プレイバック八代将軍吉宗・(14)出世街道
おなじみ、近松門左衛門でござる。
さてお世継ぎのない大名が急に亡くなった場合、いかなることに相成り申すか。なんと幕府の規定によれば“相続人なし”とみなされ、領地は没収でござる。領地を失えば破産も同然、家臣や領民は路頭に迷いますな。これではあまりにひどすぎる。そこで救済措置として、「急養子」「仮養子」の制度がござる。
「急養子」とは大名死去の際、危篤を装って養子を決め、取り急ぎ届け出ればそれを認めるというもの。いわば駆け込み養子でござりまするな。しかし大名が“国元で”急死すれば届けが間に合いませぬ。さればでござる。お世継ぎなき大名は帰国のみぎり、いちいちこの『仮養子願』を提出するのが習わしでござった。国元で万一のことあらば老中がこれを開いて確認の上、養子相続を認め申す。まぁ一種の保険でござりますな。翌年何ごともなく大名が江戸へ戻れば、この届は密封のまま差し戻しと相成り申す。
さておのおの方、この仮養子願の儀は極めて重要でござる。先々のためにも何とぞお忘れなきよう──。
紀州3代藩主徳川綱教公は、宝永2(1705)年5月14日、和歌山城にてご逝去。享年41歳。御亡き骸は初代頼宣公の眠る下津・長保寺に運ばれ、17日間にわたる盛大な御葬儀が営まれ申した。なお綱教公のご法名は高林院殿。初代頼宣公の墓同様、墓碑に名は刻まれており申さず。
そのご法要の最中、幕府の上使として御小姓番頭・松平壱岐守どのが和歌山城にご到着なされた。頼職養子の届は綱教逝去の後に提出されており、上使松平定行はそこをズバリ指摘します。言葉を忘れたように動かない光貞の代わりに頼方がサッと出て、綱教逝去の3日前に和歌山を出発したものの、遠路ゆえに幕府到着が逝去後になったものと弁明します。
さらに、綱教が帰国する際に仮養子願を出さなかったことも、鶴姫の服喪中の養子願いは将軍徳川綱吉への礼を失するものと弁解。定行は頼職の紀州家相続は綱教の遺言に間違いないかと、後見役の光貞に念押しします。耳が遠く綱教逝去の衝撃が大きい光貞は何も発せず、頼方は光貞の耳元で念押しします。ごにょごにょ言うのを大げさに聞き取った頼方は、定行を見据えます。「お聞きの通り“相違ござりませぬ”」 フッと笑った定行は、了承します。
対面の場から下がった頼方は、光貞に土下座して非礼を詫びますが、三浦為隆も豊島半之丞も「お見事でござった」と笑顔です。これで紀州家は取り潰しを免れられそうです。フッと和やかになったとき、光貞は大声で「相違ない……」と叫んで皆の爆笑をさらいます。そしてそこに現れた志保は、頼職を藩主として推してくれたことに礼を言い、頼職にも言い聞かせると約束します。
紀州江戸藩邸に幕府からの上使が遣わされ、御養子願の許可を告げたのは6月18日でござった。頼職は神妙な顔つきで照子に手をつきます。ともかく紀州家の盛衰は4代藩主たる頼職に委ねられており、老臣の意見をよく聞いて短慮がないよう訓示します。照子は、藩主となった今こそ、しかるべき姫を頼職の妻にと話を持ち掛けます。
そこに慌てて駆けつけたのは松平頼純でした。頼純は「對山(たいざん)公……御不例!」と報告します。對山とは光貞のことで、不例とはその貴人の体の状態が通常でないことをいいます。和歌山から早馬で知らせが届き、11日ごろから病状が重いとのことです。照子は目の前が真っ暗になり、頼職も衝撃のあまり言葉を失います。
一方江戸城では、老衰の桂昌院さまがご重体でござった。枕元で綱吉は手を握って寄り添い、桂昌院に何度も呼びかけますが反応はありません。まだ昼間だというのに「もう夜か」とつぶやいた桂昌院は、眠るように息を引き取ります。綱吉は大粒の涙を流して悲しみます。6月20日、綱吉公ご生母・従一位桂昌院さまご逝去。享年82歳。ご遺体は芝・増上寺に手厚く葬られ申した。
そのころ和歌山城では、對山入道光貞公が重体に陥っておられ申した。頼方どのは岡の宮の神官に病気平癒の御祈祷をお命じなされた。さらに評判の高い医者を京・大坂より次々にお招きでござった。一方、紀州江戸藩邸でも照子さまが寝もやらず、必死の念仏を続けておられたのでござる。
