プレイバック春日局・(47)反逆の理由
【アヴァン・タイトル】
長崎県島原半島の南部・南有馬町。原城跡は寛永14(1637)年の島原の乱の主戦場です。37,000の農民たちが10万の幕府軍を相手に、ここで戦ったのです。この地方は寛永11(1634)年から続いた凶作で、農民の生活はどん底でした。しかも領主の年貢の取り立ては緩められず、たまりかねた農民は乱を起こしたのです。この乱の総大将が16歳の益田四郎時貞。世にいう天草四郎です。
島原も天草もかつてはキリシタン大名の領地で、人々の間にはキリスト教信仰が強く根付いていました。幕府の強まる信仰への弾圧は、この乱をいっそう激しいものとしました。女・子どもを巻き込んだ農民たちは、最後の砦・原城で決死の戦いに臨みました。島原の乱は農民とそれを支配する武士との間の戦いで、徳川幕府にとっては初めて経験する本格的な内乱だったのです──。
寛永14(1637)年 春。諸大名が奥へ寄進するのを差し止める法度が出され、おふくはそれについて徳川家光はじめ幕府老職の面々に弁明します。おふくは寄進した者に便宜を図ったこともなく、奥の体面もあって贅沢をしているわけではないのです。いちいち反論する松平信綱や堀田正盛を一喝し、寄進で得ていた分を給金で賄ってくれるなら喜んで法度に従おうと主張します。
土井利勝は、おふくとともに35年に渡り家光に仕えてきた者同士であり、おふくの主張が自分のことのように思えてなりません。寄進という昔からの慣習を、少しでも給金の足しになればと意図的に見過ごしてきたわけですが、確かに若い者たちの意見は正論であり、利勝や酒井忠勝が反対を唱えても、若い者には敵わないわけです。年老いた者たちは若者に追われる、そういうご時世だと利勝はため息をつきます。
家光はおふくの主張を認め、法度を出す代わりに奥女中たちには合力金をつけて給金を増やすよう命じます。信綱や正盛は大反対ですが、これには家光は四の五の言わせません。また、おふくのこれまでの功績を認め、相模国に5,000石を与え、江戸に屋敷も持たせることにします。忠勝は前例がないと反発しますが、「そなたの何倍も徳川のために尽くしてくれた」と言われれば、忠勝は口をつぐまざるを得ません。
しかしおふくは、家光の心遣いに感謝しつつ所領の件は固辞します。おふくは立身したくて家光に仕えてきたわけではなく、天下の和平を支える将軍を育てよとの権現徳川家康の志に従っただけなのです。今や家光は三代将軍として天下を掌握し、天下は徳川の力で和平が成り、おふくとしてはそれを見届けられただけで奉公してきた甲斐があったというものです。
家光の命で合力金を許され、それだけでもおふくにとってそれ以上の褒美はありませんが、それもおふくに受けた恩を忘れたかのような信綱たちに、家光は思い知らせてやりたい気持ちからきたものです。どうしても受けてほしいと家光に諭され、ついにおふくは折れ承諾します。屋敷はお勝屋敷の隣となり、そこで身体を休めたらいいと家光はおふくを労わります。
おふくが3,000石を賜ったという話は城内に瞬く間に広まり、鷹司孝子のところでも常盤が皮肉っぽく祝います。それをたしなめる孝子は、名ばかりの御台所ながらお世継ぎのことは心配していたと、お楽に期待しています。家光が城内に建てた御殿「中の丸」には、孝子が本丸から移り、生涯をそこで暮らすことになりました。
そしてその年の秋、江戸のおふくの屋敷が完成します。59歳のおふくは、生まれて初めて自分の家を持つことになります。おふくは隣に住むお勝を案内しますが、家光のおふくへの気持ちが込められた素晴らしい屋敷です。おふくはお楽を大奥へ上げる際に尽力してくれたお勝に感謝しています。そこに九州島原で農民一揆が起こったと利勝からの使者がおふくに知らせ、おふくは慌てて江戸城に戻ります。
一揆をおこしたのは豊臣恩顧の小西行長の元家臣たちで、主君を失って農民になった者たちでした。彼らが民を扇動し蜂起したものです。彼らはキリシタン信仰で強く結ばれ、23年前に天草から追放された宣教師が「25年後に16歳の神童が現れる」と予言したのを信じています。そして祀り上げられたのが天草四郎でした。家光は板倉重昌を幕府指揮官として島原へ派遣することにします。
