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2025年5月13日 (火)

プレイバック八代将軍吉宗・(18)報復人事

宝永6(1709)年1月10日、五代将軍綱吉公は在位のまま薨去(こうきょ)あそばした。享年64歳。死因は麻疹(はしか)でござったが、これには驚くべき異説もござる。すなわちこの『三王外記』にはなんと、御台所鷹司信子さまに刺し殺されたと書いてござる。将軍の座を家宣公に譲りたくない綱吉公はぐずぐずと隠居を引き延ばされ、再び柳沢吉里どの御落胤説を蒸し返したため、業を煮やした御台所が思い余って殺害に及んだ……と、事実この噂は江戸ちまたでまことしやかにささやかれ申した。

されど近松はこの説を採り申さず。前後の事情をつぶさに調べれば、やはり麻疹の後の不養生がたたったに相違ござらぬ。思うに……それがしが思うに、綱吉公は支持率の著しい低下にも関わらず、遮二無二権力の座にしがみつき、おのが健康を誇示せんがため床上げを急いで笹湯をお使いあそばした。この虚勢、この権力欲こそ、実は急逝の原因ではござるまいか──。


宝永6(1709)年1月。綱吉公の御遺骸は束帯姿で納棺。棺の底には300枚の黄金が敷き詰められ申した。葬儀は東叡山寛永寺で執り行うことになりました。生類憐れみの令も100年後まで続けよとの綱吉の遺言ですが、報告を受けた徳川家宣は「悪政は速やかに改めねばならぬ」と止める意向を柳沢吉保に示します。ただ家宣自身は世継ぎとして生類憐れみの令を守り抜くつもりです。

土屋政直ら老中たちと対面した家宣は、綱吉側用人の松平輝貞と松平忠周を解任します。吉保だけが側用人として残りますが、将軍への言上に側用人の取り次ぎは無用と決めます。さらに生類憐れみの令の即時撤廃、犬小屋経営の取りやめ、綱吉隠居所の建設の差し止めと次々に施策を発表します。江戸の町ではかわら版が飛ぶように売れ、魚屋も大はしゃぎです。うなぎ屋では民が列をなして大盛況です。

紀州江戸藩邸では、葬儀が終わらないうちに綱吉の政治を次々とひっくり返す家宣のやり方に、そうまでして人気を取りたいか? と徳川吉宗は激怒します。加納久通は、これから家宣の紀州藩への風当たりが強くなると危惧しますが、有馬氏倫はだからこそ家宣への進物をと進言していたのですが、吉宗は必要ないという立場です。「へりくだるに及ばず! 紀州には紀州の面目がある」

1月18日、御台所鷹司信子さまは髪を下ろされ「浄光院」とおなりあそばした。同じくお伝の方は「瑞春院」、大典侍どのは「寿光院」、新典侍どのは「清心院」となられた。

召し出された林 信篤は、綱吉の棺に刻む碑文を提出しますが、この起草文に疑念ありと感じた間部詮房は、新井白石に命じて別の碑文を提出させます。将軍家において長く侍講を務めてきた信篤にすれば耐え難い恥辱と吉保は反発しますが、家宣は信篤の碑文の書き直しを命じます。「しからば大学頭において文言を書き改めよ。ただし白石の起草文どおり一字一句たりとも変えること罷りならぬ」

愕然としたまま退席する信篤です。続いて吉保は、主綱吉の葬儀に際して剃髪し服喪の意を表したいと申し出ますが、詮房に控えるよう言われ、そうかとあっさり引っ込めます。しかし家宣は葬儀の折の剃髪は許さないが、葬儀が終われば吉保の思いに従ってきままにせよと命じます。上手の手から水が漏れ申した。これでは遠回しに隠居せよと申し付けられたも同然でござる。さすがにご苦労を重ねた家宣公が一枚上手でござった。

やがて御遺骸は東叡山寛永寺に送られ、28日に盛大なご葬儀が営まれ申した。朝廷からは慣例によって正一位太政大臣常憲院殿の諱(いみな)が贈られ申した。この時、御台所浄光院さまは重病の床に伏してござった。綱吉公と同じ麻疹にかかられた上、不運にも疱瘡を併発なされたのでござる。そして小雨降る2月7日、五代将軍の後を追うようにご他界あそばした。

 

