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2025年6月13日 (金)

プレイバック八代将軍吉宗・(22)裏工作

「わたくしは武蔵国川越在 駒林村のフメと申します。薬売りの夫勘五郎が行商に出たまま戻りませぬので、案じておりましたところ、近くの川で水死人があったと聞き、行ってみますとこれが夫の変わり果てた姿にござりました。お奉行所のお調べによりますれば、夫を殺して金を奪ったのはわたくしの父と兄でございました。親に夫を殺されたわたくしは、どうすればよいのでござりましょうか」

これは正徳年間に起きた実話でござるが、下手人の死罪は当然としても、実の親を訴えたこの女に罪ありやなしや。つまり親の罪を暴いてよいかどうかで侃々諤々(かんかんがくがく)、ついには名高い学者の論争にまで及び申した。

こなた朱子学の最高権威・林 大学頭どの。片や“論争の鬼”・新井白石どの。「この後は隠すべきもの、もし薬売りの妻は下手人の何びとかを承知の上で訴えしものならば、ただちに死罪に処すべし」「されど夫人には三従の教えあり、家にありては父に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従えと申す」「子が親に背いてよいならば、家臣もまた主君に背いてよいことになる」「子にとりては父が天なり」「父は天下にただ一人」「つまりこれでは夫が天なり」「夫は何人でも代えられ申す」「しからばこの女、父が下手人と分かりしみぎり、いかがいたせばようござりましたか」「親を諫めるべく、自害して果てればようござった」「商人の妻でござれば、そは望むべきにあらず」

いかがでござるかな、ご婦人方。実家が大事か婚家が大事か。これはいつの世にもなかなかの難問でござりまするな。さて、それがしが大事は!(と小女を差し)これでごじゃる──。


正徳3(1713)年・夏。死者の菩提を弔わせよと白石が言い出し、結局、薬売りの妻・フメは尼寺へ送られます。須磨はよかったと胸をなでおろしますが、吉宗は林 大学頭の考えに近く、いかなる事情でも法は法だと聞きません。須磨はフッとほほ笑みます。「殿はいつも仰せになります。法は人のために作られていると。いたずらに刑罰を与えるものではないと」

ご老中・井上正岑どのは大の紀州びいき。それもそのはず、西条藩主頼致(よりよし)公の義兄にあたるお方でござる。老中の大久保忠増が7月に亡くなり、紀州藩にとっては大きな痛手でした。しかし後任の久世重之は側用人政治にむき出しの敵愾心(てきがいしん)を燃やす人物で、いずれ気脈を通じたいと吉宗は正岑に仲介を依頼します。

そんな正岑は、廃嫡された西条藩の松平頼雄の処遇について、尾張藩家老が頼雄廃嫡に目をつけ、密かに聞き込みをしているようだと吉宗に伝えます。8月9日、不遇の貴公子頼雄どのは、和歌山へご出立なされた。吉宗公の命によりご本家お預かりとなったのでござる。
音にのみ
 ありと聞きしを 夢ならで
  渡らんものか 木曽のかけはし 頼雄

将軍家継5歳、尾張五郎太4歳、紀州長福丸4歳。子どもが政治をできないのをいいことに、側用人や大奥が実権を握って身勝手な振る舞いをしているため、ここは水戸藩主徳川綱條と自分が力を合わせて政道のゆがみを正したいと吉宗は綱條に訴えます。しかし綱條は、間部詮房は江戸城に泊まり込んで政務を行うほど身辺清く、正室側室も持たず女子には興味を持たないと、月光院とのうわさを完全否定します。

吉宗が言いたいのは、家継は病弱で、“転ばぬ先の杖”で先行きのことを前もって決めていく必要があるということです。将軍家に世継ぎがない場合は水戸の意向を重んずるべしという権現家康の遺言もあり、成り行きによっては吉宗は8代将軍に綱條を推挙すると説得しますが、埒もない、と綱條は大笑いして話をはぐらかします。

 

9月19日、吉宗公にご次男誕生。ところがあいにくのご難産にて若君は間もなく息を引き取られ申した。廊下をドタバタと走って須磨のもとに駆けつけた吉宗は、起き上がって謝罪する須磨の手を握り、須磨さえ丈夫であれば子はまたできる、と励まします。「しっかりと養生せい。俺のためにも……紀州家のためにものう」

水野重上の報告では、尾張家では五郎太のことで重臣が朝廷に働きかけがなされているようです。五郎太の母は九条家出身で、五郎太に将軍職を継がせるべく養育に力を入れるつもりなのです。それに対して長福丸は4歳にしてオムツが取れず、物言いも定かならず、到底お世継ぎの器ではないと、頼致が言いにくそうにぼそぼそつぶやきます。

