プレイバック八代将軍吉宗・(20)論争の鬼
6代将軍家宣公は綱吉公の甥御にござるが、御存じ桂昌院さまに快く思われず、紆余曲折あってようやく世継ぎとなられたのが43歳。さらに永遠と待たされ、将軍職に就いたときは48歳でござった。
さればでござる。徳川幕府の将軍は初代家康公から15代慶喜公まで。この中で飛び抜けて在任期間の長いのが、この11代家斉公。なんと50年。第2位が我らが8代吉宗公の29年1ヶ月。第3位が4代家綱公の28年9ヶ月。第4位が5代綱吉公の28年5ヶ月。第5位が3代家光公の27年9ヶ月。これがベスト5でござりますな。
で短い方は、この下から数えて15代慶喜公1年、初代家康公2年2ヶ月、7代家継公3年、6代家宣公3年5ヶ月、13代家定公4年9ヶ月。ちなみに宮沢首相1年9ヶ月、細川首相8ヶ月、羽田首相2ヶ月、村山首相……ちょっとこれ、先走りすぎましたかな──。
宝永8(1711)年3月、お須磨の方は吉宗公の命により参勤交代のお供をして紀州江戸藩邸にお入りなされた。ご正室真宮理子さまは昨年ご逝去なされましたが、側室を正室に直すことは固く禁じられており申す。お須磨の方はあくまで側室でござる。江戸藩邸に入るや、お須磨の方は理子(寛徳院)の位牌に手を合わせます。
お須磨は紀州藩奥向きの総頭となるわけですが、そのような身分ではないと固辞します。吉宗は二度と正室を持たず、心の中では須磨を正室として考えています。二言目には“めっそうもない”というお須磨は、吉宗に野うさぎに例えられ、ピョンピョンと手を頭に当てて野うさぎの真似をして庭を逃げ回ります。「よし、俺は鷹じゃ。野うさぎに惚れた太めの鷹じゃ!」
さてこちらは尾張藩江戸屋敷。吉通公の御簾中・九条輔子さまがめでたくご嫡男をおあげでござった。この時吉通公のご生母本寿院どのは、目に余る不行状を幕府に注意され、四谷の別邸に遠慮の身でござった。五郎太誕生とあって面会を求めた本寿院でしたが、それも叶わず悔しい思いをします。なぜ吉通は家宣に取りなしてくれないのかと不満タラタラです。
侍女のお冬は「お恨みめさるべきはご家老衆かと存じまする」と本寿院に教えます。大奥にも出入りする商人がいて風紀も乱れているし、そういえば綱吉側室の右衛門佐も遊んでいたわけで、そもそも何をもって不行状と言うのかと疑問に思うのです。本寿院自ら家宣に訴え出ようと、奥田主馬を呼ぶようお冬に命じますが、対面を取り消したのは主馬であり、寵愛の家臣の裏切りに恨みを倍増させる本寿院です。
利口者の奥田主馬どのは、本寿院どのの夜伽(よとぎ)を務めて破格の出世に及び申したが、一旦吉通公のお気に入りとなるや、落ち目の本寿院どのに見向きもいたさず。五郎太誕生で家宣に褒められた吉通は、紀州には負けないと吉宗をライバル視します。能役者を側用人にするほど能を大切にする家宣の前で、吉宗の舞は“猪の盆踊り”とあざ笑います。
家宣はよほど綱吉嫌いと見えて、綱吉の政道を覆すことが多々あります。綱吉が切腹を命じた浅野内匠頭の弟・大学長広を取り立て、柳沢吉保と衝突して辞任した井伊なおかね(直該(なおもり)?)を再び大老に据えるなど、面当ても甚だしいです。ふと気を失って倒れそうになる松平頼純に、松平頼致が「家督はいつでも継ぎ申す」とニヤリとする中、加納久通がお須磨の懐妊を知らせに飛び込んできました。
この年4月、改元のお触れがござり、宝永から正徳へと元号が代わり申した。尾張家・紀州家におめでたがござれば、こちら将軍家にもおめでたあり。懐妊したお須免の方は大喜びですが、御台所熙子は表情を硬くしたままです。「きつく申しつけておく。くれぐれもお喜世と争いを起こしてはなりませぬぞ」
近松の思うに、我ら生きとし生ける者は全て、ご先祖様から子孫へと命をつなぐ中継ぎ役。いわば時をかける飛脚とでも申しますかな。こなたにご懐妊ご誕生の吉報あらば、かなたには儚く散ってゆく命もござる。
