プレイバック八代将軍吉宗・(02)お犬さま
さればでござる。
この世に数多の書籍ありと言えど、この信ずべき良書は甚だ少のうござる。まして人物評伝ともなると、このお家の事情これあり、真実を捻(ね)じ曲げ改ざんに及び、美談を捏造してへつらうこと常あり。また後世に売文の徒あり、曲学阿世の徒あり、時に面白おかしく邪説を振りかざして世の人々を惑わせるは、極めて嘆かわしきことなり。
例えば、八代将軍吉宗公のご生母を、行き倒れの巡礼の娘ともいい、あるいは彦根浪人の娘と申す者あり。その根拠甚だ薄く、必ずしも信ずるに足りず。それがし近松門左衛門の思うに、ご生母・お紋の方は高市郡巨勢の郷の産まれにて、父は六左衛門利清、弟は十左衛門由利なる郷士なり。その根拠は、ゆるゆるとお目にかけなん──。
元禄4(1691)年9月、ご生母・お紋の方をお迎えなされるため、源六ぎみは喜び勇んで和歌山城をご出立なされた。源六ぎみすでに8歳。父・徳川光貞の「源六はわしの子じゃ!」という声、育姫の「源六の母は生きておられるそうじゃ」というささやきが、馬上の源六の頭にこだましています。
ご生母・お紋のご実家は、高市郡巨勢の郷(現・奈良県御所市古瀬)にござった。同行の豊島半之丞が、和歌山城内にお紋の部屋を賜ったと伝えますが、しがない百姓の娘で身分が違いすぎて勘弁してほしいと頭を下げます。小笠原胤次や加納久通は、お紋の方に言葉や進物をと勧めますが、無表情の源六は立ち上がります。「帰る。母は無用じゃ」
城に戻る前、源六は加納屋敷に寄ります。乳母のお常は初めこそ源六を慰め励ましますが、源六が口悪くお紋を“あの女”と蔑む様子を見て、叱りつけます。「そなたは弱虫じゃ。途方もない我がまま者じゃ。こともあろうにご生母さまを悪しざまに仰せとは何事か。“あの女”とはどういうご了見か。かかる不届き者に育てた覚えはございませぬ。ここはそなたの家ではない。とっととお城にお帰りなさい!」
報告を受けた光貞は、お紋は身分をわきまえているから思った通りの結果だとつぶやきます。残念そうなことを口にしながら、顔は愉快そうな志保ですが、光貞から長七同様目をかけてやってほしいと頼まれ、元より心得ていると満面の笑みを浮かべます。その表情を見て光貞は肩をすくめます。
この年の暮れ、和歌山城にて光貞公御三男・長七どのの元服式がござった。この日より長七どのは「松平頼職(よりもと)」どのとなられ申した。幼子の髪形から月代(さかやき)を剃り髪を結い上げた姿に、家臣一同から「おーっ」と感嘆の声が上がります。お礼の言葉を述べる頼職をじっと見つめる源六ですが、口を真一文字に結んで半ば睨みつけるようです。
後日、光貞が箱を開けると、鍔(つば)が十一枚並べられています。すぐに手を出す源六の手を払いのけ、頼職から好きなものを選ばせます。頼職が選んだ鍔は源六が狙っていたもので、不貞腐れた源六はあれが欲しいと頼職の手にある鍔を指さします。光貞は人のものを求めてはならないと諭しますが、残りを全部と言って光貞を怒らせ、光貞は鍔の箱を閉じてしまいます。
イライラが募る源六は、志保の部屋の障子に穴をあけて叱られてしまいます。「母親が母親なら子は子じゃ」と言われ、志保を睨みつけた源六は雨の中を飛び出して行きます。城の庭の石橋で立ち尽くす源六の元に駆けつけた久通は、源六への冷遇の悔しさが分かるだけに何も言葉をかけてあげることが出来ません。
明けて元禄5(1692)年7月、高野山にて数千人の僧侶が二派に分かれ、対立抗争の危機がござった。紀州藩はただちに三浦為隆どのの率いる軍勢3,000を遣わし、動乱に備え申した。紀州藩の領内にある高野山は、ご存じ空海上人すなわち弘法大師が開かれた真言宗本拠地のあるところ。このお山で大騒動が持ち上がったのでござる。その原因は本来の僧侶である学侶派と、寺院の経営に当たる行人派との法事の権限を巡っての勢力争いでござる。まぁ言うならば内輪もめ、内ゲバでござるな。
その急報が江戸城に届くや、綱吉公は烈火のごとくお怒りでござった。綱吉に意見を求められた隆光は、仏具の管理などを行う行人派は、学侶派の聖域を侵して法事を行うなど言語道断の振る舞いを重ねていると訴え、学侶なくして高野山は成り立たずと、綱吉は行人派に厳しい処分を下すよう命じます。
