« 大河ドラマべらぼう -蔦重栄華乃夢噺-・(12)俄(にわか)なる『明月余情』 | トップページ | 大河ドラマべらぼう -蔦重栄華乃夢噺-・(13)お江戸揺るがす座頭金 »

2025年3月25日 (火)

プレイバック八代将軍吉宗・(11)赤穂浪士

元禄の御代に紀州の特産物と申せば、まずはくじらとみかんが有名でござる。紀州藩はこれを献上品・御進物に使い、大名諸侯に珍重され申した。

豆腐を凍らせ乾燥せしめる凍り豆腐は、別の名を高野豆腐とも申しまするが、その起源は高野山の精進料理にござり、参詣者の土産物として全国に名を高め申した。粉河酢(こかわのす)は温暖なる気候の中で那賀郡(ながごおり)の上質米を蒸し、紀の川の良水にて醸造せるものにて、その味は特段の優れものでござる。我が国の醤油発祥の地は紀州の湯浅でござる。室町の御代に唐の国より伝わりし径山寺(きんざんじ)味噌のたまりに目をつけ、紀州人が作り出したのが、この湯浅醤油でござった。

では、ちょっと失礼して……うん、くじら──。


和歌山城内・紅葉溪(もみじたに)庭園──。ご隠居あそばした光貞公は、元禄15(1702)年夏、自ら剃髪し「對山(たいざん)入道」と号された。気分よく謡う徳川光貞の前に松平頼方が現れ、お須磨の江戸下向を取りやめるよう申し入れます。不埒者! と光貞は頼方を叱りつけ、いったん決めたことは曲げられぬと聞き入れてくれません。「綸言汗のごとし」

光貞公は大の相撲好きにて、ご贔屓の力士を何人もお抱えでござった。力の限り戦った力士たちに拍手を送る光貞は、憂さ晴らしに一番取ってみるか? と頼方に勧めます。勝てばご褒美をくださいますか? と頼方は控えめに笑いますが、光貞はニッコリして送り出します。「お須磨を頂戴いたしとうござりまする」

土俵で力いっぱい四股を踏み、気合十分の頼方です。手加減いたすな! と光貞は力士に声をかけますが、頼方が「いたしません!」と答えます。序盤は土俵際まで追いつめられる頼方ですが、相手の足を引っかけて土俵外までぶん投げます。光貞は勝った褒美に脇差を与えようとしますが、須磨を所望したと言い張ります。勝手に決めるなと言う光貞に、頼方はポツリ「綸言汗のごとし」とつぶやきます。

和歌山の海を眺めながら、頼方は不満を吐露します。光貞は奥女中を横取りと言っていましたが、横取りではなく自分が頼職よりも先に見初めたのだと考えているのです。それを聞く加納久通は、お須磨のことは諦めるよう諭します。久通にも惚れた女がいたそうですが、それは今の妻とは別の女です。「言わぬが花にござりまするなァ。恋は儚くうたかたのごとく、消えてゆくものにござりまするなァ」

その帰り道、雨に降られて民家の釜いかけ屋の軒先で雨宿りです。すると家の中から夫婦の怒鳴り声が聞こえてきました。恋焦がれて一緒になったのにと、大家は仲直りするよう勧めますが、殿様の仲裁でないと聞かないと旦那が言い張ります。そこに頼方と久通が足を踏み入れます。「殿様の弟ではダメか? 役不足ではあるが、俺の顔を立てて仲直りせい。仲裁の礼として……傘を一本貸してくれぬか?」

お紋の方と久通に、志保はさっそく雷を落とします。身分をわきまえない無作法は誰に似たのかと志保はあきれ果てますが、久通は言いにくそうに報告します。頼方は本当に無作法で女には手が早く、「これだけは志保さまのお耳に入れておきたく存じます。実は頼方さまとお須磨どのは既に理(わり)ない仲にござりまして、要するにお手がついております。全く困ったお方でござります」