夜、廊下を歩く吉宗は、庭に隠密が身を潜めているのを横目で見ます。そうとは知らず屋敷内をコソコソと移動する隠密を吉宗は捕らえますが、くぎを投げつけられ、吉宗がひるんだスキに逃亡します。尾張の家老を召し出せと大激怒の吉宗に、有馬氏倫は冷静です。「それには及びませぬ。氏倫に策がござります」

10月18日、尾張藩邸にてまたも大事件勃発。幼い藩主・五郎太どのがにわかに血を吐いて人事不省に陥り申した。その理由はさすがの近松も存じ申さず、いや存じておっても申し上げかねる。家老に抱かれて運ばれる五郎太ですが、そのまま息を引き取ります。これで尾張藩は徳川吉通、五郎太と2代にわたって亡くなったことになります。

おいたわしいと月光院は表情を曇らせます。五郎太が亡くなって得をするのは紀州家と言う江島は、そういえば紀州家でも綱教が亡くなって3ヶ月後に頼職が亡くなったと思い出します。詮房は軽々しい物言いは慎むようたしなめますが、月光院は家継の身辺警護を厳重にし、お毒味も怠らないよう江島に命じます。

仇討ちのために挙兵して紀州屋敷へ行けと命じる本寿院ですが、成瀬隼人正は大名間の私闘はご法度だし、それよりも藩主相続を急がなければと、分家を相続した松平通顕(みちあき)を本家に戻して将軍の座を尾張に導きたい考えです。本寿院は隼人正らの謀略かと疑いをかけ、隼人正は本寿院を睨みつけます。「お取り乱しは見苦しゅうござる。お家のためを免ずるならば、とっとと名古屋へお帰りなされ!」

殺せとは言わなかったぞ、と吉宗は氏倫を問い詰めます。しかし氏倫はそれには答えず、長福丸を将軍にしたいかしたくないかと見据えます。将軍の座は座して待つものではなく、奪い取るもの──。毒を盛ったのだな、と吉宗の中で疑いが確信に変わりますが、「そのお尋ねには一度だけお答えいたします。それがしは存じませぬ」

 

さて、尾張家を打ちのめした死神は、何の因果か紀州家にも襲いかかり申した。吉宗公最愛の側室・お須磨どのは、ご難産の後ご容体すぐれず、ひと月病床に伏したままご危篤となられたのでござる。目を覚ました須磨は、紀の川で吉宗と出会ったころのことを夢に見ていました。「須磨、幸せにござりました……長福丸を……何とぞ」とつぶやき、息を引き取ります。

10月24日、お須磨どのはついに帰らぬ人となられた。尾張五郎太どののご逝去からわずか6日後のことでござる。ご葬儀は池上本門寺にてしめやかに行われ申した。享年27歳。諡(おくりな)は「深徳院」。吉宗は長福丸を膝に乗せ、諭します。「たくましゅう育てよ。きっと母上は天から見ておるぞ。寝小便はするな。わがままを言うてはならぬ。わかったな」

尾張徳川家の家督は、ご分家の通顕どのがご相続なされた。吉通公の異母弟にて、五郎太どのの叔父御にござる。詮房は上様から片諱を賜ると通顕に告げます。しかし家継は後ろを振り向き、詮房に「誰が上様じゃ? 詮房が上様か?」と不満げです。上様の代わりに申し上げておりますと慌てる詮房です。尾張藩主通顕どのは、将軍家継公の一字を頂戴いたし、この日より「継友」公とおなりあそばした。

詮房は天英院に“人品卑しからず学問にも優れなかなかのご器量”と継友の人となりを説明し、8代将軍でも不思議ではないと推します。しかし天英院は亡き家宣の遺言は“吉通と五郎太”であり、継友という名は出てこないと公平な判断です。詮房は継友を吉通や五郎太の名代と考えればあり得るのではないかと食い下がりますが、それでは紀州藩が黙ってはいないだろうとため息をつきます。

気になる吉宗ですが、豪快な気性、武芸にも優れ胆力も並々ならぬ人物と詮房は評する一方で、学問を好まず風流のたしなみもなく、嫡男は発育が遅れていて、前途多難だと天英院はつぶやきます。こうなった上は家継公を守り、7代将軍の御代をずっと支えていくことが大事だと詮房は言いますが、大きく頷いた天英院は「そのためにも月光院の専横をたしなめねばならぬ」と詮房をけん制します。

確かに、宿直の若侍の部屋に櫛や笄(こうがい)が落ちていたり、長局に入った医者が半日も出てこなかったり、局同士の大ゲンカと、大奥の風紀は乱れています。月光院は、これまでとは事情が違うと身を乗り出します。生身の女が700人いる大奥で、これまで5代6代将軍まではお手付きの可能性もあり、化粧にも習い事にも張り合いがあったわけです。

