが引き起こしたことだとして出陣を認めません。
正月24日に内堀まで埋める工事も終わり、諸大名も帰国を許されて大坂を去り、徳川秀忠も江戸城へ戻ります。駿府では徳川家康が本多正純からその報告を受け、お勝も豊臣の始末がつき大願成就が成ったと喜びますが、「豊臣の処置はこれからじゃ」と不気味に笑います。大坂方が逆らえないのをいいことに、秀頼と茶々を大坂城から大和か伊勢の一大名にして、浪人たちを追放する必要があります。
「大御所さまは、豊臣を潰されるご所存にございますか」とお勝は衝撃です。豊臣が地方の一大名になるか公家になるかすれば浪人たちを雇えなくなるわけで、そうなれば二度と謀反などは起こさなくなるのです。あとは時の至るのを待つだけと、家康は考えています。
江戸城には秀忠が帰り、お江与が出迎えます。常高院からの手紙では、茶々は大坂のいち大名として生きる覚悟を固めたとつづられていました。ただ豊臣の処置は家康次第で、その決定に自分たちは口を差しはさむことはならないとお江与を諭します。秀忠帰城にあたり、国千代と和姫は秀忠の目通りを心待ちにしていますが、秀忠は竹千代にはしばらく目通りは許さないことにします。
竹千代の居室には土井利勝が訪問していました。もう戦はないのであろうな? と念押しする竹千代に、利勝は言葉を濁します。竹千代が湯殿に向かうと、おふくは利勝に、竹千代が秀忠の勘気に触れたからか目通りが叶わないと訴えます。このままでは申し訳が立たないと涙を浮かべるおふくですが、大坂はまだまだ不穏であり、秀忠は奥にまで気を回す余裕がないのです。つまらぬことに捉われるなと励まします。
慶長20(1615)年3月、家康は豊臣に法外な要求を突き付けます。秀頼が大坂城を退去して大和か伊勢に国替えするか、召し抱えた浪人たちを追放するか、いずれかを選べと迫ったのです。自分たちの誇りである大坂城から離れるわけにはいかないと茶々は反発します。となると残すは浪人衆の追放しかありません。秀頼は大坂城の財宝を分け与えてでも、浪人衆の身の立つようにと治長に命じます。
その夜、治長が刺客の襲撃を受けます。幸い傷は浅かったのですが、浪人追放に反対する者たちの仕業としか考えられません。幸村は「我らは与り知らぬこと!」と釈明に現れます。といいつつ、幸村たちも治長のことは許せません。豊臣の再興を願ってはせ参じた自分たちでしたが、前の戦ではなすすべなく負け戦を強いられ、内堀まで埋められたのは治長の手抜かりと幸村は主張します。
幸村は、このまま徳川に屈しては太閤秀吉へのご恩返しができないと訴えます。大坂城はこれまでのものとは違うわけで、正栄尼は「そなたたちは豊臣を潰したいのか!」と、早く浪人衆を追放せねばと主張します。幸村たちは、むしろ戦は望むところと秀頼に訴えます。秀頼は幸村たちの言を受け入れることにします。「徳川には和議のこと、不承知と返答しよう。あの者たちを追放することはできぬ」
千姫の居室を訪ねた秀頼は、戦になる、とつぶやきます。豊臣と徳川の橋渡しという千姫の役目は終わったと、秀頼は戦になる前に千姫が徳川に戻れるよう手はずを整えています。しかし千姫は、自分は豊臣の女だと食い下がります。「女子は何があろうと、好きな人のそばに置いていただくのが果報。死ぬも生きるも秀頼どのとともにと願うております」
江戸城を出発する秀忠へ、豊臣が潰されても、茶々と千姫の命だけはお助けを、とお江与が最後の訴えです。今回の戦で秀忠は、浪人衆が相手であり、秀頼や茶々、千姫の命を奪うことは考えていないようです。「叶うものなら、江与が大坂へ参りとうございます。姉上と千姫をお守りできましたら……」とお江与は泣いて訴えます。一方、出発の時間だというのに、ついに竹千代はお呼びがかかりませんでした。
5月5日、家康は秀忠とともに大坂城から10kmほど離れた河内に陣を敷きます。豊臣勢は、大坂城内での籠城は無理と、茶々と秀頼たちを残して城外へ出撃していきます。彼らの想定外な善戦に、大蔵卿や饗庭は大喜びですが、茶々は歓喜することなく、秀頼も心静かにそっと目を閉じます。
何をぐずぐずしておるか! と家康は焦りの表情です。ふと気づくと、霧の中に幸村が単騎こちらを睨みつけています。後退する家康の前にお勝が立ちはだかり、幸村と一騎打ちとなりますが、軽くあしらわれてしまいます。幸村は家康に槍を突き出し、家康は必死に防御します。そうしている間に家康護衛の兵が戻ってきて、幸村は止むを得ず退散します。「幸村め……やりおるの」と家康は苦笑いです。
5月7日、家康の陣を脅かした豊臣勢も、浪人衆があえなく討ち死にし、各地の戦いで敗退が続きます。秀頼は桜門で徳川勢を迎え討つと立ち上がりますが、治長が必死に押しとどめます。茶々は千姫だけはお江与に返してあげたいと、常高院を伴って徳川へ行くよう命じます。始めは拒絶する千姫ですが、治長の切腹を条件に茶々と秀頼の助命嘆願に向かうことを承諾します。
大坂城から火の手が上がります。正純はこれで戦いやすくなるとほくそ笑みますが、家康は千姫を助け出す方が先だと声を荒げます。そんな中、江戸城で戦の成り行きを見守るしかできないお江与は、この戦でどちらが勝っても負けても地獄です。そして稲葉正成、正次、正定を戦場に送り出したおふくにも、竹千代にもつらい戦が、ようやく終わりを告げようとしていました。
慶長20(1615)年5月7日、真田信繁(幸村)が安居神社境内で討ち取られる。享年49。
寛永6(1629)年10月10日、おふくが上洛して昇殿し「春日局」名号を賜るまで
あと14年5か月──。
原作・脚本:橋田 壽賀子「春日局」
音楽:坂田 晃一
語り:奈良岡 朋子
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[出演]
大原 麗子 (おふく)
長山 藍子 (お江与)
中村 雅俊 (徳川秀忠)
山下 真司 (稲葉正成)
東 てる美 (お勝)
大和田 獏 (大野治長)
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渡辺 徹 (豊臣秀頼)
野村 真美 (千姫)
中条 きよし (土井利勝)
松原 智恵子 (お初)
高橋 悦史 (真田幸村)
前田 吟 (本多正純)
馬渕 晴子 (大蔵卿の局)
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大空 眞弓 (茶々)
丹波 哲郎 (徳川家康)
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制作:澁谷 康生
演出:富沢 正幸
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『春日局』
第31回「終戦と女たち」
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