プレイバック八代将軍吉宗・(23)江島生島
さればでござる。ご幼少の家継公を擁して幕府の実権を握りしは、まあ何と申しましても側用人の間部詮房どの。これを理論で支えたのが新井白石どのでござる。お二方とも6代将軍の腹心にて、私利私欲とは無縁の人格者。家宣公のご遺命をよく守り、清潔な政治を目指して献身的な努力をなされたのは揺るぎない事実でござる。特に白石どのは、風俗の共生、貨幣制度の安定、貿易の管理など次から次へと建議書をしたため、いわゆる「文治政治」の基礎を築かれ申した。これについては近松も大いに賞賛いたしとう存ずる。
さりながらいかなる人物にも弱点はござり申す。間部詮房どのは月光院さまとのみだらな関係を取り沙汰され申した。新井白石どのは“論争の鬼”と言われ、傲岸不遜(ごうがんふそん)の気性を憎まれ申した。“出る杭は打たれる”の例えあり、特に誇りを傷つけられたご老中の方々は、間部・新井連合軍を快く思わず、ひそかに包囲網を固めつつござった。
そしてついに正徳4(1714)年春、思わぬところから火の手が上がり申した──。おおっと、こちらも火の手が……大変だこりゃ……あちっ!
正徳4(1714)年1月12日、大奥取締の江島どのご一行は、芝増上寺代参の帰り、木挽町(こびきちょう)山村座に立ち寄って芝居を御見物。幕間(まくあい)には借り切った2階桟敷席に看板役者生島新五郎らを招いて、すこぶる派手にご遊興なされた。盃を傾けている間に、舞台を終えた新五郎や中村源太郎、滝井半四郎が桟敷席に入って来て、江島はじめ女たちは色めき立ちます。
その夜、江島どのが大奥に戻られたのは酉の下刻(18:30ごろ?)。門限をとうに過ぎており申した。門を叩き、門番にこっそり開けてもらった江島たちはこっそり入っていきますが、袖の下を渡すことは忘れません。しかしその様子を大奥内の別の女が見ていました。この江島どのをはじめ、代参のお供を務めた奥女中や添え番ら60人ばかり、公儀目付に呼び出され取り調べを受けたのは1月の末でござった。
幕閣の中では珍しく間部派の月番老中・秋元喬知は、江島と宮路はとりあえず謹慎とし親戚預かりとしたことを伝え、評定を手加減すべきかどうかを詮房に尋ねます。仮に江島に罪があれば月光院にまで累が及ぶわけですが、大目付・目付・町奉行の三掛かりで、すでに芝居小屋や座元、役者、手引きをした御用商人まで詮議しているとあって、喬知が老中といえども太刀打ちできそうにありません。
月光院は憔悴し、詮房に助けを求めるべく探し回っています。詮房はそのころ、この不祥事について天英院に報告に上がります。「げに忌まわしきことよのう」と嘆く天英院は、月光院が“存分に取り調べよ”と言った(と言わざるを得なかった)と聞き、大奥だからといって政道を曲げるのはもっての他と厳しい表情です。「罪は罪として厳しく吟味いたすがよい」
2月9日、木挽町山村座の座付き狂言作者・中村清五郎牢屋入り。2月12日、同じく山村座立役者・生島新五郎牢屋入り。「石抱(いしだき)」にされた新五郎は、山村座の桟敷席での出来事をはじめ、年末に長持に身を忍ばせて大奥に入り、“さる御方”と情交を遂げたと取り調べを受けます。表情を一変させた新五郎ですが口を割らず、さらに石を重ねて拷問します。
老中ごときが何の権限があって私に恥をかかすのか! と月光院は激高します。詮房は新井白石のいうように、事の推移をよく見据え相手の罠に落ちないことが肝要だと月光院を諭します。1か月後には従三位叙任の儀式を控え、月光院は支度のために江島らを返せと詮房に訴えますが、今は動きが取れません。自分は7代将軍の生母だと叫ぶ月光院を、詮房は突っぱねます。「もとより承知! 致し方あるまい」
よいところに目をつけたと、徳川吉宗は土屋政直に話しかけます。大奥取締をつぶせば月光院は手足をもがれるも同じことで、月光院が窮すれば詮房は立ち往生となるわけです。ニヤリとする政直に、吉宗が先日ぶつけた“老中は腰抜け”という発言を、自分の心得違いだったと謝罪します。笑って立ち去る吉宗の後ろ姿に、政直は我が意を得たりとまたもニヤリとします。
幕府内部の犯罪を裁く評定所は和田蔵門外にござり、ご老中の直轄でござった。すでに新五郎らへの拷問により白状を取り付けている目付・稲生次郎左衛門らは、江島に対しても厳しい詮議を続けますが、新五郎の情交の相手が誰かという問いには、江島は頑として口を割りません。