しかし今の将軍は5歳の童で華やぎようがなく、物見遊山や芝居見物など多少の遊びは見過ごしてほしいとかばい立てします。なるほど、と詮房は盃を傾けます。それにしても女は魔物だと詮房はつぶやきますが、月光院は詮房をちらりと見ます。「詮房どの。お忘れくださいますな。この月光院も女でございますよ」

広敷御錠口を通っていく長持(ながもち=衣類収納に使用された木箱)に、番人がまったをかけますが、侍女は大奥取締の江島の長持を調べるとは無礼な! と反発します。結局言い切られてみすみす通してしまうわけですが、月光院の居室でその長持から出てきたのは、山村座の歌舞伎役者・生島新五郎でした。月光院は目を輝かせ、「粋な趣向じゃ。褒めて取らす」と江島を称賛します。その夜、大奥にて何がござったか不調法ながら近松は存じ申さず。

 

老中から元号に「正」の字を使えば不祥事が多く不吉だと年号改元の申し出がありますが、詮房に召し出された白石は、「正」が不吉なら毎年の正月もめでたくないと笑います。そもそも元号は天皇崩御や天変地異の折に改めるもので、この際に改めれば正徳年間は悪しき御代と後世に語り継がれる恐れがあります。

土屋政直は林 大学頭の説として、鎌倉幕府が滅びたのは正慶2(1333)年、足利幕府が滅びたのは天正元(1573)年と食い下がりますが、白石は、鎌倉幕府には「正治」「正嘉」「正元」「正応」「正安」「正和」「正中」「正慶」と8度も「正」の字が使われているのに、7度目までは滅びず、8度目に滅びたのをもって年号のゆえというのは合点がいかないと突っぱねます。

しかも室町幕府にも「正平」「正長」「寛正」「文正」「永正」と5度ありますが、格別な不祥事があったわけでもなく、足利幕府が滅びたのは天正元年ではなく、正しくは元亀4(1573)年7月3日のことであると大笑いされます。申請した政直や正岑は、次々と論破されてしまうありさまに身を小さくしています。

かくて年号は変わり申さず。吉宗公は正徳4(1714)年の正月を赤坂藩邸にてお迎えでござった。御年31歳。吉宗から側室を探せと命じられて加納久通が連れてきたのは、須磨の又従姉妹(またいとこ)で竹本正長の三女・お古牟(こん)です。久通は、体が丈夫で焼きもちを焼かない女がいいという条件を再確認します。「申されましたな。“見かけはどうでもよい”と」

そんなにひどいのか? と表情を曇らせる吉宗ですが、とにかく尻が大きく、乳房も大きくゆさゆさと揺れるほど。吉宗に「見たのか?」とつっこまれて慌てて否定する久通です。吉宗はとにかく対面することにします。「久通……よく見れば、ところどころかわいいの」と吉宗が言い、お古牟はうつむき照れています。

政直と正岑と杯を傾ける吉宗は、かつて家光公には知恵袋・松平伊豆守が、綱吉公には剛毅な堀田正俊がいましたが、こうした天下のために一身を投げ打つ重臣がいる中で、昨今の老中は役者上がりの側用人に籠絡され、牙を抜かれた狼同然と嘆きます。「ありがたく承りました。が、まずは我らが細工をとくと御覧じあれ」と、政直は吉宗を見据えます。

そして1月の末、こちら江戸城の大奥にて、天下を揺るがす大疑獄事件の幕が切って下ろされ申した。いよいよ満を持していたご老中側の逆襲でござる。目付・稲生次郎左衛門は、江島が増上寺へ代参の際に山村座で芝居見物したことを問題視し、詮議のために評定所へ江島を同行させようとします。

江島は月光院の許しを得てのことと弁明しますが、次郎左衛門は申し開きは評定所でと耳を貸しません。「後で悔やむでないぞ、いったいどなたの差し金じゃ!」と江島は声を荒げますが、次郎左衛門は問答無用で江島を連行します。そして江島が詮議されることを聞いた月光院は、身の程知らずがと怒りをにじませます。

 

作:ジェームス 三木
音楽:池辺 晋一郎
語り・近松門左衛門:江守 徹
題字:仲代 達矢
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西田 敏行 (徳川吉宗)
賀来 千香子 (須磨)
小林 稔侍 (加納久通)
柄本 明 (松平頼致)
すま けい (有馬氏倫)
寺泉 憲 (松平頼雄)
秋野 太作 (阿部正喬)
羽賀 研二 (徳川継友)
黒沢 年男 (水野重上)
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名取 裕子 (月光院)
細川 ふみえ (お古牟)
あべ 静江 (江島)
五月 みどり (本寿院)
草笛 光子 (天英院)
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佐藤 慶 (新井白石)
鈴木 瑞穂 (林 信篤)
山本 圭 (徳川綱條)
名古屋 章 (土屋政直)
石坂 浩二 (間部詮房)
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制作統括:高沢 裕之
演出:内藤 慎介

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』
第23回「江島生島」

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