プレイバック八代将軍吉宗・(12)鶴姫の死
近松門左衛門でござる。
5代将軍綱吉公の政治については毀誉褒貶(きよほうへん)さまざまあれど、まず褒めるべき業績の第一は学問の奨励でござる。元禄の御代は官民の儒学者多く出でて、倫理道徳を全国に広め申した。第二は文化の発展でござる。華やかな美術工芸、充実した水陸の運輸などで、人々の生活に潤いを与え申した。
さて、悪しき点を申し上げればその第一は、神仏への盲目的信仰でござる。ご生母桂昌院さまの影響もござって、神社仏閣の新築増築、僧侶の優遇、過度の寄進など、おびただしい金銭が使われ申した。第二は能楽や宴会などの贅沢三昧。人にものを与えるのが大好きという性格も災いして、ついには幕府財政をどん底の窮地に追い込み申した。
これらの長所短所を秤にかければトントンと申すべきなれど、綱吉公の評判を一気に落とし後世に悪名をとどめたるは、ご存じ生類憐れみの令。これはもう……めちゃくちゃ。救いようがござりませぬ──。
元禄16(1703)年。頼方どのは鷹狩りのお好きな光貞公のお供をして、和歌山周辺の岩出や山口にお出かけなされた。光貞公は78歳でござった。竹笠をかぶり行縢(むかばき)を穿く松平頼方や加納久通らは、光貞の合図と同時に飛び立った鳥に狙いを定めて鷹を放ちます。しばらくして頼方が仕留めた鳥を手に戻ると、徳川光貞は「なんだ……たった一羽か」とがっかりします。
その一羽をさばいて鍋にし、光貞や頼方たちは家臣たちとともに舌鼓を打ちます。光貞曰く、鷹狩りは単なる物見遊山ではなく、野戦に備えての鍛錬でもあり、領内の視察も兼ね備えているのです。折に触れて百姓や木こりの話を聞き、同じ飯を食い、血の通った治世を目指すわけです。頼方は大きく頷きます。
頼方屋敷では、須磨が甲斐甲斐しく頼方の世話をしています。長兄が将軍となり次兄が藩主となれば、自分はどうなるのか? と光貞に尋ねたところ、心がけ次第では大大名にもなれるかもしれないと回答があったそうです。頼方は須磨の冷たい手を握って息で温め、ぐいっと引き寄せます。「わしはの、そなたを正室に迎えるぞ。わしが大名ならば、そなたはれっきとした奥方さまじゃ」
ところ変わって柳沢吉保どののお屋敷では、甲州綱豊公の側室選びにご苦慮のご様子。綱豊の唯一の側室・お古牟(こん)が侍女上がりだから、都びとの姫君をと右衛門佐に相談することを定子は提案しますが、吉保は断ります。大奥の力を借りては側用人の沽券(こけん)に関わるのです。町子は櫛笥(くしげ)中納言の息女・須免子(すめこ)を推薦します。
4月、参勤交代のご挨拶にご登城の紀州綱教公は、バッタリと甲州綱豊公にお出会いなされた。徳川綱教も松平頼職も立ち止まり一礼する横を、徳川綱豊は立ち止まりもせず目礼もせずそのまま通り過ぎていきます。怒りを露わにする頼職と、それを止める綱教です。
紀州江戸藩邸に戻った頼職から話を聞いた松平頼純は、御三家に喧嘩を売るつもりかと大笑いします。綱豊という男をいっぺんに嫌いになったと顔を真っ赤にして怒る頼職の横で、綱教は今回の仕打ちは肝に銘じておかねばならぬと声を震わせます。「将軍にお成りの暁に、まとめて借りを返せばよい」と頼純は冷静です。
甲州江戸藩邸に戻った綱豊は綱豊で、大人げないことをしたと反省します。声をかけるつもりではいたのですが、綱教の顔を見ると積年の思いがそれを阻み、気が付けば背中を見せていたわけです。間部詮房は、吉保から側室に推挙の姫君を秋には送り込むとお達しがあったことを綱豊に伝え、熙子には奥向きの侍女の目通りを求めます。襖が開くと「喜世でございます」と手をついた女子がいました。
綱教の前で、鶴姫が琴を奏でます。その調べはとても物悲しく、参勤で江戸を去る綱教の胸にいつまでもいつまでも鳴り響いていました。紀州綱教公は、不安と焦燥の思いを残して江戸をご出立なされた。かかる正念場において1年の空白は痛手と申さねばなりますまい。それは鶴姫さまにとっても切ない1年でござった。物思いにふける鶴姫の横には、その琴が残されていました。
そのスキを突いたわけでもござるまいが、尾張藩主吉通公のご生母・本寿院どのは、さる日大奥をご訪問なされた。本寿院どのは先君綱誠公の側室でござる。大奥に足を踏み入れた本寿院は、右衛門佐の案内で鷹司信子と対面します。将軍後継に甲州紀州のみが取りざたされ、尾張家への言及がない今、将軍綱吉に当主吉通の拝謁を求めたのです。
