プレイバック八代将軍吉宗・(07)草いちご
近松門左衛門でござる。
お世継ぎに恵まれぬ将軍綱吉公は、大奥の息苦しさに耐えかねてか、好んで諸大名の江戸屋敷にお成りあそばした。お成りがござれば出費はかさむものの、ご加増あり賜り物ありというわけで、今や上様は引っ張りだこの大人気。なかんずくお気に入りの側用人・柳沢保明どののお屋敷には、数年間でなんと56回のお成りがござった。さてこれなるは柳沢どの40歳の祝宴に臨み、上様が詠まれたお歌にござる。
幾久し
千代と重ねて もろともに
尽きせぬ年を 祝ふ慶び
何ともつまらぬ歌でござりまするな。
それはさておき、上様お成りの圧巻は、何と申しましても元禄10(1697)年4月の紀州藩江戸屋敷! 御成御殿の新築は元より、御三家御老中譜代大名のお歴々をお招きしての盛大なおもてなしぶりは、後々までの語り草に相なり申した。ところがでござる。あちら立てればこちらが立たず。先を越されていきり立つは御三家筆頭62万石の尾張藩。負けじとばかり将軍をお招きいたしてご饗応に投じた金銭が、驚くなかれ11万両! 現代で申せば50億! だっひゃー!! でござりまするな──。
元禄11(1698)年3月18日、将軍綱吉公は市ヶ谷にある尾張江戸藩邸にお成りあそばした。かがり火の明かりに照らされて桜が舞い、琴の調べが心地よいです。上機嫌に酒を楽しむ綱吉は 見事じゃ! と褒め、光友は恭しく頭を下げます。尾張家のご隠居光友公は精力絶倫、11男10女の子福者でござった。盃を千代姫に差し出しますが、千代姫は気づかぬふりをして桜の木を見上げます。
御正室はこのお方、天下御免の千代姫さま。千代姫さまは三代将軍家光公のご長女にて、綱吉公の姉君にあらせられまする。千代姫は、6代将軍に人がなければ自分が務める! と言い出します。女に産まれてきたのが口惜しいと口をとがらせる千代姫に、長年の苦労が忍ばれると綱吉は光友をいたわります。柳沢保明の仲介で、尾張家嫡男五郎太を綱吉に挨拶させます。
ちょうどその夜、紀州江戸藩邸にひとりのお客がござった。元老中で小田原城主の大久保忠朝は、先ごろ江戸城黒書院に突然呼ばれ、老衰につきと老中を辞めさせられたのです。新任の老中小笠原長重は尾張家と昵懇であり、尾張藩の策謀に間違いなさそうです。油断しないよう忠朝が徳川光貞に忠告すると、綱教が6代将軍になれば忠朝を老中に復職させると光貞は忠朝を見据えます。
将軍綱吉公、尾張藩邸お成りの夜桜見物も、そろそろ終焉を迎えようとしてござった。酔った光友は五郎太にしかるべき姫をと頭を下げ、綱吉は代わりに綱誠に産まれた喜知姫を養女に受けたいと伝えます。「此度のもてなし深く感じ入った。幾久しく将軍家との縁(えにし)を深め、尾張家の繁栄を願わんがため、喜知姫を我が養女に申し受ける。これが綱吉のはなむけと心得よ」
間もなく生後4か月の喜知姫さまは、綱吉将軍2人目の養女として大奥にお入りあそばした。ご生母は綱誠公側室のひとり、唐橋どのでござる。かくして6代将軍の座を巡り、水面下の駆け引きは熾烈に相成り申した。綱豊、綱教、綱誠と並べば、これが本当の綱引きでござろうか。いやいやこれはご無礼を申し上げた。
元禄11(1698)年4月22日、老中阿部豊後守および小笠原佐渡守どのは上使として紀州江戸藩邸を訪れたのでござる。かねてから申し出があったとおり、光貞の隠居が認められ綱教相続も許されます。そのやり取りが終わると、光貞に促されて上座に綱教が座ります。光貞は綱教の引き立てをと老中の2人に手をつきます。時に綱教公、34歳。
1か月後、紀州江戸藩邸にて3代藩主にご就任あそばした綱教公のお披露宴が行われ申した。御三家、ご老中、諸大名をお招きしての、それは盛大なものでござった。能舞台では能楽『嵐山』が披露され、たくさんの客人たちの中央に綱教が座しています。その後ろから見守る光貞は、頼もしそうに綱教を見つめます。
