プレイバック八代将軍吉宗・[新] (01)母の肖像
たくさんの町人が鑑賞する芝居小屋で上演されるのは、人形浄瑠璃『冥途の飛脚』。観客に交じって作品を鑑賞していた、作者・近松門左衛門がドラマの案内役を務めます。
それがし、大坂に住まいいたし、浄瑠璃本の作者としていささか世に知られておりまするが、昨今は心中物を多く手掛けたせいか、幕府のお役人衆に睨まれ、難儀をいたしておりまする。ご安心くだされ。これしきの難儀にへこたれる近松ではござらぬ。天下定まり太平の御代とは申せ、人の心に棲みつく煩悩は如何ともしがたし、これは幕府も下々もご同様。さればでござる。今度は将軍家にまつわる内々の話を筆の走るがままに書き連ね、頭の固いお役人衆に一泡吹かせようと、かように存じておりまする。おっと、これは口が滑りましたかな?
今から279年前の正徳6(1716)年4月、江戸城内の松の廊下をゆっくりと歩いてくる紀州藩主・徳川吉宗。ご覧あれ。あの色黒で大柄なお方が、紀州藩のご当主・徳川吉宗公。7代将軍ご危篤の知らせに、慌ただしくご登城なさったところでござるよ。七代将軍・徳川家継はまだ幼く、高熱を発して息が荒く意識がありません。生母の月光院がうろたえながらも懸命に看病しています。
水戸藩主・徳川綱條(つなえだ)は“天下の副将軍”として、吉宗に将軍家継の後見をお願いしたいと見据えます。しかし吉宗は御三家筆頭は徳川継友であると固辞します。継友は、吉宗は曽孫(家康から数えて4代目)であり、自分は玄孫(やしゃご=5代目)であると言うし、綱條は副将軍だからその任にあらずと断ります。6代将軍徳川家宣の正室・天英院の意向であると説明しても、首を縦に振りません。
側用人・間部詮房の求めに応じて吉宗は天英院と対面します。天英院は、家宣の遺言であるとして辞退は許さないと態度で示しますが、吉宗は手をついて微動だにせず、言葉を発しません。無言の時間がただただ過ぎていき、しびれを切らした天英院は立ち上がり、凛とした声で返事を迫ります。「吉宗どの!」
対面を終え大きくため息をつく吉宗に、天下万民のためとか先代の遺言だからと、綱條や継友、詮房や老中・土屋政直と結託して吉宗の腕や肩をつかみ、上座へ無理やり連れていきます。吉宗は藩邸に戻って老臣たちと相談すると言って下段しようとしても、彼らは下りないように押しとどめます。歌舞伎も浄瑠璃もお嫌いな吉宗公がここでは大芝居を打ってござる。近松の見るところ、将軍の座を棒に振る気は毛頭ござらぬ。しからば何ゆえ吉宗公はかかる駆け引きをなされたのか? その謎解きは、追々に──。
作:ジェームス 三木
音楽:池辺 晋一郎
テーマ音楽演奏:NHK交響楽団
テーマ音楽指揮:高関 健
演奏:東京コンサーツ
語り・近松門左衛門:江守 徹
時代考証:大石 慎三郎
:安藤 精一
:林 董一
:三尾 功
建築考証:平井 聖
風俗考証:原島 陽一
衣裳考証:小泉 清子
能楽指導:喜多 六平太
所作指導:猿若 清三郎
殺陣・武術指導:林 邦史朗
タイトル題字:仲代 達矢
タイトル映像:島 正博
撮影協力:和歌山県
:和歌山市
資料提供:国立歴史民俗博物館
:名古屋市博物館
西田 敏行 (徳川吉宗)
青柳 翔 (源六(吉宗の少年時代))
尾上 松也 (源六(吉宗の少年時代))
大滝 秀治 (徳川光貞)
小林 稔侍 (加納久通)
山田 邦子 (お紋)
辰巳 琢郎 (徳川綱教)
山本 圭 (徳川綱條)
中山 仁 (徳川綱誠)
牟田 悌三 (加納政直)
羽賀 研二 (徳川継友)
福田 豊土 (豊島半之丞)
磯部 勉 (隆光僧正)
床嶋 佳子 (大典侍)
かとう れいこ (千草)
小田 茜 (育姫)
中本 賢 (巨勢由利)
可知 靖之 (牧野成貞)
森田 順平 (小笠原胤次)
早川 純一 (加納政伝)
早坂 直家 (内藤忠元)
篠倉 伸子 (お勢)
砂田 薫 (お藤)
高柳 葉子 (筒井)
山口 みよ子 (タネ)