須磨は和歌山の海岸で頼方と待ち合わせです。現れた頼方は、お手付きと口裏を合わせるよう須磨に頼みます。しかしそのせいで、須磨は父親に「ふしだらな女!」とひどく叱られたようです。心配していた頼職のことも、頼方はさほど気にしていないようです。須磨は、始めは乱暴な方だと思っていた頼方のやさしさに触れ、果報者と感じるまでになっています。「俺こそ果報者よ」

 

さて、こちらは江戸城でござる。御落胤騒ぎは一段落したものの、どなたが次の将軍にお成りあそばすかは、依然として定まり申さず。秋深まるころ、桂昌院さまは隆光大僧正に何やら御祈祷をお命じなされた。実は甲州綱豊公を呪い殺すためと、芳しからぬうわさもござり申したが、いやいやそれがしは存じ申さぬ。存じ申さぬがこの年11月、綱豊公は江戸桜田藩邸にて重病の床に就かれ申した。

甲州江戸藩邸で床に就く綱豊に熙子が取り次ぎます。徳川綱吉の名代として柳沢吉保が典医を同行して、干し柿となまずを持参して見舞いに訪問したわけです。しかし綱豊は、様子を探りに来たのだろうと、追い返すよう伝えます。かしこまりました、と熙子はそのまま下がっていきます。

明日をも知れぬ病状との吉保の報告に、思いもよらぬことが起こると綱吉はつぶやきます。諸葛孔明といえども病を得れば志を虚しくするわけで、綱豊もさぞ無念でしょう。もし綱豊が果てれば、関白近衛基煕も公家衆も担ぐ神輿を失って、必要ない口出しはするまいと綱吉は考えます。「さて、養子はどうする? 綱豊にも子がない、子がない、子がない」

天下の形勢、紀州に傾くと見るや、柳沢吉保どのの変わり身は早うござった。駒込にご新築の豪勢なお屋敷を「六義園(りくぎえん)」と名付け、そのお披露目に鶴姫さまをご招待なされたのでござる。それまで甲州どのに肩入れなされた大奥取締・右衛門佐が、この日進んで御接待役を願い出たのも、まあご愛嬌と申し上げておきましょうか。

庭園を案内する吉保を、“権勢並ぶ者なき”と大典侍が評し、“鼻息ひとつで大名の首が飛ぶ”と新典侍も冗談を言いますが、将軍のご威光と吉保は控えめです。鶴姫は嫡子吉里が綱吉の落とし種と聞いたと告げ、定子は風説に過ぎないと弁明します。「申すまでもなく、このお鶴は将軍ただ一人の娘にして、紀州綱教の妻である。今後ともご昵懇に」

 

そしてこの年の暮れ、すなわち元禄15年12月15日未明、寅の上刻。江戸を揺るがす大事件が起こり申した。大石内蔵助率いる浪士四十七人が、本所松坂町の吉良邸に討ち入ったのでござる。

赤穂浪士は表と裏の二手に分かれ、木槌(かけや)にて門を突き破り、手向かうものは斬り捨てなぎ伏せ、またたくうちに屋敷を乗っ取り申した。もともと高家筆頭の吉良家は典礼儀式を司るお家柄にて、槍ひと筋の武門とは異なり申す。しかも突然の夜襲にござればひとたまりもござらぬ。殺されし家臣16名、深手を負いし者24名、そのうち9名は後日息を引き取り申した。吉良上野介どのは炭小屋より引きずり出されて、あえなく首を取られ申した。

本懐を遂げた赤穂浪士は、そのまま芝高輪の泉岳寺に立ち向かい、主君浅野内匠頭どのの墓前に吉良どのの御首級(みしるし)を捧げ申した。朝、起床して顔を洗う綱吉のもとに、吉保が事件の報告に上がります。赤穂浪士は謀反を起こしたのではなく、神妙に連座し大目付に届け出たわけですが、「乱心者めが!」と綱吉は怒りに震えます。