尾張江戸藩邸では、気分よく謡う主馬を奥女中月岡が胸を一突きして殺害します。成瀬隼人正は、刃傷事件ではなく主馬は病死したということにします。その報告を受けた本寿院は鍼を打ってもらいながら、「因果は巡る糸車、思い高ぶれば報いはある」とつぶやきます。寵愛の家臣を失った吉通は、茫然としています。
病床に臥す頼純を、吉宗は西条江戸藩邸に見舞います。頼純は頼致を含めて人払いをし、松平頼雄の件について打ち明けます。松平頼職卒去の折、吉宗を差し置いて頼雄を担ぎ出す動きがあり、逆上した頼純は何も知らない頼雄を廃嫡。わけもわからず親に見捨てられた頼雄はキリシタンに走った──。「藩主たる者、過ちを犯してはなりませぬぞ。じっくりと事の真偽を見極め、諫言と讒言を聞き分けねば」
人生の時が一時も休まず先へ先へと進む……決して後へは戻らない。光貞も自分も昔は若かったのだ、と頼純は悔し涙を流します。手を取った吉宗に、頼純は西条藩のこと、子どもたちのことを頼みます。松平頼純公は10月7日、西条藩江戸藩邸にてご他界なされた。御年71歳。ご法名「源性院殿」。
蟄居の頼雄のところに久通が赴き、頼純の葬儀が滞りなく済んだことを報告します。父は自分を許すと言ったのかと頼雄は久通を見据えますが、久通はそれには答えず、幕府はキリシタン禁制を強めるお触れを出したため、藩主吉宗と対面するには改宗の届がいると頭を下げます。しかしキリシタンをやめることなど、頼雄にはできない相談です。
将軍家にもご不幸がござった。8月にお生まれの若君虎吉どのが11月に早世なされたのでござる。人の世に、運不運は付き物でござるが、2人の若君を産みながらいずれも夭折の憂き目を見た、お須免どのの悔しさはいかばかりでござったことか。
お話変わってこの年11月、新将軍ご就任を寿(ことほ)ぐ朝鮮国より通信使の表敬訪問がござった。通信使とは、国と国との信義を通ずる使節にて、これは秀忠公の御代より習慣となった国際儀礼でござる。江戸城での謁見儀礼を担当したのは、太閤近衛基煕公の意を受けた新井白石どのでござる。白石どのはこの大任を果たすため、取り急ぎ従五位下筑後守に任じられ申した。
つつがなく家宣公の謁見が終わった後、ひと悶着が起こり申した。正使の趙 秦億(チョウ・テオ)は、謁見時に一段下がるよう求めたのは無礼だと白石に訴えたのです。白石は、これまでの応接に誤りがあったため、今回が正しいと主張します。朝鮮は、豊臣秀吉の侵略に対し文化で答えているとし、応接も朝鮮に見習うべしと返しますが、国によって趣が異なるのは当然と意に介しません。
続いて国書についてのいざこざがござり申した。いやいやお呼びでないのは百も承知でござる。念のため若干の補足説明をお許し願いたい。さればでござる。国と国との儀礼文書には、相手の国王の名前の文字を使わないのがしきたりでござった。ところが日本国からの返書にこの文字が入っており申した。朝鮮国の七代前は「懌王(えきおう)」でござる。
白石は、先例では親族の血は6代で絶え、7代以上の諱(いみな)は忌むに及ばずと主張します。しかし朝鮮側の言い分は、自分たちの国にそのような先例はないと突っぱねます。白石は即座に、朝鮮の奉書も諱を侵していると譲りません。「光」は三代将軍家光の諱であり三代前だというのです。趙は、この国書を朝鮮国王に取り次ぎいたしかねると白石を見据えます。
双方とも国の威信をかけて一歩も譲らず。ついに談判は決裂いたした。通信使一行は住むところ叶わざれば死すとも帰らじと、宿舎の東本願寺に引きこもり申した。いよいよ戦争かと巷の衆は怯えあがり、新井白石どのの応接のまずさを指摘する声も起こり申した。ありていに申せば白石どのは経費節減のため、今度の施設の待遇を格下げいたし申した。これがなおのこと通信使の機嫌を損ねたのでござる。
侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論が繰り返され、誰がどう修正したのか、やがて国書の一件は双方歩み寄り、朝鮮国は「光」の文字、日本国は「懌」の文字をそれぞれ削除いたすことで合意に達し申した。