父親が危篤だからといえ、幕府の許しがないまま藩主頼職が江戸を離れるわけにもいきません。頼職は3代藩主に続いて2代藩主の葬儀を弟の頼方に任せるのは納得できないわけです。頼職は内藤忠元に出立の準備を命じますが、うろたえなさるなと水野重上が引き止めます。頼職は「主命に背くは不忠なり! 切腹を申し付ける!」と足蹴にして出ていきます。
すぐさま頼職どのはわずかな家臣を引き連れ、強引に江戸をご出立なされた。駕籠での強行軍は頼職の体を蝕み、途中で駕籠を止めて嘔吐するありさまです。蝉がやかましく鳴く中、光貞はうわごとを言って苦しんでいます。そんな時、頼職が和歌山に到着しました。間に合ったかと志保は安堵した……のもつかの間、心労と道中の無理が重なって頼職はそのまま床に就いたそうです。
宝永2年8月8日、紀州2代藩主徳川光貞公は、和歌山城二の丸にて帰らぬ人とおなりあそばした。3代綱教公のご逝去からわずか3か月足らずでござる。お棺の葬列は14日未明、和歌山の明王院をご出立、午後には下津の長保寺にご到着。釈迦堂にて盛大なご法要が営まれ申した。またも頼方どのはご病気の頼職どのになり代わり、喪主の名代をお務めでござった。何としても藩主として葬儀に出ねばならぬ! と頼職は床上げを急ぎますが、数歩歩いたところでまた嘔吐してしまいます。
紀州第2代藩主徳川光貞公、享年80歳。ご法名は清溪院殿。学問を興し武芸を尊び、こよなく風雅を愛でて慈悲深く、家臣にも領民にも慕われる名君でござった。光貞逝去の知らせを書状で受けた照子は、「いま一度お目にかかりたかった」と落涙します。殿さまがご他界なされますると、正室も側室も院号で呼ばれ申す。ちなみに伏見宮照子さまはやがて髪を下ろされ、天真院とおなりあそばします。
さておのおの方、紀州家のご不幸はさらに続き申した。驚くなかれ、光貞公ご逝去からちょうど1か月後の9月8日、4代藩主徳川頼職公が薬石効なく26歳のお若さでお亡くなりあそばしたのでござる。何のたたりでござろうか、紀州家はわずか4か月の間に、2代、3代、4代の藩主を立て続けに失い申したのでござる。頼職の体に斑点が出ているのを発見した真如院(志保の方)は、何者かに毒を盛られたと口走ります。
小笠原胤次は、御膳奉行や料理方、侍女端女(はしため)に至るまで詮議させます。忠元は頼職が江戸を出立する際、帰国を諫めた重上に切腹を命じたことを報告し、為隆はことの次第が明らかになるまで口外を禁じ、禁足令を出して国境を固めさせます。「万が一、変死と分かればお家は断絶じゃ。家臣と言わず領民と言わず、みだりに出歩くことまかりならぬ!」 この日から32日間、紀州領内に戒厳令が敷かれ申した。無論のこと、国境の関所は出入り厳禁でござる。
呪われておるのか紀州家は? と頼方は頭を抱えます。9人の兄弟のうち8人が亡くなり、いずれ自分も死ぬかもしれないと頼方は震えます。悪霊が立ち込めていると刀を振り回す頼方の手から刀を奪い取り、加納久通は諫めます。「お見苦しゅうござる。仮にも藩主におなりの方が……なんたるお振る舞い! 恐れながら、天命にござりますッ」
9月12日、頼方どのは長保寺にて3度目の喪主をお務めでござった。4代藩主頼職公のご在位はわずか3か月、ご法名は深覚院殿。
その御葬儀の夜。浄圓院(お紋の方)に呼ばれた頼方は、神仏に向かって恥じることはないかと問われます。「ご安心くださりませ。この頼方に限って“卑怯”という二文字は、生涯無縁でござる」 浄圓院はホッと胸をなでおろします。
家臣たちに5代藩主として迎えられる頼方ですが、頼職の側近であった内藤忠元と渥美久忠が、頼職の死に疑念ありと言い出します。紛糾する家臣たちですが、頼方は大声で諫めます。「兄上のご逝去に不審の儀あらば、これを明らかにすべし! たとえご公儀のお咎めを受くるとも闇に葬ることあたわず。万が一、この頼方に不都合あらば腹を切って相果てる!」
ともかく、綱教逝去の際に仮養子願を出さず、急養子願も間に合わず、そこを無理やり幕府に認めさせただけあって、今回は幕府も難色を示す可能性が高く、頼方は紀州藩55万5,000石の命運をかけて江戸に行くと決意します。国家老の為隆を同行させると和歌山城は手薄になるため、頼方は須磨に母を頼むと依頼します。そして難局を乗り越え戻って来れたら、須磨を妻に迎えると約束します。
