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2025年2月18日 (火)

プレイバック八代将軍吉宗・(06)親の七光り

さればでござる。紀州家の部屋住みであった頼職どの頼方どのは、親の七光りとでも申しましょうか、元禄10(1697)年4月、綱吉公にお目見えのみぎり、それぞれ3万石の領地を賜り申した。拝領した領地がいずこにござったか。頼職どのの高森藩は、越前国丹生郡のこのあたり、この緑の部分でござるな。頼方どのの葛野藩は、この茶色の部分……この奇妙な飛び地でござる。

水を差すつもりは毛頭ござらぬが、実は幕府のお偉方、こうした奇妙な領地をひねり出すのにひと苦労なされた。ちょうどこのころ幕府は経費節減のため、旗本への米の支給を取りやめ、直に知行地を配分する制度に変え申した。このため知行地の不足は慢性化致し、頭痛のために相なり申した次第──。


時の将軍の紀州家お成りは晴れがましい名誉であり、お迎えする光貞公のおもてなしぶりも見事でござった。さらに4月25日にはご老中の四家老、26日には徳川家譜代の大名を立て続けにお招きして、祝儀披露の御前がござった。引き出物まで含めると、いやはや莫大な出費でござる。そして27日には「尾水甲加(びすいこうか)」の方々をお招き致した。「尾水甲加」と申し上げるはすなわち、尾張・水戸・甲府・加賀でござった。

甲府15万石の城主徳川綱豊どのは、綱吉公の亡き兄綱重公のご嫡男にて、6代将軍の座に最も近いお方でござる。加賀100万石の前田家は大名の中でも別格にて、御三家に準ずる待遇を代々受けてござった。尾張藩主徳川綱誠(つななり)、水戸藩主徳川綱條(つなえだ)に続いて、綱豊、綱紀も現れます。これにて立役者が揃い申した。甲州綱豊どの、尾張綱誠どの、水戸綱條どの、そして紀州綱教どの、4人の将軍候補が顔見せ興行。

水戸光圀は書き物に精を出しているらしく、徳川光貞もそろそろ隠居して絵を描きたいと笑います。光友・光貞・光圀の「光」の時代から、綱豊・綱誠・綱條・綱教、そして前田綱紀の「綱」へ。綱紀は「綱」でも細引きと控えめに言えば、綱教も未だに家督相続に及ばずおこがましい限りと謙虚ですが、光貞はムッとします。「嫌味を申しておるのか?」

綱紀は、綱教には鶴姫という太い綱がついていると持ち上げます。綱誠はうつむき気味に“太い綱は結び目が緩い”とつぶやき、一瞬で場を凍らせますが、慌てて「あいや失礼、これは尾張の話でござる」と否定します。しかし今度は綱豊が、結び目がもつれて身動きできぬ場合もあると指摘すると、光貞は笑います。「もつれた時は互いに助け合わねばならぬ。丹念にほぐさねばならぬ」

数日後、尾張のご隠居光友公がご老中の面会をお求めあそばした。光友は4老中に、ものの順序が違うと声を荒げます。つまり、将軍お成りに対して御三家筆頭の尾張家が後回しとはけしからん! というわけです。もしお成りの前に光友が果てれば、老中の役宅に化けて出ると脅し、大久保忠朝はご容赦をと頭を下げます。「ならばさっさとお膳立てをせい!」

この件は、柳沢保明を通じて徳川綱吉の耳に入ります。紀州を立てれば尾張が立たず。呆れた綱吉は、尾張江戸屋敷は桜が素晴らしいと聞き、3月ごろのお成りを保明に命じます。さらに綱吉は、茶を点てる町子を保明に下げ渡すと言い出します。「わしを見くびるな。この女子はそちにぞっこんじゃ。そちも一人ぐらい公家の血を引く側女を抱えるがよい」

 

綱吉が養女をとったと聞き、鶴姫とお伝の方が駆けつけます。八重姫という前関白の養女で、子どもでもいれば寂しかった奥向きがにぎやかになるのではないかと考えたわけです。お伝は八重姫の養育を任せてほしいと申し出ますが、御台所信子の指示で大典侍が担うことになっています。お伝は八重姫をだしに、大典侍が綱吉の寵愛を取り戻そうとしているとキーキー言って取り乱します。

鶴姫が綱教に相談してみると、鶴姫が紀州家との強いつながりになったように、八重姫にもそれを期待しているのかと回答します。その相手とは、八重姫が前関白の養女ともなれば、並の大名では釣り合いが取れず、尾張家または水戸家の可能性も考えられます。鶴姫は、自分は子を産めず、かと言って綱教が側室を持つこともできずとしょんぼりします。綱教は笑って鶴姫を励まします。