尾張家が堂々と巻き返しを図ったことで、何か対策を討たねばなりません。頼職は、所詮尾張家は蚊帳の外と捨て置くよう主張しますが、頼純は水野重上に尾張家へ草を放つよう命じます。睨みつける頼職は、自分が綱教の留守を預かっているのだから従えと言わんばかりですが、頼純はわしが命じたのだとたしなめます。「控えよ! わしは綱教どのの後見人じゃ。先代よりしかと頼まれておる!」
さっそく尾張藩邸に踏み込む忍びは、湯殿で奥田主馬に背中を流させる本寿院の姿を目の当たりにします。本寿院どののご乱行は尾張家中にて知らぬ者はござらぬ。綱誠公ご逝去の後は手ごろな若侍を次々とご寵愛になり、出世の糸口をお与えでござった。
元禄末期の尾張藩は上も下もまとまりなく、風紀の乱れは目を覆わんばかり。その元凶はやはり吉通公を操る本寿院どのの淫奔(いんぽん)と専横にございましょう。ある人の申すには「水戸に殿あり、紀州に人あり、尾張に大根あり」 つまり水戸には立派な殿さまがござる。紀州には有能な家臣がござる。しかして尾張には……はっはっは。これはちと言い過ぎでしょうかな。
和歌山では頼方が家臣たちを引き連れてイノシシ狩りを行います。草むらから出てきたところ、自分に銃を向けられていることに驚いた頼方は、自分をイノシシと間違えたな? と笑って家臣たちは一様にうつむきます。獲物を見つけた頼方は猪を目がけて発砲しますが、弾は当たらず、頼方に向かって突進してきます。頼方は斧でイノシシを仕留め、名乗りを上げます。
和歌山城から中秋の名月を愛でる光貞は、長年尽くしてくれた礼に願い事を一つずつ聞きます。志保は大名の奥方同様、自分も余生は江戸で暮らしたいと言い、「それともうひとつ」と続けようとして光貞にたしなめられます。お紋の方は高野山にお参りに行きたいと申し出ます。高野山は女人禁制だと志保は横やりを入れますが、女人宿まで行って参詣すればいいと光貞は認めるつもりです。
千草は竹本座の人形浄瑠璃を和歌山に呼んでほしいと懇願しますが、志保も「おおそれそれ」と乗っかります。どうやら近松門左衛門の『曽根崎心中』が当たっているらしいのです。「あほ! そういう下世話な代物は儒学の教えに背きいたずらに人心を惑わすのみ! 風紀紊乱(びんらん)の元凶じゃ! 近松め軟弱な世相にこびへつろうて、とうとう売文の輩になり果てたか!」
はっはっは。光貞公はむちゃくちゃにこき下ろしまするなァ。『曽根崎心中』は、かく申す近松の傑作でござる。義理と人情のしがらみに儚く消える庶民の恋は、満天下の紅涙を絞って言やぁもう押すな押すなの大盛況。ところがでござる。頭の固いお役人と世間知らずの儒学者連中は はなからしかめ面にて、“世人を惑わす禍事(まがごと)”と、目を吊り上げ申す。
ご多分に漏れずこの人物も芝居狂言大嫌い。それがしの『碁盤太平記』をくそみそに申された、柳沢家の家臣にて高名なる儒学者・荻生徂徠どの。この日は綱吉公の命により、隆光大僧正と問答をなされた。まさに儒教と仏教との御前試合でござる。儒教と仏教の優劣は問わないが との綱吉の断りを踏まえて、隆光は仏教の、徂徠は儒教の観点から自説を戦わせます。
お互いの論説を戦わせていたその時、ガタガタと揺れが始まります。揺れは次第にひどくなり、花瓶は倒れ御簾は落ち、綱吉は吉保に抱きついて助けを求めます。元禄16年11月22日、関東は大震災に見舞われ申した。武家屋敷と言わず町家と言わず、軒並み潰れて死者3万の大惨事でござった。
さらに7日後の29日、小石川の水戸藩邸奥向きより出火。本郷・浅草・芝・高輪・駒込・両国・本所・深川から佃島まで燃え広がり、湯島天神・湯島聖堂・神田明神などが焼け落ち申した。紀州江戸藩邸では火の手を逃れて鶴姫も避難しますが、ハッと思い直して居室に戻り、大事な琴を持ち出させます。
江戸の大地震と大火は紀州にも伝わり申した。ちょうど頼職どのも和歌山に戻り3兄弟お揃いの時でござった。照子や鶴姫は無事とのことで、綱教は胸をなでおろします。頼職は江戸に戻すよう綱教に進言しますが、被害は紀州に限らないと江戸家老に任せることにします。綱教は小笠原胤次にありったけの金を集めさせ、米と材木を送るよう命じます。
長生きをすれば辛いことも多いと光貞はつぶやきます。光貞の話を聞くお紋は、遠き道にも楽しみがあり、ゆっくりとお歩きをと笑いますが、この足では三途の川も渡れぬと穏やかです。そこに志保が、江戸行きはご容赦をと言ってきました。江戸は恐ろしいと眉間にしわを寄せる志保の顔を見て、光貞は「そちの顔はもっと恐ろしい」と言って志保を呆れさせます。
