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2025年4月 8日 (火)

プレイバック八代将軍吉宗・(13)紀州の悲劇

近松門左衛門でござる。いやあ、春でございまするな。
さて元禄末期より宝永年間にかけて、なぜか大地震・火事・洪水・噴火の天変地異が相次ぎ、人々はこの世の終わりかと震えあがり申したが、ついに将軍のご息女が身罷るに至って、“これはご政道正しからざる祟りぞ”と……いやいや、近松は申しており申さぬ。

なぜかくも評判が悪いかと申せば、左様でござる。人間よりお犬さまが大事の生類憐れみの令。また昨今は財政再建のため立案された金銀改鋳、これがまた悪評サクサク。ご覧の小判はどちらも1両。ところが、この慶長小判は純金が8割5分6厘。幕府はこれを集めて改鋳し、この元禄小判を作り申した。こちらは純金が5割6分4厘。要するに幕府は、1両につき3分の1ずつ利益を得るというからくりで、これは誠にけしからん。

さればでござる。かかる不正を許すのは、やがては瓦礫(がれき)や紙切れに幕府の刻印を推し、これを金銭と認めて暴利をむさぼるも可能ではござらぬか? (近松家の小女が現代の1万円札を近松の目の前に落とす) ……ん? 何じゃこれは──。


宝永元(1704)年4月12日、紀州江戸藩邸にてご逝去あそばした鶴姫さまは、盛大な御葬儀の後、芝・増上寺に葬られ申した。享年28歳。ご法名は明信院。江戸城三の丸の佛間では、鶴姫の死にお伝の方が落胆し、将軍徳川綱吉も「徳松が死に、お鶴が死に、御仏は不都合じゃ! 順番が違うではないか!」と怒りを露わにします。桂昌院は衝撃のあまり呆ける始末です。

気落ちしているであろう徳川綱教のために、徳川光貞は江戸に行くと言い出して三浦為隆に止められます。しかも鶴姫の看病疲れか、綱教が発病したとの知らせがあり、将軍の座を絶望視する頼職は江戸に遣わしてほしいと光貞に申し出ます。「兄上の志を全うすべく、父上になり代わって、渾身の力を振り絞りまする!」

すぐさま頼職どのは光貞公の書状を携え江戸へご出立なされた。あけすけに申せば頼職どのも気が気ではござらぬ。目の前にぶら下がっていた紀州藩主の座がシャボン玉のごとく消えてはたまりませぬ。和歌山から江戸まで13日かかる行程を、11日目の夜江戸にご到着という強行軍でござった。

書状に目を通した綱教は、将軍の座を諦めたわけではないと言いつつ、幕府の大勢(たいせい)は甲州綱豊に決したとみて間違いなさそうです。頼職は綱教に、桂昌院に対して直訴をと進言しますが、何もしなくてよいと返します。自ら将軍を目指したことはなく、いつの間にか6代将軍に取り沙汰され、それが遠のいただけです。松平頼純や照子、水野重上のいる部屋で、ひとり頼職だけが浮いています。

 

さてこちらは甲州江戸藩邸。真夏のある日、御簾中熙子さまは綱豊公お仕えの上臈たちをお召しなされた。こなたは最初の側室として熙子さまより献上なされた元侍女の於古牟(おこん)どの。こなたは2番目の側室・於喜世どの。元は町医者の娘にて、間部詮房どのの手引きによりお仕え申した。3番目の側室は櫛笥(くしげ)中納言隆賀(たかよし)卿の息女・於須免(おすめ)どの。御存じ柳沢吉保どののご推薦にて都からおいでなされた。

熙子は3人の側室に、将軍お世継ぎの件で世論が囂(かまびす)しく、殿の身辺が慌ただしいが、どんなことがあってもいたずらに浮かれるのは不謹慎の極みと指導します。不用意な一言が大事を招くこともあるため、しばらくは外出を控え出入りの商人とも言葉を交わさないように詮房からも忠告が入ります。

一方、江戸城に召し出されたのはご公儀お抱えの儒学者・林 大学頭信篤どの。“ご公儀お抱え”と申さば、まあ東京大学の総長といったご身分でござろうか。林 信篤は、このまま綱吉が死ねば必ず家督騒動が起きると警鐘を鳴らします。家臣たちが集まって次の将軍を決めればいいと綱吉は気にしませんが、信篤は世継ぎがなければ将軍家は断絶と主張するのです。

将軍家が断絶となれば側用人も老中もないわけで、たちまち幕府は崩壊、百鬼夜行の惨状に陥りかねません。そのため嫡子のいない諸大名はあらかじめ幕府に養子届を出し、不測の事態に備えるのです。綱吉は誰が世継ぎにふさわしいか尋ねますが、一番手は甲州綱豊と見るのが大勢のようです。紀州綱教は将軍家との縁が遠のき、家中が乱れている尾張家の吉通では話になりません。