一方紀州屋敷では徳川綱教が浮かない顔です。やはり討たれたかというつぶやきからは、吉良が標的にされることはある程度予測していたようです。頼職が上杉家への弔問から帰ってきました。弔問客はさほど多くなく、世の中は吉良より浪士びいきであることが伺えます。当主上杉綱憲の妻・栄姫は仇討ちのために紀州家へ加勢を依頼、それを受けた頼職を綱教は「たわけ!」と叱責します。

黙って立ち上がった松平頼純はすぐ上杉家に向かい、仇討ちは自重するよう綱憲と栄姫を諭します。塀を動かすのは天下騒乱の元、まずは幕府のお裁きを待つよう進言します。世間は浪士たちを“赤穂義士”と称え、客人としてもてなす有り様なのです。「かかる折に慎みなく騒ぎ立てれば畢竟お家のためならず。上杉藩において万が一挙兵の儀あらば、紀州藩は弓矢をもってこれをお諫め申す」

元禄16(1703)年1月、綱吉公は2人の学者をお召しあそばした。こなたは高名なる林 羅山の嫡孫にて、将軍の侍講をお務めの林 信篤どの。片や柳沢吉保どのに仕える儒学者・荻生徂徠どのでござる。

幕府の下で武家政治が成り立つのは忠節があればこそで、君主に忠義を尽くす赤穂浪士を罰することに矛盾を唱える信篤は、浪士たちの赦免を求めます。一方徂徠は、夜分に襲撃するのは夜盗同然で生かすことはできないが、本懐を遂げた浪士たちに死に場所を与えることが幕府の威光も立つと主張します。黙って聞いていた綱吉は、小さくうなずきます。

2月4日、赤穂浪士は切腹を申し付けられた。宣告文に曰く『浅野内匠頭殿中にて刃傷に及び死を賜りたるを、臣下の者ども仇を報いぬうち徒党を組み上野介邸に乱れ入り、暴行を加えたる段不届き至極。これによりて切腹を申し付ける者なり』。赤穂浪士の仇討ちは満天下の共感を呼び、大石内蔵助の人気は弥増(いやま)すばかりにござった。されど吉良家の親戚筋にあたる紀州家では、大っぴらに称賛することも相ならず、いささか窮屈でござった。

赤穂の浪人どもを義士と称えるは片腹痛し、と光貞は家臣たちに説きます。内匠頭に死を与えたのは幕府であり、仇を討つなら幕府を討つべきで上野介を仇にするのは見当違いであるし、仇討ちは赤穂城を明け渡した直後に江戸へ来て仇討ちを起こすべきだった。しかも夜討ちをし、本懐を遂げた直後に自害すべきところを、浪士たちは生き延びて幕府に名乗り出たのは何のためか?

光貞の説法を黙って聞いていた頼方は、内匠頭の刃傷は上野介との確執に端を発したものであり、赤穂の家臣が上野介を仇とするのは“人情”において至当と主張すると、光貞は我が意を得たりという表情で「“刃傷”……さよう! 殿中での刃傷は大罪である!」と膝を叩きます。小笠原胤次が“人の情け”と間違いを指摘しますが、光貞は大きくくしゃみをし、場は一気になごみます。

光貞公のごとく赤穂浪士をこき下ろす御仁もござる。荻生徂徠、太宰春台など、高名なる儒学者はその筆頭でござった。ところがでござる。世間の大方はこういう話にグッとくる。忠義の武士が苦心の仇討ち、愁嘆ありチャンバラあり、で最後は腹切り! お涙頂戴!