朝廷から従四位下 左近衛少将に任ぜられた頼方が2人の元に来ました。今回、光貞の供として江戸から和歌山へ戻ることになり、そのあいさつに出向いたのです。江戸在府中にはいろいろ優しい言葉や心遣いをもらった頼方は感謝を述べますが、にっこり微笑む鶴姫は、控える頼方に目線を合わせてしゃがみます。「お鶴はそなたの姉じゃ。弟がいなくては寂しい。早う江戸へ戻って参れ」

 

元禄10年5月、光貞公は頼職どの頼方どのを連れ紀州へ出立なされた。和歌山城で出迎える志保、お紋、千草です。そこに同行してきた頼方がお願いの儀と入ってきますが、光貞は内容を聞かず「まかりならぬ」と認めないところを見ると、どうやら紀州への道中でもやり取りがあったことのようです。頼方が拝領した葛野藩3万石に赴任したいと言うわけです。

光貞は、初代徳川頼宣は和歌山にお国入りの際、豊臣の残党あり、百姓一揆を起こす農民ありで、入念な下調べをしたうえで、敵地に乗り込む覚悟だったと諭します。そんな父子の言い争いを間近で見ていたお紋は、夜、光貞に暇乞いを願い出ます。目障りで役に立つこともなく……。「役に立たなくてよい! そちはいるだけでよいのだ。余計なことは考えるな」と光貞はにっこり微笑みます。

7月になると、光貞は高森藩と葛野藩へ家臣を実地検分に派遣します。そのころ光貞は、三浦為隆と豊島半之丞と密談です。将軍後継候補は綱教、綱豊、綱誠、この三つ巴を制するには、甲州尾州に草(忍び)を入れて情報収集に努める必要があります。そして幕府には江戸詰めの家老たちが取り計らう。光貞は決断します。「今度こそわしは隠居するぞ。隠居すれば小回りが利く。気兼ねなしに側用人や老中に会える」

頼方は野原で狩りを楽しみ、ウサギを獲ります。加納久通は生類憐れみの令を気にして獲物を渡すよう告げますが、「ここは紀州じゃ」と頼方は取り合いません。その時親も家もない兄弟が、稲を盗んで逃げてくるところに遭遇します。頼方は子どもたちのために握り飯を与え、獲物を鍋にして食わせます。

といった出来事をお紋に伝えると、それはよいことをなされた、と褒められます。しかしあの子どもたちの今後を心配する頼方は、上に立つ者は貧しいものに食い扶持や住み家を与え、暮らしが立ちゆくよう取り仕切らなければならないのに、任地に赴けないとあってはがゆい思いをしているのです。「ならば私もお供いたしましょう。百姓の難儀は誰よりもよう存じておりますぞ」

実地検分の報告が上がります。高森藩も葛野藩も寒村の寄せ集めで実高5,000石しかなく、城も陣屋もありません。思った通りだと光貞は笑いますが、実高5,000石でも綱吉は3万石と思って与えたわけで、老中が将軍を騙したのかと頼方は腹を立てます。光貞は、この時期に幕府と争いを構えるのは得策ではないと、頼方に辛抱せいと諭します。

その後、頼職どの頼方どののご両人は任地に赴いたとの説あり、また一度も赴かずとの説あり。真偽のほどはつまびらかならず。いずれにしても城がなくては格好がつき申さぬ。一国一城の主とは到底思し兼ねる次第。

 

このころ江戸の甲州藩邸を密かに訪れた客人がござった。さよう、御三家の中では最もうるさ方、歯に衣着せぬ論客として知られるご老公・水戸光圀どのでござる。尾張綱誠は、将軍の御成御殿に5万両も金をかけるとのことで、総額10万両いくかもしれません。紀州も尾州も領民の苦しみを顧みず饗応の額を争い嘆かわしいと光圀はご立腹です。

思うに6代将軍は綱豊が相続するべきと主張する理由は、4代家綱薨去の際、弟綱重が存命であれば5代将軍に、そして綱豊がおのずと6代将軍となるはずでしたが、当時綱重は既に亡く、さらに弟の綱吉に将軍の座が移ったわけで、綱吉に世継ぎがない今、家督は綱豊に“返上”すべきなのです。「上様が何と言おうと、桂昌院さまが何と言おうと、私怨を以てご政道を曲げるは天下万民のためならず」

