プレイバック春日局・(29)大坂攻め
【アヴァン・タイトル】
和歌山県 伊都郡 九度山町、関ヶ原の戦いの後、この地で蟄居していた真田幸村。今はここ、真田庵が住居跡として、唯一足跡(そくせき)を残しています。世に聞こえた幸村も、真田ひもで糊口(ここう)を凌(しの)いでいたとされるが如く、寂しい浪人生活を送っていました。しかしその後、大坂冬の陣・夏の陣と、豊臣方の軍師として再びその名をとどろかせました。
幸村が大坂城に入城する際に支払われた一時金は、なんと2,000両あまり。冬の陣の折、豊臣方は関ヶ原の戦いで主君を失うなどした浪人10万人を金で集めました。その一時金だけでも膨大な金額になります。それにもかかわらず、大坂城には10万人の兵が籠城しても、330日間、ほぼ一年間はゆうゆうと食べていけるだけの兵糧が蓄えられていました。
莫大な財産と優秀な人材。家康は豊臣方の底力のすごみを充分に感じ、恐れながらも開戦を決意したのです──。
慶長19(1614)年10月23日、徳川秀忠は10万の大軍を率いて江戸を発つことになりました。秀忠は留守を預かる竹千代と国千代に、今回の大坂攻めは長期間になるかもしれず、いざという時にはしっかりと江戸を守るよう申し付けます。竹千代は秀忠の娘やお江与の姉がいる大坂をなぜ攻めるのか分からないと主張します。「ならば挨拶は無用じゃ。下がってええ」
出陣の見送りも済み、お江与は国千代の立派さを喜んでいますが、竹千代が秀忠に盾突くような発言には眉をひそめます。お江与自身、理不尽だと家康を恨んだこともあったわけですが、出陣を祝う席で分別のない発言をしたことを呆れています。ともかく、これで秀忠も家臣たちも、どちらが世継ぎにふさわしいかが分かっただろうと満足げです。
「血を分けた者同士が戦うなど、わしには解せぬ」と竹千代は主張します。おふくは、戦がない世を作るよう竹千代を教え、自分の考えをはっきりと述べることも教育してきました。ただ、そんな竹千代を悪しざまに言う者もいるのは事実で、それに負けてはならないと諭します。家康も秀忠も穏便に事を済ませるだろうから信じるようにと、おふくは竹千代を見据えます。
大坂城では、豊臣恩顧の大名がなかなか参陣しないことに茶々がいら立っています。小さくなっている大野治長は、大名たちから次々と赴援の断りの返答が来ていることを打ち明けます。いずれも、豊臣家への恩は関ヶ原の戦いで返したとか、代替わりして考えが変わったとか、そういった理由によるものです。大蔵卿の局と常高院は、赴援のないまま徳川と戦になる前に和議を結ぶことを提案します。
治長は、大名の赴援はなくとも、禄を失い徳川に怨恨を抱く浪人たちはいると、真田幸村、木村重成、後藤又兵衛、塙 団右衛門をこの席に呼びます。いずれも猛将であり、彼らが10万の兵を指揮すれば、徳川軍といえども大坂城には手を出せないと胸を張ります。そして大坂方が善戦すれば、赴援を断る大名たちもいずれ寝返って、こちら側についてくれる可能性も十分にあるのです。
家康が入った二条城には、片桐且元の姿がありました。且元は大坂方を見限ったわけではないと言いつつ、大坂城の図面を持参していました。且元の主張は、この図面と且元が先鋒を務めることを引き換えに、豊臣秀頼、茶々、千姫の命は保証してほしいというものでした。「戦とはの、脅しじゃ。一日も早う淀どの秀頼どのが徳川のいうことを聞いて、和を講ぜられるよう」
11月、総勢20万とも30万ともいわれる徳川軍が布陣します。あとは家康の下知待ちですが、布陣して半月が経過しても未だに下知が出ず。秀忠もイライラを隠せません。家康は脅しで軍勢に取り囲ませつつ、講和を進めて戦にしないように図っているところですが、それでは手ぬるいと、秀忠は明朝、幸村が守る真田丸を攻撃すると正信に宣言します。そうすれば家康も総攻撃の下知を下さざるを得ません。
秀忠軍は真田丸の堀の旧坂を駆け上っていきますが、土壁の穴から無数の槍が突き出され、上からは大きな岩を落とされ、兵たちはえじきになって堀の下に転落していきます。この攻撃で松平忠直、前田利常、井伊直孝の手勢がひどい目に遭わされ、天下の名称と謳われる幸村は戦って勝てる相手ではないと、土井利勝が家康に叱責を受けます。
家康は穏便に講和を進めるのが先決と考えているわけですが、「間ものう砲撃を始める」と利勝に伝えます。昼間は大砲で脅しをかけ、夜間には鬨の声を上げさせる。これを繰り返して城内の戦意を失わせることが目的です。秀忠には、大坂のことは自分にまかせて、全て自分の言うことを聞くように利勝に伝えさせます。
大坂城外で大砲の音が続き、城内の女たちが悲鳴を上げて頭を抱えます。大坂城を潰す気か! と茶々は不安顔ですが、幸村は笑って扇で仰ぐ余裕すらあります。「家康がオランダから買うたという大筒の弾が撃ち込まれたものとみえまする。大筒の弾などどれほど撃ち込もうと、大坂城はびくともいたしません」 そして夜間には鬨の声で、休んでいた茶々はたまらず戦の用意をさせます。