一方、家宣公の周辺には、表向きのみならず奥向きにも新将軍にふさわしい吉事が訪れ申した。二番目の側室・お喜世が家宣の子を懐妊したのです。産み月は7月、将軍宣下の後となり、生まれながらにして将軍の子と胸を張りますが、三番目の側室・お須免は生まれたばかりの我が子・大五郎こそ将軍の跡継ぎとくぎを刺します。

そしてこちらは綱吉公ご側室の方々。改めて申すまでもなく、失意の日々をお過ごしでござる。先君綱吉の遺言を反故にし、新令の数々は面当てがましく、我が物顔で振る舞う家宣の側室の面々にも苦々しい限りです。あろうことか将軍宣下までは「御簾中」呼びのところ、すでに「御台所」呼びする無礼さは由々しき事態ですが、そもそもお伝の方はそれすら知らず、慌てて老中を呼びつけます。

瑞春院の怒りはすさまじく、詮房に御台所呼びを控えるよう通達が行きますが、有職故実に詳しい近衛基煕からの書状にはっきりと「御台所」と書いてあると、詮房は改める気はありません。伝えに来た小笠原長重は、偉うなったの! と詮房を睨みつけます。すったもんだの挙句、次のごとくお達しがござった。御簾中さま御事本日より御台所さまと称し奉ること。

綱吉の側室・家臣たちは疎んじられ、夜食少将もこれまでかと氏倫はつぶやきます。“夜食少将”とは吉保の異名で、諸大名から豪勢な夜食の差し入れがあったことから付けられたのです。俺は朝餉も夕餉も少々だ、と吉宗は羨ましがります。そこに西条藩家老の渥美勝之が現れ、新将軍就任の吉事で恩赦に合わせ、松平頼雄の赦免を求めます。西条藩の仕置きに口をはさむのは筋違いと考える吉宗は、閉じ込められて心身衰弱していると聞いて、久通に夜食を差し入れるよう命じ、その後西条江戸藩邸の頼雄を見舞いに訪ねます。

4月、松平頼純どのが知行地の伊予西条からお戻りになられた。吉宗はさっそく頼純へ頼雄のとりなしを求めますが、頼純は聞く耳を持ちません。己に厳しく身内に厳しくなければ家中に示しがつかないのです。たとえ無実であってもこれを覆せば、西条藩は真っ二つに割れる。治世とは必ずしも善悪を以て判断するものではなく、家の安泰のために目をつぶり白を黒と言わなければならない時もあると声を絞り出します。「これは後見人としての遺言とお心得願いたい」

5月1日、朝廷より勅使が遣わされ、将軍宣下の儀式がござった。これにて家宣公は名実ともに6代将軍とおなりあそばしたのでござる。6月3日、夜食少将柳沢吉保どの、ついにご隠居。かつては権勢をほしいままにした柳沢どのなれど、その後はひっそりと六義園に引きこもり、再び政治の表舞台に出ることはござり申さず。

それからの家宣公の治世改革は積年の恨みを一気に晴らさんばかりの勢いでござった。まずは賄賂禁止令。幕府高官への贈り物はこの草花1本といえどもまかりならず。続いて贅沢禁止令。この中には低俗な芝居を咎める項目もござり、近松としては不満もござるが、まぁそれはさて置いて。

酒の運上全面廃止は快挙でござった。運上とはすなわち税金のことでござる。近松がつらつら思うに、先代綱吉公は下戸でござった。ほとんど酒をお飲みにならなかった。その綱吉公がおかけになった運上を、家宣公が酔っ払って運上を取っ払って、温情をお示しになったのでござる。なんとも嬉しいではござらぬか。

江戸城に元気な赤子の鳴き声が響き渡ります。7月3日、左京の局・お喜世どのはめでたく男子を出産なされた。この若君は「鍋松」ぎみと名付けられ申した。将軍家宣は、この年になって2人の子に恵まれるとは不思議な気持ちです。自分の生涯をかけて清く美しい政治を目指すと宣言し、「そちの力も貸してほしい」と御台所熙子の手を握ります。

 

西条江戸藩邸では、勝之が頼雄の赦免を願い出ますが、頼純はやはり認めません。キリシタンである頼雄を許すわけにはいかないのです。勝之は正しい筋目は頼雄だと松平頼致を睨み、それでも諫言を続ける勝之を頼純が斬ります。斬れと命じる頼純、ご乱心じゃと叫ぶ勝之。そこに黙って立ち上がった頼致は、音も立てずに刀を抜きとどめを刺します。手には聖母マリアの十字架が握られていました。