尾張江戸藩邸には右衛門佐の姿がありました。風紀乱れる尾張家において、その元凶である本寿院をたしなめに来たわけです。本寿院はそれを分かりつつ酒と男でもてなします。藩主吉通の母親であり、その立場で藩政に物申さねばならない場面もあると弁明し、奥田主馬に右衛門佐からの盃を受けるよう勧めます。そして本寿院も酒を注いでもらい、別の近習によりかかります。

ちょうどそのころ、甲州綱豊公の家臣・間部宮内詮房どのは、密かに江戸城に召されており申した。綱吉は、綱豊が好んで『義経』を舞う話を持ち出し、なぜ義経は頼朝の前に出て邪心がないことを告げなかったか詮房に尋ねます「方々を逃げ回っていれば天下が転がり込んでくるとでも? 義経が自ら身を引けばやっかいなことにはならなかったはず。頼朝の苦衷を察する気持ちはなかったのか」

これは明らかに、綱豊を義経、綱吉を頼朝になぞらえているのは明白です。詮房は、兄を慕いながらその本心を測りかね、その勘気が解けるのを待つという哀しさを持って『義経』を舞っていると説明します。義経は将軍を恨んではいなかったのかとつぶやく綱吉を、詮房は見据えます。「血は水よりも濃しと申します。骨肉を分けた兄ぎみへの思いなくして何人も義経公を舞うことあたわず」

詮房が退室すると、元能役者めが! と綱吉はつぶやきます。その時、川の土手が決壊したとの報告と同時に、江戸城の庭の高木に落雷があり、驚いた綱吉は吉保に抱きつきます。「吉保! 天は……天はなぜこのわしを苦しめるのか……!!」 鶴姫さまのご他界から8か月の苦悩を経て、綱吉公はついに決断を下された。

諸般の事情に照らし合わせ、将軍後継を甲州綱豊に──。それを桂昌院にも報告しますが、すでに呆けてしまっている桂昌院には反論する気力すらなく、ただ大きな荷物を背負わされて青竹で何度も叩かれたことを思い出しています。綱吉は何度も綱豊と念押しし、そして翌日、綱豊にさっそくお召しがあります。「神仏のご加護がありますように」と熙子や側室たちは綱豊を送り出します。

白書院で対面した綱吉は、20年にわたり甲州藩で善政を敷き慕われる綱豊を、世継ぎとして養うのは“至情の喜び”と、あまり嬉しそうではない表情で告げます。そして伝家の宝刀を、あまり渡したくなさそうな表情を浮かべながら小姓に預け、吉保から綱豊に渡って親子の契りを交わします。「さまざまな紆余曲折があった。我らの間には拭いきれないわだかまりがあった。だがもはや我らは、父と息子じゃ」

綱豊および家臣たちの江戸城西の丸入りは年内に済まさせ、詮房はその大番頭を命じられます。能役者出身の詮房にとってはたいそうな出世だと綱吉は笑いますが、それよりも出世したのは吉保でした。綱豊が西の丸に入った後の甲州15万石ですが、その領地をいったん幕府に返上させ、その上で綱吉は吉保に与えたのです。

宝永元年12月1日、綱吉公は御三家・ご老中・諸大名をお城に召し出して、家宣公(綱豊)の継嗣決定をお告げあそばしたのでござる。家宣公はそのまま西の丸にお入りあそばし、数日後御簾中と側室のお三方も西の丸にお入りなされた。側室お三方の名はこの日より公家風に改められ申した。すなわちお古牟どのは右近の方、お喜世どのは左京の局、お須免どのは新典侍(しんすけ)どのでござる。その華やかさ優雅さは後々まで江戸の語り草でござった。

 

予期したこととは申せ、さすがに紀州藩邸は失意を隠し切れず、綱教公のご心中いかばかりか。まだ養子に決まっただけで綱吉が簡単に隠居はしないと綱教を励ます頼純や重上ですが、天下は新しい将軍を待ち望んでいると頼純嫡男の松平頼雄(よりかつ)はつぶやきます。紀州家に積年の恨みがないとも言えず、進んで家宣に礼を尽くしわだかまりを払拭するよう進言します。

相分かった、と憮然と返答する綱教ですが、もっと納得できないのは頼職です。泥酔した頼職は、とんびに油揚げをさらわれて紀州藩は主君も家臣も能無しだと喚き散らします。普段温和な綱教も、さすがにこぶしを握り締めますが、頼純の命で頼職はつまみ出されます。綱教はコンコンと咳をします。