それでも大坂城が堪(こた)える様子はありません。大坂城を動かしているのは茶々を始めとする女たちであり、女たちが動揺すれば素直に講和に応じるだろうと、家康は次々と大筒を撃ち込めと本多正純に命じます。また、常高院が城内にいるという情報を掴んだ家康は、大坂に参陣している養子の京極忠高の陣に呼び、こちらからは阿茶の局を差し出して、女たちで講和の話し合いをさせてはどうかと考えます。
常高院を講和の使者に立てることは、幸村や茶々が反対します。戦が長引いて困るのは、遠征している徳川なのです。すると大砲が天守閣に落ち、大騒ぎになります。侍女の勧めで避難することになりましたが、落ちてきた梁で押しつぶされた侍女が落命したのを、茶々は目撃してしまいます。威勢の良かった茶々は後ずさりします。「猶予はならぬ、講和じゃ! お初! そなた使者に立ってくれ」
常高院・大蔵卿の局と講和の席に着いた家康の側室・阿茶の局は、家康が“茶々が大坂城にいたければ秀頼と共にいたらいい”と言っていたことを告げますが、大坂城は本丸のみ残し二の丸・三の丸は取り壊すことを条件にします。そうすれば人質は大野治長と織田有楽斎から取って茶々が人質になる必要はなく、浪人衆も家臣の新旧を問わずお構いなしとのことです。常高院はその内容を持ち帰ることにします。
お江与は急ぎ足で竹千代の居室に向かい、戦が終わったと報告します。千姫が無事であることに竹千代もホッとしたようで、笑顔を見せます。竹千代は「戦とは、出陣する者にも残って戦を気遣う者にも、これほど辛いことはない」とつぶやきます。ただ今回の戦で最もつらい思いをしたのはお江与です。茶々と千姫の身を案じて、眠れぬ日々を過ごしたかもしれません。
お江与は国千代に戦が終わったことを知らせます。家康も秀忠も、大坂城も無事で和議がなった──。おめでとうございました! と頭を下げる国千代と小姓たちです。徳川が勝っても豊臣が勝ってもお江与には地獄で、このふた月、心の休まる暇もありませんでした。「二度と、このような思いをするのは嫌じゃ……ほとほと……嫌じゃ」と、ようやく笑顔を見せるお江与です。
稲葉正成は久しぶりに京の高台院を訪ねます。小早川秀秋が没した時に対面して以来、10年ぶりの再会です。話は大坂の陣のことに移りますが、比較的早く和議が結ばれ、大きな戦にならずに済んだと高台院は安堵していますが、大坂城の外堀を埋める条件だけで徳川が引き下がったというのは、正直解せないところがあります。「……それで済めばええがのう」
大坂城でいつものように正月を迎えられるのは、千姫のおかげだと茶々は礼を言います。千姫だけではなく、お江与や常高院のおかげでもあります。豊臣と大坂城が残れば悔いはないとつぶやく茶々に、秀頼はその覚悟をしてくれたと感激します。そこに突如幸村が入ってきます。「二の丸・三の丸取り壊しの徳川軍に、不審な挙動あり。外堀のみならず、内堀まで埋めにかかっておるわ!」
豊臣家にとっては一時訪れた、短い平和でした。
慶長19(1614)年12月18日、京極忠高の陣において、家康側近の本多正純・家康側室の阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された茶々の妹・常高院との間で行われる。
寛永6(1629)年10月10日、おふくが上洛して昇殿し「春日局」名号を賜るまで
あと14年9か月──。
原作・脚本:橋田 壽賀子「春日局」
音楽:坂田 晃一
語り:奈良岡 朋子
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[出演]
大原 麗子 (おふく)
長山 藍子 (お江与)
中村 雅俊 (徳川秀忠)
山下 真司 (稲葉正成)
東 てる美 (お勝)
大和田 獏 (大野治長)
津嘉山 正種 (片桐且元)
和田 幾子 (阿茶の局)
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渡辺 徹 (豊臣秀頼)
野村 真美 (千姫)
中条 きよし (土井利勝)
松原 智恵子 (お初)
高橋 悦史 (真田幸村)
前田 吟 (本多正純)
馬渕 晴子 (大蔵卿の局)
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香川 京子 (茶々)
大空 眞弓 (茶々)
丹波 哲郎 (徳川家康)
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制作:澁谷 康生
演出:富沢 正幸
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『春日局』
第30回「ああ大坂城」
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