光圀は綱豊に、しばらく病気で登城しないよう、そして登城しても城内では飲み食いを控えるよう進言します。光圀の助言に感謝する綱豊ですが、屋敷に忍びの者が侵入します。すぐに捕えられる忍びですが、綱豊は詮議せず逃がしてやるよう命じます。その見事な仕置に光圀は感服します。

忍びを送り込んだのは紀州でした。水野重上は深入りするなと命じていたはずですが、幕府に訴えがあれば申し開きのしようがありません。素性を明かさなかったとはいえ、それを鵜呑みにはできません。重上は忍びの男を紀州に送り返すことを考えますが、松平頼純は厳しい表情です。「いやそれも危ない。斬り捨てよ」

この年10月17日、江戸に大火がござった。火は大塚より芝・麻布まで焼き尽くし申した。これより元禄末期に、なぜか江戸には大地震、大火、風水害による天変地異が相次いで起こり申した。町方の衆は憤懣やるかたなく、これぞ天の戒め、生類憐れみの祟りと口々に将軍をなじる始末にござった。

綱吉と朝餉をともにする桂昌院ですが、尾張光友が孫の正室に八重姫をもらい受けたいと申し出たと知り、尾張ではなく水戸に嫁がせるよう勧めます。光圀は桂昌院が嫌う綱豊を推す人物ですが、恩を売ることによって曲がったほぞをまっすぐに直さなければなりません。「6代将軍は紀州の綱教どのじゃ。よもや異存はあるまいの。何としてでも水戸のご老公を味方につけよ!」

これに反発したのは光友です。尾張家にくださるとこの耳で聞いたと声を荒げる光友は、誰の進言かと忠朝や保明に迫りますが、忠朝は知らぬ存ぜぬと通し、保明は綱吉直々に決めたことだと光友を突き放します。「お取次ぎいたしかねます。恐れながら『綸言汗の如し』と申しまする。水戸家にお輿入れが定まった以上、何人といえども覆すことあたわず」

 

明けて元禄11(1698)年、紀州藩主徳川光貞公最後の参勤交代出立の日が間近に迫ってござった。もし綱教が将軍になったら、紀州藩はどうなるか。久通は頼職が相続するでしょうと回答しますが、頼方はそれでも部屋住みの立場から変わらないことに嫌気が差します。久通は励まします。「人間万事塞翁が馬と申しまする。何がどうなるか、先のことは分からぬとの意味にございます」

そこに頼職が現れ、江戸にお供するという頼方に、病と称して遠慮せよと言い出します。葛野藩に天下村があり、天下を望む吉兆なりと頼方と喜び合ったらしく、不謹慎ではないか! と久通の額を扇子で殴ります。「主人が出しゃばりなら家来も出しゃばりじゃ。よいか久通、上様の御前に頼方がしゃしゃり出なければ、高森藩と合わせ葛野藩も俺のものであった。よう覚えておけ」

失意の頼方が見たものは、城の石段をほうきを持って掃除するお紋の姿でした。頼方はお紋が手にするほうきとちりとりを叩き落として行ってしまいます。あれまぁ! とびっくりするお紋は、馬糞がよい肥やしになるものを、とさほど気にせず掃除を続けます。そして数日後、光貞に従って頼職と頼方は江戸に出立します。頼方は少しうつむき加減です。

 

作:ジェームス 三木
音楽:池辺 晋一郎
語り・近松門左衛門:江守 徹
タイトル題字:仲代 達矢
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[出演]

阪本 浩之 (頼方(吉宗の少年時代))
大滝 秀治 (徳川光貞)
小林 稔侍 (加納久通)
山田 邦子 (お紋)
辰巳 琢郎 (徳川綱教)
野口 五郎 (頼職)
榎木 孝明 (柳沢保明)
中山 仁 (徳川綱誠)
山本 圭 (徳川綱條)
黒沢 年男 (水野重上)
竜 雷太 (三浦為隆)
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斉藤 由貴 (鶴姫)
夏木 マリ (お伝の方)
床嶋 佳子 (大典侍)
三林 京子 (志保)
根上 淳 (徳川光友)
久米 明 (大久保忠朝)
高松 英郎 (前田綱紀)
細川 俊之 (徳川綱豊)
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藤間 紫 (桂昌院)
名古屋 章 (土屋政直)
長門 裕之 (徳川光圀)
藤岡 琢也 (松平頼純)
津川 雅彦 (徳川綱吉)
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制作統括:高沢 裕之
演出:尾崎 充信

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』
第7回「草いちご」

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