詮房は政直と対面し、評定所でも将軍生母を裁くことは許されないと脅します。月光院を罰すれば首座の天英院も罰せなければならないわけです。政直は、この期に及んで法を曲げるわけにはいかないし、自分は粛々と職務を果たしているに過ぎないと涼しい顔です。「しからば将軍を守り天下の動乱を未然に防ぐも老中の職務、ご存念の次第はこの詮房の胸にしかと留め置きまする」
紀州藩邸の吉宗は、芝居の何がおもしろい? とバカにします。傍らのお古牟は長福丸を抱きながら、女子の好きなものとして“芋・たこ・なんきん・芝居・こんにゃく”と吉宗に教えますが、わたくしはタコのほうが、と言って吉宗に笑われます。そこに新五郎が流罪になったと報告が上がりますが、侍女たちは一様に涙にくれます。「羨ましいのう……生島が」
3月5日、月番老中を待ち受けたかのごとく、早くも判決が下り申した。大奥元年寄江島は島流し、江島に連座して500石取りの異母弟白井平右衛門は小塚原にて斬首、250石の弟豊島平八郎は重追放──。老中の意気込みが感じられる判決に、詮房は手も足も出ず。天英院がどう出るかが吉宗の気になるところです。
ついに江島事件は連座1,500名に及ぶ大疑獄事件と相なり申した。たまらず月光院は天英院に助けを求めますが、風紀の乱れは忠告したはずと月光院を突き放します。心静かに写経でもと勧める天英院に、江島に慈悲を求める月光院は「けなげにも江島はわたくしの罪を全てかぶっております……いま江島を見捨てれば神仏の罰が……良心の呵責に一生苦しみまする」と号泣します。
そして御礼儀式の翌日、お白洲に引き出された江島は八条紬(つむぎ)を着ており申した。島流しは覚悟という心意気にござる。江島の長年のお務めが殊勝であると認め、遠流(おんる)の仕置きを伊那高遠藩内藤駿河守に預けて蟄居と減刑されます。憐れ江島は3月26日、信州伊奈の高遠に送られ申した。この時34歳。
まったくけしからん! お待ちあれ。近松の腹立たしきは、その後の成り行きでござる。ご公儀は江島事件にかこつけて、芝居の取り締まりを強化なされ申した。まずは山村座のお取り潰し。寺社境内における興行の禁止、芝居小屋の2階3階桟敷の禁止、すだれ・幕・屏風の禁止、桟敷と楽屋をつなぐ通路のお取り壊し、河原者の贅沢な服装禁止。笑い事ではござらぬ。かかる手ひどい仕打ちがまたとござろうか?
さればでござる。そもそもことを引き起こしたのは大奥のお女中と利権に群がる出入り商人ではござらぬか。役者の色ごとに何の罪がござる? 笑止千万!
吉宗が暇乞いの挨拶に江戸城黒書院で将軍徳川家継と対面したところ、ご機嫌がよかったらしく人形をいただいたそうで、紀州藩邸に戻った吉宗はさっそく長福丸にあげます。いきなり動き出した人形はゼンマイ仕掛けのようで、長福丸は驚いてお古牟の胸に飛び込み、理系脳の吉宗はその仕掛けに床に這いつくばって興味津々です。
正徳4年4月、吉宗公は3度目の参勤交代で紀州にお帰りなされた。この年、和歌浦東照宮の祭礼は例年にない盛り上がりでござった。それもそのはず、紀州藩の財政は家臣と領民の努力が実り、奇跡的な回復を遂げており申した。吉宗公は下津の長保寺を訪れ、紀州家代々の藩主のお墓にその喜びをご報告あそばされた。
吉宗は勝手掛の大島伴六を評価し、500石の禄高を倍増します。伴六の手腕で幕府に10万両を返済し、家臣からも知行を借り上げることもなくなりました。財政立て直しの秘策を問われた伴六は、倹約令の実行、灌漑(かんがい)工事の成功、定免制の定着を挙げます。紀州藩はよい家臣を持ったということだと、吉宗は家臣に対して頭を下げます。
夜、吉宗と将棋を指す三浦為隆は、尾張継友との戦いに勝つには身辺を少しも曇りがないようにと進言します。その上で、和歌山預かりとしている松平頼雄(よりかつ)について、器量が優れている頼雄が屋敷に人を集めて政治談議をする一方で、キリシタンの話もしているらしく、「ご城下には尾張の密偵も忍び込んでおりますれば、ご用心なさるにしくはなし、と存じまする」
吉宗公の従兄弟にてご尊父頼純どのに廃嫡された頼雄どのは、紀州の川合屋敷にお預けの身でござった。吉宗は川合屋敷に赴き頼雄と対面します。吉宗が遣わした女を帰すなど、女遊びを絶つ頼雄には、吉宗の下知に従い紀州藩の役に立ちたいという悲願があるわけですが、吉宗はそれを逆手にとって田辺に逗留を勧めます。