そしてその夜、紀州藩内輪の祝宴がござった。また加増された保明に、老中たちは宴で不満をもらしていましたが、しかし保明には直接意見できず、光貞は「だらしがない」と一笑に付します。水野重上は、保明への進物は松平頼職を名代にと進言します。綱教が将軍になれば頼職が紀州藩主となり、顔つなぎです。光貞は頼職に綱教の補佐役を命じます。何か役目を求める頼方に、光貞はにっこり微笑みます。「そちは隠居の補佐役じゃ。わしの供をして和歌山へ帰れ」
兄弟とは申せ、長男と次男で、次男と三男では、義経と向こう脛ほどの違いがござる。まあ頼方どのが失意のあまり不行状に走るもむべなるかな。松平頼致と木に登り、望遠鏡で女子の行水を除く頼方ですが、照子からの呼び出しがあって加納久通が呼びに来ると、木から落ちて額に傷を作ります。
照子は「わんぱくの度が過ぎる!」と珍しく叱りつけます。紀州藩は武門の家柄と頼方は胸を張りますが、照子は困惑します。かつて名だたる武芸者をどんどん紀州で抱えた初代藩主頼宣は、新たに家臣となった由井正雪が幕府転覆を企てて濡れ衣を着せられ、紀州家は危うく取り潰しになるところだったのです。そこで頼方は突っ伏します。「足がしびれました……ところで御用の向きは」
憐れなるかな綱吉公のご養女吉姫さまは、七夕の日に大奥にて病没。生後わずか8か月の儚いお命でござった。尾張江戸藩邸の佛間で葬儀が行われ、江戸城大奥の佛間でも綱吉と鷹司信子が冥福を祈ります。ぼんぼり祭り挙行の日は吉姫の初七日に当たりますが、綱吉は今さら時期をずらせないと予定通りに行うことにします。
しかし信子は、そのぼんぼり祭りの先導を保明が務めることに疑問を呈します。大老も老中も側用人に追い抜かれて面目を失ったというのです。綱吉から見て大老は飾り物、老中は役立たずと意に介しませんが、信子は御台所も所詮は飾り物と泣きわめきます。綱吉がふと祭壇を見上げると、徳川家康がギロリと睨みつけているように見え、恐懼して平伏します。信子は泣き止み困惑しています。
さらにこの年師走の10日、尾張光友公御簾中の千代姫さまがご逝去あそばした。享年62歳。将軍家との絆が2つも切れ申して、これは尾張家にとり大きな痛手にござった。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……。
明けて元禄12(1699)年春。光貞公とともに和歌山にお帰りになられた頼方どのは、前髪執りの儀を終えられ申した。頼方も前髪を剃り月代(さかやき)姿になって、凛々しく映ります。その頼方どの、光貞公より一頭の駿馬を賜り申した。時に頼方どの、16歳。勝手に試し乗りをして久通ら家臣たちを走り回らせ、光貞に叱られる頼方です。
頼方は、長兄が将軍になれば次兄が紀州藩主、しかし自分は厄介者と不満を漏らします。お紋は上ばかり見て不平を言うのは世にもおぞましいと諭し、久通もひとかどの武士だから頼方の傅役は不本意かもしれないと告げます。「百姓には百姓の心があり、家来には家来の心がござります。それを斟酌せずしてわがまま勝手を申すは、ちと情けのうござりまするぞ」
光貞公は頼方どのをお供に連れて南紀への旅に出かけられた。頼方どのにとっては初めての南紀州でござる。下津の長保寺は紀州徳川家の菩提寺にて、初代頼宣公すなわち南龍公の御霊が祀られており申す。この長保寺は600年余の歴史を誇り、その本堂、釈迦堂、多宝塔は国宝に指定されているほどの名刹でござる。天台宗長保寺の南龍公墓碑に手を合わせる光貞と頼方です。
光貞は、頼宣が紀州入りしてからの長保寺との関わりを説いていきます。和歌山城陥落の際は長保寺に立てこもり決戦に及ぶつもりだったと聞き、頼方はなぜ頼宣は由井正雪を家来にしたのかと尋ねます。すると光貞の表情が一変します。「その一件はお家の禁句じゃ。二度と口に出してはならぬ」