なんと切腹の数日後には、赤穂浪士を曽我兄弟になぞらえて『曙曾我夜討(あけぼのそがのようち)』なる出し物が芝居小屋にかかり申した。この後、『忠臣金短冊(ちゅうしんこがねのたんざく)』『忠臣いろは夜討』『仮名手本忠臣蔵』など、歌舞伎といわず浄瑠璃といわず出るわ出るわ。中でも名作の誉れ高きが、この『碁盤太平記』。ハハハ、かく申す近松門左衛門の作でござる。

さて、赤穂浪士切腹の興奮未だ冷めやらぬ2月21日、こちらは一命を取り留めた甲州綱豊公がお見舞いのお礼言上のためご登城なされた。綱吉は、不時の養子として実弟を届け出た綱豊に若いのだから子を作れと勧め、吉保にもう一人の側室の斡旋を命じます。「構えてわしの二の舞はいたすな。これは将軍からの、いや叔父からの快気祝いと心得よ」

褒めて申せば先見の明、腐して申せば世渡り上手。風向きを察した柳沢吉保どのは早くもその翌日、桜田門外の甲州藩邸をご訪問なされた。迎えるは甲州藩きっての切れ者、間部宮内詮房どの。元は能役者にござったが、綱豊公の御寵愛を受け破格の御出世をなされた方。まぁ柳沢吉保どのといい間部詮房どのといい、いかにも元禄の御代らしきお役人ではござるまいか。

詮房は、仕事が将軍の御用のみならず幕府全般に及ぶ吉保の苦労を拝察します。出すぎてはならず、引っ込むこともならず、その兼ね合いが苦労の種ですが、それは同じ立場の側用人である詮房も分かる部分かもしれません。そこに綱豊正室の熙子が入ってきます。ご存じのとおり紀州の御簾中が将軍のご息女ならば、こなた甲州の御簾中は関白近衛基煕公のご息女でござる。

吉保の用向きは、すでに綱豊から聞いている熙子ですが、将軍綱吉の意向であれば聞き入れるしかなさそうです。現状、綱豊にはお気に入りの側室が1人おりますが、将軍からの賜り物なら遥かにしのぐ上臈であろうと熙子はニヤリとします。「星に比ぶれば月、蓮華草に比ぶれば牡丹。まずは柳沢どののお手並みをとくと拝見いたしましょうぞ」

和歌山の養翠園では、綱豊全快に「死んだ馬が生き返ったか」と光貞は残念がります。しかも吉保が綱豊に近づいていることを知ると、足元から崩れ落ちつつも、光貞は江戸に行くと言って聞きません。養生を勧める頼方は光貞をひょいと担ぎ上げ、離れに運び入れます。

 

作:ジェームス 三木
音楽:池辺 晋一郎
語り・近松門左衛門:江守 徹
題字:仲代 達矢
──────────
西田 敏行 (松平頼方)
賀来 千香子 (須磨)
大滝 秀治 (徳川光貞)
小林 稔侍 (加納久通)
山田 邦子 (お紋)
辰巳 琢郎 (徳川綱教)
野口 五郎 (頼職)
榎木 孝明 (柳沢吉保)
津嘉山 正種 (荻生徂徠)
鈴木 瑞穂 (林 信篤)
──────────
斉藤 由貴 (鶴姫)
床嶋 佳子 (大典侍)
五大 路子 (栄姫)
姿 晴香 (定子)
三林 京子 (志保)
中田 喜子 (右衛門佐)
草笛 光子 (熙子)
──────────
藤岡 琢也 (松平頼純)
黒沢 年男 (水野重上)
柳生 博 (吉良上野介)
細川 俊之 (徳川綱豊)
石坂 浩二 (間部詮房)
津川 雅彦 (徳川綱吉)
──────────
制作統括:高沢 裕之
演出:清水 一彦

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』
第12回「鶴姫の死」

|

« 大河ドラマべらぼう -蔦重栄華乃夢噺-・(12)俄(にわか)なる『明月余情』 | トップページ | 大河ドラマべらぼう -蔦重栄華乃夢噺-・(13)お江戸揺るがす座頭金 »

NHK大河1995・八代将軍吉宗」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 大河ドラマべらぼう -蔦重栄華乃夢噺-・(12)俄(にわか)なる『明月余情』 | トップページ | 大河ドラマべらぼう -蔦重栄華乃夢噺-・(13)お江戸揺るがす座頭金 »