名取 裕子 (月光院)
丘 みつ子 (お常)
松原 智恵子 (鷹司信子)
夏木 マリ (お伝の方)
三林 京子 (志保)
中田 喜子 (右衛門佐)
草笛 光子 (天英院)
中村 梅枝 (徳川家継)
飛田 恵里 (新典侍)
木村 直雄樹 (長七)
荒木 計志郎 (長七)
遠野 凪子 (近松家の小女)
高橋 豊 (村役人)
三川 雄三 (農民)
赤崎 ひかる (農民)
登根 嘉昭 (農民)
朝比奈 敏文 (琴奏者)
朝武 親百美 (琴奏者)
西川 秀紀 (宮司)
幸田 奈穂子 (上臈桂木)
有村 圭助 (うなぎ屋)
平田 美穂 (その女房)
池田 武志 (役人)
新 実 (役人)
竹田 寿信 (役人)
吉田 蓑太郎 (人形遣い)
吉田 玉女 (人形遣い)
竹本 織太夫 (浄瑠璃)
鶴澤 清治 (三味線)
藤田 大五郎 (笛)
鵜沢 寿 (小鼓)
金春 惣右衛門 (太鼓)
柿原 崇志 (大鼓)
栗谷 菊生 (地頭)
和歌山のみなさん
若駒プロ
劇団ひまわり
東京児童劇団
セントラル子供タレント
鳳プロ
藤間 紫 (桂昌院)
藤村 志保 (照子)
名古屋 章 (土屋政直)
竜 雷太 (三浦為隆)
根上 淳 (徳川光友)
長門 裕之 (徳川光圀)
石坂 浩二 (間部詮房)
津川 雅彦 (徳川綱吉)
制作統括:高沢 裕之
美術:小林 喬
技術:渡辺 秀男
音響効果:山本 浩
記録・編集:徳島 小夜子
撮影:佐藤 彰
照明:佐野 鉄男
音声:坂本 好和
映像技術:小山 雅典
美術進行:金田 有司
演出:大原 誠
さて、物語の始まりは遡って貞享2(1685)年2月、紀州江戸藩邸にて世にも華やかな婚礼の儀がござった。眉根凛々しき婿どのは当年21歳、第二代紀州藩主徳川光貞公がご嫡男・綱教どの。片や初々しき花嫁は時の将軍五代綱吉公のご息女・鶴姫さまにて、この時わずか9歳。
婚儀めでたく相整い、光貞公と綱教どのはその翌日、将軍さまへお礼言上のため江戸城本丸にご登城なされた。江戸城白書院で、寒い寒いと手をもみながら待つ光貞は、後から入ってきた綱吉に頭を下げます。「お鶴は機嫌はよかったか? お鶴はわしの宝じゃ、くれぐれも大事にな」と、一人娘を嫁に出した親として、綱吉は婚儀を喜んでいる様子です。
遅れて入ってきたのは尾張光友と水戸光圀です。お歴々の顔ばせは、尾張光友公、紀伊の光貞公、水戸光圀公。これすなわち徳川御三家のご当主にてお互いいとこ同士。神君家康公からみればいずれもお孫さんにござります。ついでながら徳川光圀を演じる長門裕之さんと、徳川綱吉を演じる津川雅彦さんはご兄弟ですね。ここまでの大御所、兄弟共演はどんなお気持ちなのでしょう?(笑)
子宝に恵まれる御三家の3人に比べ、綱吉には2年前に徳松を亡くしてから男子がなく、うらやましいと涙顔です。年齢も40歳ほどだし、子作りには種と畑のかみ合わせが肝要と励まします。大笑いする御三家にトホホ顔の綱吉は、思い出したように綱教に告げます。「三の丸に顔を出してくれぬか。桂昌院さまが待ちわびておいでじゃ」
江戸城三の丸は、親孝行の綱吉公がご生母桂昌院さまのために建てた豪勢な御殿でござる。三代将軍家光公の側室であらせられた桂昌院さま、この時62歳。桂昌院にとって鶴姫はたった一人の孫娘であり、嫁がせるのには京の都は遠すぎると綱教に嫁がせたわけです。桂昌院はせめて10日に1度、鶴姫を里帰りさせて顔を見せてほしいと綱教に頼みます。
桂昌院は「巳年生まれならへびを殺してはなりませぬぞ」と言い出します。へびを殺せばその祟りで嫡男を授からないというのです。戌年生まれの綱吉は犬を殺すなという話になるのですが、それもこれも隆光僧正の説によるものです。祟りを除き嫡男をあげるためには生類を憐れめと言う隆光を綱吉は取り合いませんが、桂昌院はたっての願いと綱吉の手を握ります。
