プレイバック春日局・(39)兄弟は他人
【アヴァン・タイトル】
生涯おふくの心の支えであった稲葉正成。将軍家光の命により、下野真岡(もおか)2万石の領主として着任したのは、寛永4(1627)年のことでした。しかし真岡を治めることわずか1年半、正成は58歳の生涯を閉じました。般若寺に伝わる正成の位牌。「現龍院殿輝宗道範大居士」、正成の戒名です。
先ごろ真岡市とその周辺で新しい発見がありました。先祖の位牌とともに正成の位牌を祀っている家が続々と見つかったのです。その数100以上。調査が進むうちに、当時正成が御除地、つまり年貢を納めなくてよい無税の土地を領内の家に与えていたことが分かりました。この家と位牌を持つ家とが一致していたのです。人々は正成の死を悼んで位牌を作り、360年もの間、感謝の心を捧げてきたのです──。
おふくのところへ稲葉正利が訪れます。徳川忠長に従って駿府に赴いているため、久々の対面です。忠長の急な出府を気にしつつ、おふくは25歳になる正利に嫁のことも考えてやりたいと思っています。しかし正利は、若年の忠長に仕える者が妻や子に心を奪われては役目が果たせないと、嫁取りの話を断ります。おふくは無理強いせず、忠長のことで役に立てることなら力になると正利に約束します。
そのころ忠長は徳川秀忠に目通りしています。大坂の陣で廃墟となる大坂城の修築を諸大名に命じているものの、美濃高須藩の徳永昌重は財政困難を理由に賦役を怠り修築怠慢が甚だしく、諸大名への見せしめのために秀忠は改易処分にしたわけですが、忠長は自分が大坂城主として赴き指揮監督して修築をさせ、さらには西の守りを固めて江戸の家光とともに徳川の天下の安泰に力を注ぎたいと売り込みます。
駿河50万石では不足というのか! と秀忠は怒鳴ります。忠長としては、家光とともに車の両輪となって徳川を支えていきたいという気持ちが強いわけですが、いくら兄とはいえ主従の関係であり、秀忠から見ればそれが心得違いなのです。かわいい忠長に家康ゆかりの駿府を与えた秀忠は、忠長がこういう考えでは今の駿河50万石すら過分に感じます。
江戸屋敷に戻った忠長は、幼いころから兄より優れていると褒められて育ち、今は弟ゆえこんな境遇と嘆きます。そしてその怒りは正利にも向き、将軍をも牛耳る老職の稲葉正勝を兄に持つのなら、主君の願いを叶えられるよう働きかけるぐらいの才覚を持てと叱責します。「そなたのように非力の小姓をつけられたが、わしの悲運じゃ」
正勝邸におふくと稲葉正成、正利が集まります。正勝は今回の忠長の仕儀について、徳川のことを思ってと理解しつつ、秀忠や家光に逆心を持つと考える者がいるかもしれないと、家臣として諫めてお守りするようにと正利を諭します。しかし正利は、なぜ忠長ひとりを責めるのかと反発します。「殿のなさることを悪意とばかりご覧なされているとしか思えませぬ! 兄上にとてご助言は受けませぬ」
夜、屋敷の庭を歩きながら、美濃谷口村にいたころには今のような暮らしが待っているとは思わなかったと夫婦で笑い合います。息子たちも自分も大名に取り立てられ、みんなおふくのおかげと正成は見つめます。何の憂いもない正成ですが、ただ正利のことだけが心配です。「正利が悔いておらねばそれでいい。今宵はええ夜じゃった。正成生涯の思い出となろう」
いつか真岡にと交わした約束も、繁多のため叶えることが出来ないまま、半年後の9月17日、正成は下野真岡で病没します。58歳でした。正成の没後、下野真岡は正勝が継ぎ、32歳で4万石の大名となりました。不遇な時を何度も過ごした正成が自分の節(せつ)を通した生涯を、正勝は誇りに感じています。母お安の反対に遭いながらも正成の後妻になれた時の嬉しさをおふくは思い返し、涙を流します。
寛永6(1629)年2月、家光が疱瘡にかかってしまいます。急いで駆けつけたおふくに家光は、自分の今日あるのは亡き家康とふくのおかげだと、息も絶え絶えに礼を言います。「このふくの命、上さまに差し上げまする。必ず無事ご本復なさるよう、ふくがお守りいたします」 家光疱瘡を病むの知らせはたちまち江戸城内に広がり、秀忠は憔悴します。
酒井忠世は、家光に実子がいないとはいえ忠長がいると主張します。実際抜け目のない諸大名が駿府城の忠長にご機嫌伺いに続々と参じているようで、土井利勝は油断のならない動きと警鐘を鳴らします。秀忠は利勝の進言を受け、家光の病気平癒とともに諸大名の動きを見ることも怠らないよう命じます。
おふくによる家光の看護の日日が始まりました。四六時中家光に付き添い、のたうち回って身体を掻こうとする家光を押さえつけます。薬師が差し出した薬湯を飲ませようとするおふくですが、家光には飲む気力すらないようです。おふくは薬湯を口に含み、家光に口移しします。「私は……上さまの乳母じゃ……必ずようなってくださる。ようなっていただかねばならぬ!」
駿府城の忠長のところにも、江戸からの早飛脚で家光重体の報がもたらされます。対面が叶ううちに江戸へと正利の勧めで、下向の手配を命じる忠長ですが、そこに肥後の加藤忠広が江戸から熊本に帰る途中に立ち寄ります。「徳川には忠長どのがおられる。徳川は安泰でござる」と、忠長に将軍職に就くようけしかけます。忠長は動揺しつつ、巨万の味方を得た心持ちです。
家光の枕元で、手を握りながら看病し続けるおふくです。家光が発病して10日ほど、江戸城に忠長が到着し秀忠に目通りします。やつれた感じの秀忠は、将軍に万一のことがあれば忠長だけが頼りと、徳川の将来を覚悟してもらわねばと手を握ります。忠長は秀忠の意思を継いで徳川を支えられるよう力を尽くすと返答しますが、そこに家光が正気を取り戻したとの知らせが舞い込みます。
秀忠が家光の寝所に駆けつけます。秀忠はおふくのおかげと礼を言い、存分に休むように労わります。一礼するおふくですが、そのまま気を失ったかのように倒れます。薬師が薬湯を飲ませようとしますが、おふくはその手を払いのけます。「薬は……薬はいただきませぬ……上さまのご快癒を願うて、ふく、神仏に終生薬は飲まぬと……このまま果てましょうと、大願成就、本望にございます」
こうして家光の疱瘡は奇跡的に危機を脱します。この時のおふくの献身的な看護が、ますます秀忠と家光のおふくへの信頼を増すことになり、徳川で並ぶもののない権勢を持つ存在になっていきます。一方忠長には不幸な結末を招く原因となりました。同じおふくの子に産まれながら正勝と正利の明暗を分けることになっていきます。
寛永5(1628)年9月17日、稲葉正成が死去、享年58。
寛永6(1629)年10月10日、おふくが上洛して昇殿し「春日局」名号を賜るまで
あと1年──。
原作・脚本:橋田 壽賀子「春日局」
音楽:坂田 晃一
語り:奈良岡 朋子
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[出演]
大原 麗子 (おふく)
山下 真司 (稲葉正成)
江口 洋介 (徳川家光)
斉藤 隆治 (徳川忠長)
唐沢 寿明 (稲葉正勝)
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中条 きよし (土井利勝)
中村 雅俊 (徳川秀忠)
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制作:澁谷 康生
演出:三井 智一
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『春日局』
第40回「『春日局』賜わる」
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