勝手に国元に帰り、勝手に死んでしまうとはおかしいと綱吉は顔をゆがめます。同様に遺憾に思う柳沢吉保は、どうするかを綱吉に指示を仰ぎます。紀州家は御三家の身分にあぐらをかいていると感じた綱吉は、やすやすと家督を与えるなと吉保に命じます。「たっぷりと灸を据えてやれ」
頼職の次は頼方と粛々と進めていた紀州家でしたが、月板老中秋元喬知が待ったをかけます。頼職逝去の委細を評定所で詮議するというのです。頼純はこれを食い止めるべく、井上大和守正岑(まさみね)に掛け合ってみるつもりです。心配していた天真院はホッと安堵します。井上大和守どのとは、この9月ご老中にご出世なされたばかりの御仁。常陸笠間45,000石のご城主にて、奥方さまは頼純どのの次女清姫さまでござった。
頼純と松平頼雄は井上邸に赴き、仮養子願は正岑が預かっていたと主張してほしいと頭を下げます。正岑は、老中としては新参者のためはかばかしい物言いは約束できないが、趣旨はしっかり取り次ぐと約束します。頼雄はふと、幕府の疑念が晴れなかったらと考えますが、御三家に限って断絶はないから、本家がダメなら分家と正岑は頼純か頼雄を推します。しかし頼純は笑って首を横に振ります。
10月4日、国家老三浦為隆どのを伴い江戸入りなされた頼方どのは、その足で敢然と一人柳沢吉保邸に乗り込まれた。厄介者である自分に家督が転がり込んできたのは、家光三男の綱吉が将軍家を継いだのと同じと指摘します。仮養子願の手続きに落ち度があったことは詫びつつ、家督相続が長引けば内乱を招く可能性ありと吉保を見据えます。吉保は「お手柔らかに」と笑います。
さっそくその翌日、幕府の上使が紀州江戸藩邸においでなされた。訪問したのは老中土屋政直と若年寄大久保忠増の二人です。紀州内蔵頭頼職朝臣、没前の願いによりその遺領を主税頭頼方朝臣に遣わしむ──。綱吉は紀州家の扱いを忠増に一任したそうで、政直は今後は忠増に相談するよう頼方に助言します。頼方は、政直や家臣たちに勧められるまま、上段に上がります。
夜、藩主就任の祝いがささやかに開かれます。頼純も為隆も重上も安堵の表情を浮かべ、腰が抜けるまで飲むぞと酒をあおりますが、ただひとり頼雄のみが憮然とした顔です。頼方は頼職の逝去に手を下した者がいないことを念押しし、祝着じゃ、と盃を傾けます。久通はただ黙って、歓喜の涙を流しています。
宝永2年12月1日、頼方どのは江戸城白書院にて綱吉公のご拝謁を賜り申した。藩主就任を機に頼方は「従三位左近衛権中将」に任じられ、綱吉は片諱を与えます。「あー、“吉宗”はどうじゃ? 伊達政宗の“宗”じゃ。徳川吉宗と名乗るがよい」
いよいよ徳川吉宗公のご誕生でござる。
作:ジェームス 三木
音楽:池辺 晋一郎
語り・近松門左衛門:江守 徹
題字:仲代 達矢
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西田 敏行 (松平頼方)
賀来 千香子 (須磨)
大滝 秀治 (徳川光貞)
小林 稔侍 (加納久通)
山田 邦子 (お紋)
辰巳 琢郎 (徳川綱教)
野口 五郎 (頼職)
榎木 孝明 (柳沢吉保)
柄本 明 (松平頼致)
黒沢 年男 (水野重上)
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三林 京子 (志保)
かとう れいこ (千草)
藤村 志保 (照子)
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藤間 紫 (桂昌院)
竜 雷太 (三浦為隆)
名古屋 章 (土屋政直)
藤岡 琢也 (松平頼純)
津川 雅彦 (徳川綱吉)
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制作統括:高沢 裕之
演出:大原 誠
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』
第15回「花嫁教育」
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