この日午後、江戸城大広間に御三家以下諸大名が総登城。鶴姫さまのご婚儀を賀し奉ったのでござる。大広間に現れた綱吉に、大勢の家臣たちが一斉に「おめでとうございまする」と頭を下げます。それを綱吉は「大義じゃ」と受け、大広間から出ていきます。続いて向かいの能舞台では能楽『絵馬』が披露され、綱吉らは堪能します。
まずはご覧あれ。東照宮大権現家康公は秀忠公を二代将軍とし、その弟の義直公、頼宣公、頼房公にそれぞれ尾張、紀伊、水戸をお与えなされた。これすなわち御三家の発祥にござる。もし将軍家滅亡の折は尾張あるいは紀伊より将軍を立て、水戸はこれを補佐すべしと、これが家康公の御遺言でござった。
さて、徳川ご本家の血筋は初代家康公、二代秀忠公、三代家光公、四代家綱公とつつがなく継承され申したが、あいにく家綱公にはお世継ぎがなく、弟ぎみ綱重公はすでに世を去り、そのまた弟ぎみの綱吉公がめでたく五代将軍の座に就かれ申した。ところがでござる。なぜかこの綱吉公もお世継ぎに恵まれませず。やっと生まれた徳松ぎみは5歳でご逝去、こうなると将軍も辛うございまするな。桂昌院さまに尻を叩かれ、若君づくりに悪戦苦闘いたしますが、一向に音沙汰なし。すべてこれ、空砲。
そこに大きな犬がのっしのっしと入り込みます。おおお、こんなところに来て……誰か、誰か、おい誰かおらぬか! 誰かおら……もうよいわ、アハハ。かくして綱吉公はお世継ぎを得るべく隆光僧正にそそのかされて、生類憐れみの令を発布なされた。ご覧くだされおのおの方、このお犬さまを蹴飛ばしたりいたそうものならそれがしは牢屋入り。犬を殺して死罪、猫をいじめて島流し、ほっぺたの顔をパチンとたたいて所払い。これ天下の悪法にあらずして何ぞや!?
鶴姫さまのお輿入れから3年、紀州の殿さま光貞公は貞享5(1688)年の春を和歌山城にてお迎えなされた。光貞は重臣たちを集め、育姫(のりひめ)の婚礼の日取りを来年2月11日と披露します。栄姫は米沢15万石に嫁ぎ、今回の育姫は秋田22万石です。三男四女の光貞にとって、2人の子に先立たれ、3人の娘は嫁に行き、紀州に残るのは長七だけとなります。
オホン! と三浦為隆は咳払いをし、加納政直も「恐れながら」と手をつきます。半ば促される形で、光貞は長七に5歳になる弟がいると告げます。名は源六、仔細あって政直に預けて養育させてきました。側室の志保は不機嫌そうにそっぽを向きますが、育姫の一言が光貞の窮地を救います。「会わせてくださいませ! 弟がもう一人いれば嬉しゅうございます。江戸に向かう前にぜひ」
「源六の目見得許す! 明朝巳の刻(午前10時)に連れて参れ!」という光貞の命を受け、和歌山城から駆け戻った政直は、次男の久通にかつがれて部屋に入ります。政直は久通に源六を連れてくるよう命じ、侍女が持ってきた水を一気に飲み干します。加納家は譜代の重臣にて知行2,000石でござった。
城内の庭を探し回る久通は、大きな木の根元に草履があるのを発見します。あー? と上を見上げると、今まさに気にしがみついて昇っていくところでした。木の幹に見つけた鳥の巣を目がけて登っているのです。久通は何とかして木から降ろそうと、源六の足に太刀でつつきますが、その拍子に源六は木から落下します。それを木の下でしっかりと受け止める久通です。
源六を抱えニコニコ顔で戻った久通でしたが、先ほどまでの場が神妙な空気に占領されていることに戸惑います。とりあえず言われるままに源六を上座に座らせると、政直は源六に告げます。「本日お城にて殿より格別のお沙汰を承った。すなわち明朝巳の刻、源六にお目見えを賜る。その後は殿のお子としてお引き取りあそばし、城中奥向きにて親しくご養育あそばされる」
殿の子!? と驚愕する久通に、兄の加納政伝はそうだと頷きます。父として源六を育ててきた政直は実の父ではなく、本当の父親は光貞だったのです。もちろん母として育ててきた政直の側室お常も実の母ではありません。分かるか? と政伝は諭すように尋ねますが、いやじゃいやじゃ! と源六は飛び出して行きます。