頼方の部屋の障子を張り替える須磨ですが、そこに頼職が恐ろしい顔をして入ってきます。平伏する須磨の顔を指でくいっと上げさせると、志保から聞いていたのか、なるほど淫奔な顔をしておると鼻で笑います。たところで頼方が入ってきます。頼方が横取りした女を見に来たという頼職に、お叱りは自分が承ると正座して目を閉じます。「ご存分になされませ」
その態度に怒りが爆発したか、頼職は拳で頼方を何度も殴りつけます。頼方は抵抗せずされるままで、見ていられず震えながら止めに入る須磨ですが、「売女(ばいた)!」と吐き捨てて頼職は出ていきます。頼方は怖い思いをしたであろう須磨にニッコリ微笑み優しく謝罪します。須磨は懐紙で鼻血を拭き取ろうと手を伸ばすと、頼方は須磨を抱き寄せます。
綱吉公は諸大名・旗本に厳しい倹約令をお出しになり、全国の寺院にはご祈祷をお命じあそばした。ところが地震や洪水の災害はとどまるところを知らず、元禄17(1704)年正月にはとうとう浅間山の大噴火がござった。さて一方では、こうした騒ぎをよそに悠然と春を迎えた御仁もござる。
甲州江戸藩邸では熙子が花を活けていて、それを見つめる綱豊は「願わくば常に平常心を忘れず、この花のごとくありたい」と感じています。そこに現れたのは京より呼ばれた須免です。熙子は、須免の到来が甲州徳川家の福の神となりますように、と出迎えます。かくしてお須免どのは綱豊公第3の側室となり……。第3と申せば、詮房どののご献上のお喜世どのにお手がつき、2番目の側室になられたのでござる。
「禍福は糾(あざな)える縄の如し」「一寸先は闇」と申します。甲州藩に福の神来たると申すなれば、紀州藩に憑り付いたはまがまがしき疫病神でござった。2月半ばより体調をお崩しであった鶴姫さまのご容体が日に日に悪化し、憂慮すべき事態となったのでござる。参勤で和歌山から江戸に向かう綱教の表情は沈んでおり、大名行列全体がどんよりとした空気をはらんでいます。
紀州江戸藩邸に到着した綱教は、すぐに鶴姫の枕元に出向きます。夢ではないのですね とつぶやく鶴姫は、もはやほほ笑む気力すら残されていません。看病を続けてきた照子はそっと席を外します。「綱教さま……わたくしは……幸せでございました……お鶴は……紀州綱教の津まであること……誇りに思います」 そういって鶴姫は涙を流します。
この世のものとも思えぬまがごとの連続に綱吉公はついにたまりかね、元禄の御代の幕引きをご決意なされた。改元はこの年3月13日、新しい年号は「宝永」とお決まりでござる。されどその甲斐もなく、鶴姫さまは宝永元(1704)年4月12日、28歳のお若さでご他界あそばした。侍女たちは泣きじゃくり、綱教は天を仰いで放心状態です。
作:ジェームス 三木
音楽:池辺 晋一郎
語り・近松門左衛門:江守 徹
題字:仲代 達矢
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西田 敏行 (松平頼方)
賀来 千香子 (須磨)
大滝 秀治 (徳川光貞)
小林 稔侍 (加納久通)
山田 邦子 (お紋)
辰巳 琢郎 (徳川綱教)
野口 五郎 (頼職)
榎木 孝明 (柳沢吉保)
津嘉山 正種 (荻生徂徠)
黒沢 年男 (水野重上)
竜 雷太 (三浦為隆)
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斉藤 由貴 (鶴姫)
松原 智恵子 (鷹司信子)
五月 みどり (本寿院)
三林 京子 (志保)
中田 喜子 (右衛門佐)
草笛 光子 (熙子)
藤村 志保 (照子)
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名取 裕子 (喜世)
細川 俊之 (徳川綱豊)
藤岡 琢也 (松平頼純)
石坂 浩二 (間部詮房)
津川 雅彦 (徳川綱吉)
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制作統括:高沢 裕之
演出:尾崎 充信
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』
第13回「紀州の悲劇」
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