吉宗の部屋前で控える侍女がくしゃみをし、それだけでも吉宗が飛び出します。部屋をウロウロして落ち着かない吉宗ですが、その時屋敷中に元気な赤子の鳴き声が響き渡ります。誕生を知らせる侍女と廊下で出合い頭にぶつかり、そこに付き従う侍女が次々と追突します。正徳元年12月18日、紀州江戸藩邸にてご嫡男誕生。吉宗公は28歳にして、ようやく父ぎみにおなりでござった。
吉宗公2度目のお国入りも、公費の倹約が藩政の眼目となり、ご多忙の日日が続き申した。幕府における年貢取り立て分は、家光の時代には6割超えだったものがついに3割を切り、吉宗はこの減収を私利私欲をむさぼる地主、代官、仲買人、米問屋の利ざやが著しいためと糾弾。紀州藩は4割5分ではありますが、なお一層の目配りを家臣たちに求めます。
吉宗公は中条平助をご近習番に登用なされた。平助はこの1月に亡くなったおかかりびと、聞是院(=千草)どのの甥でござる。庭では浄圓院と真如院が仲良く草むしりです。孫は丸々太って達者と聞き、浄圓院はニッコリ微笑みますが、真如院は涙ぐみます。「長福丸どのは頼職の甥じゃ。大切に育ててくだされ」 平助はみみずに驚いて尻もちをつきます。
さて朝鮮通信使の応接で味噌をつけた新井白石どのでござるが、家宣公のご信頼はいささかも揺るがず。今度は勘定奉行荻原重秀どのの粛正に剛腕を振るい申した。金銀改鋳で重秀が不正に得たのは26万両と白石が糾弾し、老中たちも開いた口が塞がりません。君命に背き改鋳を続けたのは国を救う窮余の策と弁明する重秀ですが、白石は重秀を不忠者と断じます。9月11日、荻原重秀どの罷免。
“鬼の白石”は、鬼は重秀であって自分は桃太郎と例えますが、重秀を討ち果たせず罷免に留めたのだけは残念でなりません。確かに重秀の罪は許せないが、財政を支えてきた功労者でもあります。白石はそれを差し引いても天下の大悪人と手をゆるめません。その時家宣は急に倒れ、間部詮房は近習に医者を呼ぶよう命じます。
家宣公は夏ごろよりご気分すぐれず、せきと微熱にお悩みでござった。されど端正にしてご実直なるご気性ゆえお顔には表さず、じっとご辛抱あそばしたご様子。冷静な熙子は詮房に家宣の容態を聞き取り、詮房は肺の臓を侵され容易ならぬ容態と報告します。自分の容態に気付いていた家宣は、詮房と白石に後を託したそうです。「無念なれど天命ならば致し方なし、と」
江戸屋敷から早馬が到着しました。書庫で貝原益軒の『大和俗訓』を手に取り、じっと読んでいた吉宗に、久通が伝達に来ました。老中井上正岑からの内々の通知で、将軍家宣が重病──。「近々に矜持これあるべし、と」と正岑からの伝言で、読む目を上げて久通を見つめる吉宗は、そっと『大和俗訓』を閉じます。
作:ジェームス 三木
音楽:池辺 晋一郎
語り・近松門左衛門:江守 徹
題字:仲代 達矢
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西田 敏行 (徳川吉宗)
賀来 千香子 (須磨)
小林 稔侍 (加納久通)
山田 邦子 (浄圓院)
柄本 明 (松平頼致)
堤 真一 (徳川吉通)
寺泉 憲 (松平頼雄)
黒沢 年男 (水野重上)
竜 雷太 (三浦為隆)
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三林 京子 (真如院)
五月 みどり (本寿院)
草笛 光子 (熙子)
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細川 俊之 (徳川家宣)
名古屋 章 (土屋政直)
佐藤 慶 (新井白石)
藤岡 琢也 (松平頼純)
石坂 浩二 (間部詮房)
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制作統括:高沢 裕之
演出:清水 一彦
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』
第21回「将軍は四才」
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