夜、光貞の腰を揉む志保は、源六生母のお紋の扱いを尋ねます。大名の子を産んだ女子は生母として遇するしきたりですが、百姓の娘と同列に扱われるのは耐え難い恥辱と怒る志保です。しかし桂昌院は八百屋の娘、鶴姫生母のお伝も父親は足軽ながら、京出身の御台所信子は仲良くしています。「志保は承服できませぬッ」と光貞の腰をつねって抗議します。
翌朝、和歌山城に登城した源六と対面する光貞はいたくご機嫌です。しかし源六は光貞が近づけは逃げ出そうとし、今日からお前は和歌山城で過ごすと言われてひどくがっかりしています。志保や育姫、長七とも対面する源六ですが、目をらんらんと輝かせる育姫に比べ、長七は軽蔑のまなざし、そして志保は顔をゆがませて明らかに拒否する様子がうかがえます。
光貞公四男源六ぎみはかくして和歌山城内に引き取られ申した。さよう、お察しの通りこの源六ぎみこそ後の八代将軍吉宗公でござる。源六の居室に赴いた育姫は、使い古しの遊び道具を源六に与えます。源六は障子の竿が164あると育姫に披露し、数に興味があるのねと育姫に褒められます。「さては障子に穴をあけて数えたのですね?」
城内にある紅葉渓(もみじたに)庭園に呼ばれた源六は、墨絵を描く光貞に付き合わされます。算術が得意と聞いた光貞は、読み書きが苦手な源六に学問は大事と諭します。家臣は3,000人、民は50万にも及び、知行を与え領民の暮らしを守るのが領主であり、その領主の子である源六は家臣領民の手本として、いたずらや乱暴は慎まなければならないと諭します。
光貞が席を外した間に、源六に描いた墨絵にいたずら書きされて立腹する光貞ですが、その源六に長七が池に突き落とされたと傅役(もりやく)の内藤忠元が報告します。駆けつけた光貞は源六を叱責しますが、育姫は源六を捨て子と言った長七が悪いと源六をかばいます。「あほ! 源六はわしの子じゃ。まぎれもなく徳川光貞の四男じゃ、捨て子ではない!」
長七はもう少しで大けがをするところだったと訴える志保ですが、5歳の弟に突き落とされた長七も褒められたものではないと光貞に反論されます。源六を別の屋敷にやるよう願い出ますが、あっけなく断られます。兄弟仲良くさせるのが志保の務めなのです。そこに源六がいなくなったと近習の小笠原胤次が報告に上がり、光貞は家臣総出で捜索するよう命じます。
屋敷内を侍女たちが、そして庭から池の中まで松明を持った家臣たちが探しますが、源六は見つかりません。そのころ源六は、なんと和歌山城の石垣をゆっくりと降りて城下町を走り抜け、加納屋敷に戻っていました。当然門には閂(かんぬき)がかかっていて開きません。しかし遊び慣れた加納屋敷です。源六は難なく屋敷内に入り、雨戸を叩いて母を呼びます。
事態を知った政直は久通に、和歌山城に使いを出すよう命じ、大きくため息をつきます。報告を受けた光貞は、どこから城を抜け出したと驚愕します。宿直に詮議しているという胤次ですが、源六のことで咎人を出してはならぬと不問に付すよう図らいます。「あれは天狗の申し子じゃ、まあそういうことにしておけ。さては里心ついたか……明日は袴着の祝いじゃと申すに」
翌朝になっても和歌山城に行こうとしない源六を、政直が説得していました。長七が志保と一緒なら、自分も母と一緒に行きたいと言い出す源六に、政直はお常は乳母だと明かします。お許しをとお常が涙を流して手をつくと、源六は耳を塞いで泣きわめきますが、そんな2人を見て、政直も涙を流します。
この日、和歌山城内にて源六ぎみの御袴着がござった。御袴着とは、男子5歳の成長を祝う儀式でござる。ニコニコ顔の光貞に比べ、睨みつける長七です。この祝いに際して、政直に銀100枚を与え、追って加増すると伝えます。そして次男の久通には政直のたっての願いで源六の傅役を命じます。兄として育ってきた久通が傅役だと、ニッコリする源六です。