その言葉に衝撃を受け、頼雄が邪魔かと反発しますが、吉宗は表情を変えません。「今は邪魔でござる。一旦ことある時には必ず声をかけ申す。それまでは当分、ご辛抱願いたい」8月、どこまでも悲運の頼雄どのは、田辺秋津村の寶満寺(ほうまんじ)に預けられ、八丁四方を限りに足止めと相なり申した。
その秋吉宗公は、幕府お抱えの朱子学者・林 大学頭信篤どのを公然と江戸よりお招きなされた。これは将軍の座への前向きの姿勢とも読め申す。吉宗は信篤に君主の美徳について尋ねます。まずは質素、次に寡黙──。君主の言葉は変幻節句、一言で家臣が右往左往するわけです。質素は得意ですが、おしゃべりな吉宗は書き物をして推敲を重ねることを勧められます。
一念発起した吉宗公は、この年『紀州政事鑑』『紀州政事草』を執筆なされた。エゲレス語で申さば、紀州藩政のマニュアルにござりますな。当家においては子々孫々まで奢るべからず、町人百姓には決して倹約申し付けまじきこと。酒は30歳まで嗜むべからず。それを書き取る家来は泣きそうな顔になりますが、祝い事、出陣時、寒い時も飲んでいいと言われて顔をほころばせます。
吉宗は浄圓院に、小姓の田沼専左衛門と中条平助に肝試しした話をします。暗い夜に湯殿にカミソリを取って来させたところ、平助はなかなか戻って来ず、業を煮やした専左衛門が瞬く間に取って帰ってきたのです。平助は、カミソリは光るものだから暗がりに腰を据えてじっと目を凝らしていたのですが、専左衛門は湯殿で四股を踏み、棚から落ちたカミソリを取ったというわけです。
なかなかとんちが効くと吉宗は笑いますが、浄圓院は「そうではない」と言い出します。四股を踏んだ時、足の下にカミソリがあったらどうするか? 小才のきく者は功を焦って時に大けがをするのです。多少遅れを取ってもカミソリの光を待つ方がよいと言われ、恐れ入りましたと吉宗は頭を下げます。
明けて正徳5(1715)年正月、吉宗公は32歳にお成りでござった。紀州藩の財政はますます良くなり、14万両の貯えと11万石の備蓄米を持つに至り申した。吉宗が酒樽を割って鏡開きです。無礼講じゃ! との掛け声で、家臣の身分の上下にかかわらず吉宗と並び、みんなで盃を傾けます。
江戸から早馬が到着します。正徳5年は家康公の百回忌にあたり、尾張継友が日光東照宮に参詣するというのです。抜け駆けとは卑怯千万と吉宗は唇を噛みますが、加納久通は“抜け駆けの抜け駆け”で、6月11日参詣の継友よりも前の参詣を進言します。東照宮への参詣は準備が相当かかるわけですが、吉宗は略式でよいと、久通の案を採用します。幕府への届けなど、久通に一任して江戸へ送り出します。
3月、吉宗公は風雲急を告げる江戸へご出立なされた。いみじくもこれが最後の参勤交代となり、和歌山城の見納めと相なり申した。
作:ジェームス 三木
音楽:池辺 晋一郎
語り・近松門左衛門:江守 徹
題字:仲代 達矢
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西田 敏行 (徳川吉宗)
小林 稔侍 (加納久通)
山田 邦子 (浄圓院)
すま けい (有馬氏倫)
寺泉 憲 (松平頼雄)
黒沢 年男 (水野重上)
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名取 裕子 (月光院)
細川 ふみえ (お古牟)
あべ 静江 (江島)
草笛 光子 (天英院)
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竜 雷太 (三浦為隆)
鈴木 瑞穂 (林 信篤)
名古屋 章 (土屋政直)
石坂 浩二 (間部詮房)
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制作統括:高沢 裕之
演出:清水 一彦
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』
第24回「へその曲げ方」
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