明けて宝永2(1705)年4月、紀州綱教公は参勤交代で和歌山へ向かわれた。その道中の駕籠の中でも咳が止まらず、帰参の挨拶でも顔色が悪いと光貞に心配されるありさまです。将軍家には子に恵まれず、もしもの時に備えて子を作るように光貞に勧められます。鶴姫存命中は側室も持てなかった綱教ですが、今はもう遠慮はいらず側室を5人でも10人でも持てと光貞はささやきます。

屋敷に戻った頼方は庭の手入れをしている須磨に、側室を探してくれぬかと依頼します。その依頼にふくれる須磨ですが、俺のではないぞと頼方は笑います。鶴姫を失い将軍の座を失い、やつれる綱教の慰めにもなればと思っての依頼です。「紀州家はお家安泰のために子孫を増やさねばならぬのじゃ。子孫を増やさねばならぬのは我らとて同じこと」 急に言われて戸惑う須磨です。

綱教公は閏4月半ばごろより衰弱のため床にお付きあそばした。手を握って励ます頼方ですが、綱教は将軍の座を惜しんだことはなく、鶴姫の夢を毎晩見るのです。「お鶴は綱教にとって生涯ただ一人の女であった。そのお鶴が死んだとき、わしの心も……死んだ」 ひとりの女を思う心で家臣や領民を思え──。綱教は頼方に説きます。

加納久通と山に分け入って薬草人参を分けてもらった頼方ですが、その帰りに“御蔭(おかげ)参り”の一群を目撃します。京より伊勢神宮への御蔭参りが、驚くべき勢いでふくらんだのは、宝永2年閏4月のこと。家も仕事も放り出し、伊勢へ伊勢へと殺到したのでござる。初めは1日3,000人ほどのものが、10日目には10万人に。わずか50日ほどの間に、なんと362万人に及び申した。

これを“信仰のエクスタシー”と見るか“集団ヒステリー”と見るかは議論の分かれるところ。いずれにしても抑圧された民衆のストレスが、解放の出口を求めて噴出する……とかようなことでござりまするな。ある学者によれば、かかる不思議な現象は60年周期で起こると申す。そういえば幕末にも「ええじゃないか」がござりましたな。どうでもええじゃないか!

多くの家臣たちが和歌山城の石段を駆け上がって登城します。病床の綱教は意識がなく、枕元には光貞、頼方、三浦為隆が見守ります。しかし闘病の甲斐なく綱教は逝去します。光貞は言葉を失い、頼方は声を上げて悲しみ突っ伏します。狂乱の御蔭参りをよそに、紀州3代藩主・徳川綱教公は5月14日夜、和歌山城にてご他界。享年41歳。御簾中鶴姫さますでに亡く、側室もなくお世継ぎもなく、寂しくも悲しいご最期にござった。

そのころ紀州江戸藩邸では、酒乱の頼職が自分を見下した物言いをした侍女を手討ちにしようと刀を振り上げますが、傅役の内藤忠元に止められます。「お控えあれ!」と照子は頼職を咎め、紀州で綱教が身罷ったと伝えます。「お分かりかな。殿はあの世へ旅立たれたのじゃ」 頼純に伝えられ、頼職は膝から崩れ落ちます。

夜。頼純は重上を前に、厳しい表情です。このままいけば4代藩主は頼職ですが、あのような状況では先行きが案じられてなりません。お家が大事か主君が大事か。「お家にござります」と重上はつぶやきます。

 

作:ジェームス 三木
音楽:池辺 晋一郎
語り・近松門左衛門:江守 徹
題字:仲代 達矢
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西田 敏行 (松平頼方)
賀来 千香子 (須磨)
大滝 秀治 (徳川光貞)
小林 稔侍 (加納久通)
辰巳 琢郎 (徳川綱教)
野口 五郎 (頼職)
榎木 孝明 (柳沢吉保)
柄本 明 (松平頼致)
鈴木 瑞穂 (林 信篤)
黒沢 年男 (水野重上)
竜 雷太 (三浦為隆)
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名取 裕子 (喜世)
斉藤 由貴 (鶴姫)
夏木 マリ (お伝の方)
五月 みどり (本寿院)
中田 喜子 (右衛門佐)
草笛 光子 (熙子)
藤村 志保 (照子)
──────────
藤間 紫 (桂昌院)
細川 俊之 (徳川綱豊)
藤岡 琢也 (松平頼純)
石坂 浩二 (間部詮房)
津川 雅彦 (徳川綱吉)
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制作統括:高沢 裕之
演出:大原 誠

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』
第14回「出世街道」

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