それから間もなく光貞公は育姫さまをお連れになって江戸に向かわれた。1年おきの参勤交代でござる。参勤交代とは、徳川幕府が大名統制のため1年おきに諸大名を江戸に参勤させた制度でござる。その行き帰りの行列が大名行列、紀州藩の大名行列はそれはそれは豪勢でござった。毛槍を先頭にお供の数はなんと1,000人にも及び申した。和歌山から江戸まで13日と想像を絶する出費でござりますな。
育姫の駕籠にぴったり付いていく源六と久通です。育姫は誰にも言ってはならないと断ったうえで、源六の母は生きていると告げます。父光貞は優しい方なので、おとなしくしていればきっと会わせてくれると源六を見据えます。江戸までついていくつもりか? と笑われる源六は懐から貝を育姫に手渡します。「お達者で……姉上!」 憐れなるかな少年源六どの、これが姉ぎみとの最後の別れにござった。
江戸の紀州藩邸は麹町に上屋敷、赤坂に中屋敷、渋谷に下屋敷がござった。なかんずく御座所のある上屋敷は大庭園を含めて25,000坪と申しますから、いやはや途方もない広さでござる。このお方は光貞公の御簾中(ごれんじゅう)にて、伏見宮貞清親王のご息女照子さま。僭越(せんえつ)ながら御簾中とは御三家御正室の尊称、なお僭越ながら申し上げますれば、御三家はもとより大名家の御正室はつねに江戸住まいを義務づけられておりまする。まあ体の良い人質でござりまするな。
久々の対面となる光貞に照子は喜々としています。そこに同じく江戸住まいの綱教も駆けつけます。光貞は照子の顔をまじまじと見て、年を取ったのうとほほ笑みますが、「お互いさまでございます」と言われて光貞は肩をすくめ、照子のます。照子さまは子をお産みにならず、綱教どののご生母は側室山田の方でござった。
鶴姫も機嫌よく過ごしているようで、光貞は将軍の娘はどこに行っても将軍に娘と、粗略に扱わないように忠告します。嫡男を挙げるまでは決して他の女に手を出してはならぬと諭す光貞は、「器量のよい女子は目に毒じゃ、そういう女子はわしに回せ」とニンマリし、照子にたしなめられます。
照子は育姫の話から、紀州で弟が誕生したと聞いていますが、里子に出した源六を引き取ったと説明します。5歳だというのに恐ろしく丈夫で気が強く、見所があると褒めます。綱教、長七、源六と、紀州の御三家だと笑う光貞は、控える侍女の顔を覗き込んで名前を尋ねます。「殿!」と強く注意する照子です。
生類憐れみの令はおびただしい罪人を生み、江戸中を震え上がらせ申した。鳥類魚類の殺生ご法度により、うなぎ屋もどじょう屋もすべてお手上げ。まさに狂気の沙汰でござった。どじょう屋の店主が捕縛され連行されるところ、お犬さまが通ると人々は地面に這いつくばって平伏します。
ところが世の中はまことに皮肉、何年経っても将軍綱吉公に男子出生の兆しはござらぬ。焦った桂昌院さまは神田橋門外に壮麗なる知足院を建立し、かの隆光どのを住職になされた。知足院は後の護持院のことです。隆光は汗だくになって祈祷を続けます。事態をご憂慮なされたのは将軍の御台所鷹司信子さまでござる。信子さまは御正室でありながら、桂昌院さまと鶴姫さまご生母お伝の方の勢いに押され、大奥では影が薄うござった。
こなたは将軍の側室で大奥取り締まりの重責を担う右衛門佐どの。公家・水無瀬中納言のご息女にて、霊元天皇の中宮鷹司房子さまにお仕えでござったが、房子さまの命により江戸に下向し、御台所さまのお付きとなられ申した。ちなみに中宮房子さまは御台所信子さまの姉ぎみにあらせられまする。ちとややこしゅうござるかな? まあ平たく申せばこの右衛門佐どの、御台所さまの姉ぎみのつてで京より大奥に入り、将軍綱吉公のお手付きとなられたというわけですな。
右衛門佐が待つ江戸城大奥の対面所に信子が入ります。信子はさっそく生類憐れみの令について、天下の悪法を根絶やしにせねばと提起します。ただその手立てはただ1つ、綱吉に男子が生まれることなのですが、だからこそ信子は右衛門佐を綱吉に献上したのだとため息をつきます。右衛門佐は清閑寺大納言の息女・大典侍が当代随一の器量と信子に推薦します。