間もなく高野山にて行人方の僧侶1,142名が捕らえられ、連日厳しいご詮議がござった。しかして幕府の調停をあくまで拒絶した627名は流罪と相成り申した。縄につながれた僧侶たちが浜辺から小舟に乗っていきます。それを見ている源六は、坊さんでも悪事を働くのかと言いながら、30艘に21人ずつ乗っていたと瞬時に計算して久通を驚かせます。
将軍綱吉は能舞台で、能楽『猩々乱(しょうじょうみだれ)』を舞います。思えば綱吉公が隆光僧正にそそのかされて生類憐れみのお触れを出されたのは、様子見の面がござった。ところが7年経っても8年経ってもお世継ぎ誕生の吉報これなく、悲劇の将軍が満たされぬ心を癒すべく熱中したのは能楽でござった。綱吉公、四十八歳。
その後に集まって膳をいただくわけですが、桂昌院がウサギの羹(あつもの)があることに気づきます。下々の者には法度を守らせ、城の者がそれを守らないでは、生類憐れみの心が御仏に通じるわけがないと激怒します。綱吉は、膳を用意させた右衛門佐をかばいつつ、桂昌院の説も最もだと、今日限り羹は魚にせい! と命じます。しかし、魚もしっかり生類なのですw
天下の悪法『生類憐れみの令』、その弊害たるや目を覆わんばかり。犬というやつはやはり浅はかで、お犬さまなどと持ち上げれば、途端に横柄な態度をとる。癪に障るやら辟易するやら、町方の衆は密かに綱吉公を“犬公方”とあだ名して、あれこれ陰口を叩く始末。
さればでござる。綱吉公は世にも愚かな将軍かと申せば決してそうではござらぬ。綱吉公はご幼少のころより病弱にあらせられ、御父ぎみ家光公のお勧めにより万巻の書に親しまれた。言うなれば学者将軍、物知り将軍でござる。
元禄6(1693)年4月11日、綱吉公は江戸城に御三家をお招きなされ、自ら中庸のご講義をなされた。初代御三家は、神君家康公のご遺志でご兄弟同士。今や尾張光友公69歳、紀州光貞公68歳、水戸光圀公66歳。そろそろ三代目に家督を譲る時期に差し掛かり申した。登城したのは、尾張藩の藩主徳川光友・嫡男綱誠、紀州藩の藩主徳川光貞・嫡男綱教、水戸藩の藩主徳川綱条・隠居光圀の6名です。
綱吉は、教えの中心は真、真を知らずに中庸を知ることはできない、と講義します。講義後の懇談では、綱誠は出された菓子をパクパク食べて、光友にたしなめられます。話題は綱教に嫁した鶴姫のことになり、今や17歳の鶴姫は、綱教の丁寧すぎる物言いが多少窮屈だと綱吉に愚痴を言っていたわけですが、将軍の息女はどこに嫁しても臣下の礼をとらずと、光圀は綱教に助け舟を出します。
「いやぁ、慣れればどうということもござらぬ」とやせ我慢にも聞こえる光友です。尾張どのもまた恐妻家にて、御正室千代姫さまには頭が上がり申さず。何となれば、千代姫さまは三代将軍家光公のご息女、すなわち綱吉公の姉ぎみでござる。その光友から今回、隠居の申し出があり、光圀は「光が消え、綱の時代」とつぶやきますが、光貞にはまだ隠居するつもりはありません。
御三家並びに諸大名の財政窮乏に陥りし所以は、干ばつ冷害のみにあらず。実は年貢収入のおよそ半ばを消費する江戸藩邸の経営。さらに毎年1,000人もの家臣が移動する参勤交代にござった。紀州藩の大名行列も延々と続き、駕籠の中の光貞はもたれかかってグーグー寝ています。
和歌山では相撲大会が開かれています。力士紀州山の圧勝ですが、次の名取川の前に登場したのは源六です。紀州山は源六のまわしに手をかけ、放り投げたり持ち上げたりで、源六も太刀打ちできませんが、腕に噛みつかれて土俵の外に放り出されます。推参なり! と小笠原胤次は、ご城主のご子息だと耳打ちし、紀州山は慌てて土下座して詫びを入れます。
久通に額の傷に手当てされる源六ですが、無鉄砲だと志保はあきれ果てます。「源六は敵の強きを見て恐れず、名取川は敵の弱きを見て侮った。相撲には負けたが勝負は源六の勝ちじゃ」と光貞は満足げです。しかし怪我はよくないと、光貞は羽織の裏に“怪我除神”と筆入れし、源六に着せてやります。
