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2024年11月 4日 (月)

プレイバック春日局・(41)次男の憂鬱(ゆううつ)

【アヴァン・タイトル】

白虎隊で知られる福島県会津若松。会津藩は明治維新の動乱の中で、最後まで官軍に抵抗し徳川幕府に忠誠を尽くしました。その会津の初代藩主が保科正之です。

正之は二代将軍秀忠と側室お静の間に生まれました。秀忠は正室お江与の方をはばかり、正之を信州高遠城主・保科家の養子にします。秀忠の死後、会津藩主に取り立てた兄・家光の恩に報いるため、正之は家臣全員に教育を義務付け、子どものうちから将軍家への忠誠心を身につけさせました。正之が作った家訓。その内容は将軍家に対する忠誠心に貫かれ、これが「会津魂」の源になりました。

忠長とは対照的に、兄・家光を敬い慕った正之は、家光亡き後も四代将軍家綱の後見として重きをなし、会津と将軍家は明治維新まで深い絆で結ばれることになるのです──。


寛永6(1629)年冬、徳川忠長が江戸城西の丸の修築の賦役を断ってきました。石高に応じて負担させるものですが、徳川の一大名ながら他大名と同列に扱われるのが納得いかない、というのが忠長の言い分です。忠長が賦役を出すのは徳川の大名として当然の話と、徳川秀忠は即刻賦役を出すよう土井利勝に命じて伝えさせます。

おふくと稲葉正勝に呼び出された側近の稲葉正利は、忠長の存念までは分からないとうつむきますが、何のための側近かとおふくにとがめられます。正勝も、修築の賦役を断るのは戦の時に軍役を拒否することと同じと、将軍家に盾突く所業とみなされても文句は言えないと危機感を募らせます。それでも正利は、忠長が徳川の男子としての誇りがあるとかばい、ただ忠長に従うのみと駿府に戻っていきます。

駿府城には忠長に将軍職就任をけしかけた肥後の加藤忠広が来ていました。まさか徳川家光が疱瘡を治し復帰するとは思わず、将軍家に逆らうのはやめたほうがいいと忠告します。豊臣恩顧の福島正則でさえ、城の修築を無断でしたというだけで謀反の疑いをかけられ改易させられたのです。おふくに牛耳られた今の幕府を変えたいと、忠長は家光に代わって将軍に立つことを諦めません。

 

寛永7(1630)年、秀忠が病に倒れます。秀忠は、先は長くはないと利勝だけにつぶやきます。家光も若く、幕府体制はまだまだ不安ですが、そんな中で唯一の心配は忠長です。忠長の不満に乗じて担ぎ出し、親交ある忠広らと謀反に至ってしまうのは阻止せねばなりません。謀反の兆しもないのに、と利勝はたしなめますが、秀忠は「それを見つけるが、そちの仕事であろう」と見据えます。

利勝が忠長の行状を調査しているらしいという噂を聞いた正勝は、忠長に行状を慎むよう正利に使いを出したいとおふくに相談します。しかし、西の丸修築の賦役も断ったまま時は過ぎ、やはり秀忠も忠長がかわいいのだとおふくは笑います。噂に惑わされては忠長と利勝の間をこじらせることにもなると、単なる正勝の取り越し苦労だとなだめます。

 

秀忠の病状は一進一退で、その見舞いと将軍職に忙殺されている家光は忠長のことなど気にする暇もなく、1年が過ぎます。寛永8(1631)年5月、気晴らしに鷹狩りを楽しんだ忠長が駿府城に戻ると、秀忠から甲府蟄居という驚きの申し渡しが出されていました。

甲府蟄居の報を聞き、おふくは愕然とします。家光も聞いていないことで顔色を失います。幕府への反逆の所業が多く、謀反の企みあり。寛永3年の上洛時に大井川に橋を架けたのも幕府を脅かす所業と、5年も前のことを今さらに持ち出す秀忠におふくは驚愕ですが、家光も秀忠の上意だとしか言いようがありません。正利がいながら忠長蟄居に至った不備を、おふくは家光に詫びます。

忠長といえども上意には逆らえずそのまま甲斐へ向かいますが、正利は江戸城に立ち寄り忠長の濡れ衣弁明をおふくより秀忠へとりなしを依頼します。おふくは、主君の仕儀は側近の至らなさを非難し、もう遅すぎると正利を厳しく突き放します。「伺うたのが間違うておりました。正利、二度と母上にはお目にはかかりませぬ!」

正利のことが気がかりでおふくは食事ものどを通らず、祖心尼はおふくを心配します。乳もやれず抱いてやることもできず、どこまでも親子縁(えにし)の薄い正利は、ただ忠長の家臣というだけで親子の絆さえも絶たなければならない。自分が正利の運命を変えてしまったと、おふくは自分自身を責め続けます。おふくは、誰よりも辛いのは血を分けた我が子に厳罰を処した秀忠だといたわしく思っています。

その秀忠は相変わらず病床にあり、忠長の甲斐入りを利勝から聞きます。これで忠長は勝手もできず、将軍家も安泰だと大きく息を吐きます。忠長より遅れて甲斐に入った正利は、何の役にも立てなかったと忠長に詫びます。初めから蟄居と決めて罪状を作り上げただけと、忠長は自分を“徳川にとって邪魔な男”だったと思うようになります。ただ、秀忠の病状は重いらしく、なんとか一目と希望を捨ててはいません。

 

秀忠は死期を悟っているようで、それだけに忠長始末を急いで幕府盤石の礎を築いた秀忠の意思は継ぎたいと、家光はおふくに打ち明けます。おふくは秀忠には心残りがあると、子どもの存在を明かします。あの父上にそのような女子がおったとは、と微笑む家光は、忠長のことで心を痛める秀忠にはいい慰めと、対面させるようおふくに勧めます。

信州高遠城主保科正光の嫡男・正之が家督を継ぐにあたり、挨拶に来ました。名前を聞いてギョッとする秀忠ですが、お静の子だと家光がこっそりつぶやきます。21歳になる正之に目を細める秀忠は、これからの徳川は正之のような若い者たちが支えていかなければならないと諭します。「若い将軍を助けて徳川の安泰に力を尽くしてくだされ」

秀忠はよもや正之に会えるとは思っていなかったようで、家光のいい補佐役になってくれようとつぶやきます。忠長は分をわきまえればよく、家老が力を合わせて家光を支えていけば問題ありません。朝廷には和子を入内させ興子内親王が帝になり、徳川家康から受け取った将軍のバトンを無事に家光に引き継がせましたが、ただひとつ家光に子がないことだけが心配で、早く世継ぎを儲けるよう勧めます。

寛永9(1632)年1月24日、秀忠はついに不帰の客となります。お江与と同じ54歳でした。忠長による再三にわたる懇願にもかかわらず、秀忠は対面を許さず、二度と会うことはありませんでした。そして秀忠の死により名実ともに徳川幕府の実権は三代将軍家光が握ることになりますが、29歳の家光には前途多難な道で、家光を守るおふくにも新たな重荷を背負っての道となります。


原作・脚本:橋田 壽賀子「春日局」
音楽:坂田 晃一
語り:奈良岡 朋子
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[出演]
大原 麗子 (おふく)
江口 洋介 (徳川家光)
斉藤 隆治 (徳川忠長)
唐沢 寿明 (稲葉正勝)
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中条 きよし (土井利勝)
中村 雅俊 (徳川秀忠)
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制作:澁谷 康生
演出:兼歳 正英

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『春日局』
第42回「身内を切る」

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