ただ大典侍が大奥に入るにあたり大納言は、御台所の許しがあること、大奥に召されるのは不本意だから別の御殿をいただきたいと条件を出してきました。別の御殿をとなると、お伝の方が黙っていないだろうと信子は表情を曇らせますが、何の遠慮がいるのかと右衛門佐は強気です。お伝の方が専横を極める今こそ、都から新しい風を入れて卑しい者の心さえも清めなければと信子を見据えます。
「元禄」と改元されたその年(1688年)の秋、清閑寺中納言煕房卿のご息女・大典侍どのは、都から江戸に向かわれた。ありていに申せば、すなわち将軍の子を産むためでござる。
公家の出でも町方の出でも、子を産む女子はよい女子と桂昌院はご機嫌です。綱吉は急かされれば急かされるほど気持ちが萎えると後ろ向きですが、「小姓と戯れても子はできまいぞ」と桂昌院は忠告します。綱吉はこっそり、生類憐れみの令について領民の難儀は別にあると撤回を相談しますが、将軍のためは天下のためだと全く聞き入れません。綱吉は情けなく、徳松さえ生きていればと涙を流します。
江戸城大奥の御座の間に入った大典侍は綱吉と対面します。大典侍のために建てた新御殿も、その配慮に胸を熱くしたと深々と頭を下げる大典侍が、綱吉にニッコリ微笑むと、疑いの目で見ていた綱吉は完全に大典侍の虜です。さっそくその夜、大典侍を召し出して一夜を共にします。
こうなると収まらないのが鶴姫さまご生母・お伝の方。恨み言のひとつも言いとうなりまする。能の稽古中の綱吉を呼びつけたお伝の方は、桂昌院と信子に毎朝挨拶をするのに、自分には挨拶がないとひがみ、側室同士は同格とあっさり言いくるめられてしまいます。大典侍や右衛門佐など京風の呼び名が聞き苦しいと文句を言っても、綱吉自身が気に入っているので何ともなりません。
お世継ぎ問題は、大奥にも三の丸にもさまざまな波紋を広げ申したが、いかに将軍といえども天からの授かり物だけは意のままになり申さず。大典侍どのご懐妊の朗報は一向に聞こえませぬ。いやなに、畑が良うても、種が問題。
時は流れてこちらは紀州和歌山。御参勤の光貞公に代わってご嫡男・綱教どのがお国入りしてござった。御座船に乗って紀の川でのんびり釣りに興じる綱教と源六です。自分は捨て子だとどこか引っかかっている源六ですが、吹上御殿の誕生屋敷で生まれたと証言して見せる綱教です。一旦捨てたのもおまじないで、政直が即座に拾い上げたおかげで丈夫に育ったのです。
「私の母はどこに?」と源六は綱教に尋ねます。姉の育姫に聞いたと知り、綱教の表情が曇ります。それは──まだ言えぬ。源六はひどくがっかりします。その様子を後ろから久通が見て、源六に同情します。「大きくなるまで待て」と諭される源六に影響されてか、船内はとても暗い雰囲気に陥りますが、綱教が下げていた釣り糸が反応し、綱教は 鯨じゃあ! と釣り糸を手繰り寄せていきます。
その後、綱教・長七・源六の三兄弟は、和歌浦東照宮に参詣します。曾祖父家康は、大名の子は学問を尊び質素を旨とし、兄弟仲良くせねばならぬと言っていたと綱教は弟たちに諭します。たとえ母親が違っても、家康の、そして父光貞の血を等しく受けているのです。怒った時は心の中で10数えよ、それから怒っても遅くはないぞ──。
明けて元禄2(1689)年正月、綱教どのは慌ただしく江戸へお発ちになられた。妹ぎみ育姫さまのご婚儀に参列のためでござる。そして3月、今度は光貞公が紀州へお戻りでござった。育姫婚礼も、生類憐れみの令のおかげで窮屈になったと光貞は嘆きます。紀州も生類憐れみの令を知らぬふりはできなくなると危惧するのです。
長七は源六がもぐらを3匹殺したと告げ口しますが、怒った時に心の中で10数える源六を褒め、些細なことで告げ口するなと長七は逆に叱られます。志保は名前も源六、元号も元禄で紛らわしいと訴えますが、光貞は自分に先見の明があったのだと胸を張ります。「名前を変えるべきはむしろ長七の方である。そろそろ元服じゃ。元服!」