光貞公は大らかなご性格にて、紀州藩の方をお呼び武術の振興にご尽力あそばすのは無論のこと、茶の湯・能楽などの遊芸にもご造詣が深うござった。元禄年間には和歌山城が吹上新堀にて、毎年のごとく人形浄瑠璃・歌舞伎などの興行がござった。元禄6年夏、光貞公は人形浄瑠璃『三世相』をご高覧の後、竹本義太夫並びにそれがし近松門左衛門にご拝謁を賜った。
光貞は、由緒ある武門の生まれである近松が、どういう存念で芝居事に身を投じたのかを問います。近松は、芝居事には煩悩が多い人々を慰め励ます喜びがあり、河原者で朽ち果てるのを誇りとし、悔いるところはないと光貞をまっすぐ見つめて返答します。光貞は、その近松の覚悟を殊勝であると褒めたたえます。
面目を施した、と満面笑みを浮かべる近松ですが、控えの間に行くと源六が勝手に人形に触れて、その仕組みを知ろうとしていました。たしなめる近松ですが、実際に人形を扱って見せます。面白がる源六は、手にしていた人形の頭部をすっぽ抜き床に落とします。顔に傷がついたらどうする!? とほっぺたをつねる近松です。このいたずら坊主が、後の八代将軍吉宗公にお成りあそばすとは、さすがの近松も存じ上げ申さず。
さて、この年の秋、紀州徳川家に大きな不幸が重なり申した。光貞公第五女・綱姫さまが3歳にて病没あそばしたのでござる。源六ぎみのたった一人の御妹ぎみにござった。綱姫さまは和歌山の報恩寺に手厚く葬られ申した。法名は清心院。ところがそのご葬儀の終わらぬうちに、もう一つの哀しい知らせが江戸より届き申した。
書状を落とす光貞は、力なくつぶやきます。「お育(のり)が死んだ……」なんと砂姫さまご逝去の5日前、光貞公第四女・育姫さまは、秋田藩江戸藩邸にて18年のご生涯を閉じられたのでござる。秋田22万石、佐竹修理大夫義苗(よしなり)さまにお輿入れなされてわずか4年足らず、源六ぎみにとってはかけがえのない姉ぎみでござった。
涙で頬を濡らす光貞は頼職と源六を呼び、親に先立つ子ほど不幸なものはないぞ、と訴えます。「これ以上、わしを悲しめさせるなよ! 親というものはの、子どもが健やかであればこれほどの喜びはないのだ! 血を分けた我が子が、手塩をかけた我が子が、一人二人と去ってゆく……これほど辛いことがまたとあろうか!」
夜中、源六は和歌山城の天守に上り、血を分けた我が子、とつぶやきます。血を分けた親は、巨勢で懸命に畑を耕しています。源六は泣きながら星空を見上げ、母上、とつぶやきます。そっと寄り添う久通は、その後ろ姿を見つめたまま動きません。
作:ジェームス 三木
音楽:池辺 晋一郎
語り・近松門左衛門:江守 徹
タイトル題字:仲代 達矢
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[出演]
青柳 翔・尾上 松也 (源六(吉宗少年時代))
大滝 秀治 (徳川光貞)
小林 稔侍 (加納久通)
山田 邦子 (お紋)
辰巳 琢郎 (徳川綱教)
山本 圭 (徳川綱條)
竜 雷太 (三浦為隆)
牟田 悌三 (加納政直)
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夏木 マリ (お伝の方)
松原 智恵子 (鷹司信子)
中田 喜子 (右衛門佐)
三林 京子 (志保)
床嶋 佳子 (大典侍)
丘 みつ子 (お常)
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藤間 紫 (桂昌院)
中山 仁 (徳川綱誠)
根上 淳 (徳川光友)
長門 裕之 (徳川光圀)
津川 雅彦 (徳川綱吉)
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制作統括:高沢 裕之
演出:大原 誠
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』
第3回「将軍の娘」
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