ご一行は御坊にご宿泊、翌日は近くの和田浦海岸(現・煙樹ヶ浜)にて地引網を御見物なされた。頼方は立ち上がり、一緒に地引網を引こうと久通とともに加わります。獲れた魚を焼いて食べ続ける頼方に、光貞は幼いころの自分を見ているようで大喜びです。
夕方になり湯崎温泉(現・白浜)に浸かる頼方は、食うや食わずやの領民を尻目に大勢の家臣と物見遊山は合点がいかないと光貞に尋ねます。よいところに気が付いた、と光貞は笑顔です。つまり物見遊山に大金を投じれば領民は潤うと説明します。「555,000石を上手に使えば領民のためになるのじゃ」 頼方は、分かったような分からないような表情です。
頼方どのは見聞を広げるため、その那智・熊野までお運びになられた。織田信長公の焼き討ちに遭い、豊臣秀吉公のお声がかりにて再建されたのが熊野の大権現。熊野大権現に隣接した観音堂は、西国巡礼の第一札所としてこれも名の知られた名刹にござる。さらに頼方どのは平谷銅山にまで足を伸ばされ申した。
里に赴いた頼方は、銅山の毒で田畑が全滅し死に瀕した領民たちを前に絶句します。お助けを……と力を振り絞りながら、ひとりの老婆がよろよろと頼方に近づき、頼方も老婆の手を握りますが、老婆は力尽きて頼方の胸で命を落とします。光貞とともに白浜の三段壁海岸を訪れた頼方は、支援が足りないと訴えます。光貞は、領民一人ひとりに等しく幸を与えることは至難の業と諭し、綱教や頼職に尽くして天下万民のために尽くしてもらいたいと言葉をかけます。
元禄12年6月、ついに第三の不幸が尾張家を襲い申した。藩主徳川綱誠公が江戸藩邸にて食中毒を起こされたのでござる。軽い食あたりと聞いていた光友ですが、危篤の息子を前に表情が一変します。綱誠公このとき48歳、災いの元は草いちごの食べ過ぎなれど、事態を軽く見た側近たちの不手際も目立ち申した。かくして大黒柱を失うた尾張徳川家の家運は、一気に傾き申したのでござる。
江戸からの知らせが届いた折、光貞公はご新築の別荘・西浜御殿(養翠園)にござった。尾張公ご逝去──と頼方が駆けつけて報告しますが、やはり老衰か? と光貞は心穏やかに尋ねます。草いちごの食べ過ぎと聞いて、何たる不用心と声を荒げますが、久通が補足します。「恐れながら、ご逝去あそばしたのはご当主、綱誠公にござります」
作:ジェームス 三木
音楽:池辺 晋一郎
語り・近松門左衛門:江守 徹
題字:仲代 達矢
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[出演]
阪本 浩之 (頼方(吉宗の少年時代))
大滝 秀治 (徳川光貞)
小林 稔侍 (加納久通)
山田 邦子 (お紋)
辰巳 琢郎 (徳川綱教)
野口 五郎 (頼職)
榎木 孝明 (柳沢保明)
中山 仁 (徳川綱誠)
黒沢 年男 (水野重上)
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松原 智恵子 (鷹司信子)
三林 京子 (志保)
中村 メイコ (千代姫)
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藤村 志保 (照子)
根上 淳 (徳川光友)
久米 明 (大久保忠朝)
藤岡 琢也 (松平頼純)
津川 雅彦 (徳川綱吉)
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制作統括:高沢 裕之
演出:大原 誠
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』
第8回「綱引き」
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