そうかと思えば、千草が懐妊したと志保が怒り肩で入ってきました。千草の顔を見て思い出した光貞は照れ、生類憐れみの祈願が自分に効いてしまったと大笑いします。志保は怒りのあまり目をそらし、千草はつわりなのか口を手で押さえています。元禄3(1690)年夏のこと、なんと光貞公は65歳でござった。
一方、45歳の綱吉公は依然としてお世継ぎに恵まれず、かくてはならじと右衛門佐どの、御台所さまに言上してまた新しい姫ぎみを将軍にご献上なされた。新典侍と呼ばれるこのお方は、日野権大納言のご息女でござる。やんごとない姫ぎみがこうまで揃いますと、さながら大奥はお公家様の御殿。大勢の女官もお供しておりますれば、都めいた衣装や御所言葉が幅を利かせ、源氏物語の講義や琴の演奏なども始まって、今や宮中文化の花盛り。
明けて元禄4(1691)年春、和歌山城にて光貞公の第五女・綱姫さまがめでたくご誕生あそばした。源六は、育姫にもらった人形の使い古しを持って、千草と綱姫のところに向かいますが、母親を知らない源六は千草に声をかけることが出来ません。源六の脳裏に千草の子守歌がこだましています。母への思いを抱えたまま源六は和歌山城の石垣の上に立ち、人形をお堀に投げ捨てます。
光貞の子を産んだ千草が奥に部屋を与えられたのに、なぜ源六の生母には部屋をいただけないのか──。源六の気性が荒く、無作法や狼藉があるのは生母への思いがくすぶっているからだと政直は養父として訴えます。光貞が追いだしたのではなく、自ら暇を取った生母お紋を呼び戻したとしても、すぐには帰ってくるまいと光貞は冷静です。「源六に恥をかかせたくないのだ」
政直は、それならば源六自ら出向いて、母子対面の儀を求めます。差し出がましいぞ! と光貞は声を荒げますが、それでも政直は主張を続けます。源六とお紋がいざ対面すれば話も弾み、うれし涙もこぼれるかもしれません。成長した源六を見れば、お紋も安心して和歌山城に出仕するかもしれないと望みをかけます。
元禄4年9月、光貞公のお許しを賜った源六ぎみは、喜び勇んで和歌山城をご出立なされた。馬上の豊島半之丞を先頭に少人数。真ん中の駕籠を挟む形で胤次と久通が、そして駕籠には源六が乗っていますが、途中から駕籠を降り、徒歩で里に向かいます。源六の誇らしそうな顔です。
途中、橋本の御用屋敷にご一泊。ご生母のおわす高市郡巨勢(こせ)の郷は、これより北へ10里あまりでござった。和歌山の地図を眺めていたところ、外で百姓たちが年貢の件で騒いでいます。外に締め出しますが、直訴は法度であり、訴えを起こした百姓たちは牢屋入りです。源六は地面に落ちた訴状を拾い上げます。「なりませぬ。取り次ぎますれば百姓どもは死罪になりまする」
高市郡巨勢の郷 (現・奈良県御所市古瀬)に入る時には、源六は半之丞とともに馬上の人となり、顔も喜びに満ちあふれています。お紋が暮らす家が近づくにつれて、嬉しさがこみ上げる源六は、横に並んで歩く久通の手をつなぎますが、しっかりと握り返した久通はパッと手を離し、源六の顔はまたうつむきます。
庭で作業をしていた3人が、源六一行を見て平伏しています。源六は真ん中で平伏する女の前に立ち、後ろに控える久通をチラリと見ます。大きく頷く久通の顔を見て、源六は一歩前へ進み出ます。「母上か? 源六にございますッ」 お紋がゆっくりと顔を上げ、母と子の再会です。3人の近くでのんびり歩きまわる鶏を、お紋の弟が追い払います。無言の時間が過ぎていきます。
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』
第2回「お犬さま」
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