一揆を招いた肥前島原藩主・松倉重政は参勤中で江戸にいました。重政の失政であることは分かり切っていますが、軍用金徴収、参勤費用捻出など松倉家には松倉家の内情の苦しさがあるとおふくに弁明し、その上で家光や幕閣に赦免への力添えを頼みます。おふくは農民を治められない領主にその資格はないと引導を渡します。
農民の娘のお楽には、一揆を起こした農民たちの気持ちを理解できます。年貢が足りねば食い扶持まで取り上げられ、食料が不足すると米を買い戻さなければならず、それが借財となって翌年の年貢に加わるという雪だるま式なのです。家光は農民たちの実情を知り驚きますが、一揆を起こしたキリシタンを見直したというお楽に、幕府としてキリシタン禁制の立場をとっている家光は激怒し大奥を出ていきます。
家光が中奥に戻ってきたことで、今夜は大奥で過ごすと言っていたのにとおふくは慌ててお楽の元に駆けつけます。思ったままに述べたと悪びれる様子もないお楽に、その歯に衣着せぬ物言いがお楽の良いところとニッコリします。ただ、家光は一揆勃発で気が立っていて、しばらく奥へのお渡りがなくなるかもしれず、お世継ぎ誕生の望みは遠のいたとおふくはガッカリします。
重昌を派遣してすでに20日、家光の焦りは頂点に達します。重昌は1万石の大名に過ぎず、大軍を動かすには力が足りないようです。忠勝は、軍勢を動かすにはおふくが適任と言い出し、利勝や信綱が慌ててたしなめます。家光は幕府老職にある信綱を総大将として派遣することにします。幕府の面目にかけて、キリシタンへの見せしめのためにも必要だと言われ、信綱は二つ返事でこれを受け入れます。
出陣に際しておふくに挨拶する信綱は、相手はたかが農民であり恐れるに足らずと豪語します。おふくは、日本中の農民が立ち上がれば、幕府を脅かす存在になると警鐘を鳴らします。「はい。ひとひねりに潰して参りまする」とまるで意に介さない信綱に、戦を知らずに成人したからそのような怖いことが言えるのだとおふくは見据えます。
寛永15(1638)年正月4日に信綱は島原に到着します。己の非力を恥じ、信綱の到着直前に原城にわずかな手勢で攻撃した重昌は、すでに戦死していました。「知恵伊豆」とうたわれた信綱は12万の軍勢で原城に攻撃をかけますが、それでも原城は容易には落ちません。オランダ船に頼んで原城に砲撃させても城はびくともせず、外国の力を借りるとは何事かと非難を浴びています。
信綱が島原に着陣して3か月、家光のお渡りもなくやることのないお楽は、おふくの身の回りの世話をしています。原城に籠城するキリシタンを過度に心配するお楽は、姉が平戸の商館に勤めるオランダ人に幕府の許可を得て嫁いでいるのです。キリシタン禁制をよく知るとはいえ、おふくはお楽に奥で姉やキリシタンのことを話すのは控えるよう忠告します。そこに原城が落ちたとの知らせが舞い込みます。
2月28日、原城内の食料や弾薬が尽きたと見て信綱は総攻撃をかけ、一揆はようやく壊滅します。幕府側の戦死者1,151人、負傷者6,743人の犠牲を出す激戦であり、戦場を歩いて見て回る信綱の表情は、勝利に満ちた笑顔はありませんでした。その脳裏には、決死の覚悟で戦いを挑んでくるキリシタン農民たちの姿が鮮明に残っているのです。
キリシタンは恐ろしい──家光はつくづく感じます。単なる農民一揆も、キリシタンがいなければこれほど手こずることはありませんでした。キリシタン禁制の法度だけでは手ぬるいと、家光はキリシタンへ容赦はしないと大きな政策の変換を決断します。島原の乱は家光にとっても幕府にとっても、衝撃であり大きな挫折でもあったのです。
原作・脚本:橋田 壽賀子「春日局」
音楽:坂田 晃一
語り:奈良岡 朋子
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[出演]
大原 麗子 (おふく)
江口 洋介 (徳川家光)
若村 麻由美 (お楽)
東 てる美 (お勝)
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中田 喜子 (鷹司孝子)
中条 きよし (土井利勝)
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制作:澁谷 康生
演出:兼歳 正英
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『春日局』
第48回「直訴」
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