勝之は頼純の娘婿でありながら、舅に手討ちにされたことは吉宗には衝撃です。妻と娘たちは屋敷内に蟄居を命じられ、勝之を唆(そそのか)した罪で切腹を命じられます。まかりならぬ! と吉宗は、西条藩邸に頼雄の身柄を引き取るよう久通に命じます。「叔父上にはかように申せ。頼雄どのはこの本家において、吉宗が預かると」

危うく難を逃れた頼雄どのは紀州藩青山屋敷にお預かりと相なり申した。頼雄がキリシタンという事情を知らない吉宗は、忠義の家臣を手にかけ実子を殺そうとするのか解せません。それがお家のためと説明する久通は、もし吉宗が理不尽な理由で手討ちにしたら、御意に従うと吉宗を見つめます。忠義の家臣とはどういうものか、吉宗は垣間見たような気がしました。

頼致は、懐紙に包んだ勝之の十字架を吉宗に見せます。吉宗は頼雄もキリシタンなのか頼致に尋ね、御意、と頼致が返答すると、吉宗は全身の力が抜けたようになります。その上で頼致は父の苦衷を察した上、そっとしておいていただきたいと頭を下げます。もし外に漏れれば紀州本家に迷惑が掛かるのです。吉宗は「だが切腹は許さぬぞ。頼雄もそなたもかけがえのない身内じゃ」と頼致に言葉をかけます。

 

家宣公は11月2日、雅やかに改装された本丸奥へお入りあそばした。これに伴い、御台所と側室の方々も颯爽と大奥へお引越しなされ申した。

勘定奉行荻原茂秀がかつて、幕府公金はわずか37万両で国費不足分180万両を捻出するにはさらに金銀改鋳の必要があると進言したわけですが、帳簿を改めた白石は37万両は一昨年の残金であり、昨年の収入分が計上されていないと指摘します。昨年の残金76万両を加えれば公金は110万両で、老中たちは話が違うと顔色を変えます。

勝手方への入金は遅れがちで計上できなかったと茂秀は苦しい言い訳です。「隠した覚えはござらぬ。見込みは見込みに過ぎぬと、さるお方が──」 老中たちは、“さるお方”が吉保であると瞬時に察知します。やはり吉保の才覚であったかと感じた家宣は、金銀改鋳の必要性を白石に尋ねます。「当分の間、ご無用と申し上げます」

江戸城の家宣に挨拶に出向いた吉宗は、子は授かったのかと痛いところを突かれます。水戸藩主綱條の嫡男吉孚が亡くなり、これで御三家はどこも後継ぎがいないという事態に陥ったのです。「まさかに備えて、くれぐれもお血筋を絶やしてはなりませぬぞ。はっはっは」と家宣は笑い、吉宗はムッとします。

家宣に促された詮房は吉宗に手をつき、財政立て直しのため御三家に貸し付けのうち3分の1の返済を迫ります。紀州藩には10万両を貸しつけているので、33,333両ということになります。家宣は涼しい顔で「何ぶんよしなに」という始末で、吉宗ははらわた煮えくりかえる思いで紀州藩邸に戻って来ました。

そんな金がどこにある! と寝床でも吉宗はご立腹です。将軍も藩主も代替わりしたのだからなしにしてくれてもいいではないか! と、真宮理子の呼びかけも聞こえません。それでも理子は勇気を振り絞って吉宗に懐妊したことを報告します。思わず聞き流しそうになって、む? と飛び起きます。「宮様! でかした!」と吉宗は理子を抱き寄せます。

 

作:ジェームス 三木
音楽:池辺 晋一郎
語り・近松門左衛門:江守 徹
題字:仲代 達矢
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西田 敏行 (徳川吉宗)
小林 稔侍 (加納久通)
柄本 明 (松平頼致)
すま けい (有馬氏倫)
榎木 孝明 (柳沢吉保)
寺泉 憲 (松平頼雄)
黒沢 年男 (水野重上)
鈴木 瑞穂 (林 信篤)
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名取 裕子 (喜世)
夏木 マリ (お伝の方)
松原 智恵子 (鷹司信子)
山崎 直子 (真宮理子)
床嶋 佳子 (大典侍)
草笛 光子 (熙子)
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藤岡 琢也 (松平頼純)
佐藤 慶 (新井白石)
名古屋 章 (土屋政直)
細川 俊之 (徳川家宣)
石坂 浩二 (間部詮房)
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制作統括:高沢 裕之
演出:尾崎 充信

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』
第19回「名君づくり」

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