プレイバック八代将軍吉宗・(21)将軍は四才
さればでござる。
紀州藩の治世において着目すべき点を申し上げれば、その1つは二代藩主光貞公が全国に先駆けて導入なされた「定免制(じょうめんせい)」でござる。定免制とは、稲の豊作凶作に関わらずあらかじめ定めた年貢を徴収する仕組みでござる。これによって紀州藩は、安定した収入を見込むことが出来、また煩雑な毎年の現地見聞も不要と相成り申した。無論農民より申し入れがござれば、事情を調べて減免措置も講じられ申した。やがて幕府もこの定免制を導入し、全国に広めるに至った次第にござる。
また光貞公は、明の国の法律書すなわち「明律」を詳しくお調べになり、治世の参考になされた。近松の見るところ吉宗公が大の法律好きになられたのも、光貞公の影響と存ずる。吉宗公は紀州藩主のみぎり、訴訟箱を設置し横目付を強化し、たくさんの法律をお作りあそばした。これなるは若き藩主吉宗公がお書きになられた家臣の心得でござる。エゲレス語で申すならばアニマル……もといマニュアルでござりますな──。
正徳2(1712)年9月、6代将軍家宣公は重病の床におつきあそばし、余命いくばくもないご容体と相成り申した。徳川家宣は弱々しい姿で横たわっていて、見舞いに訪れた新井白石は、天下万民は回復を心から願っていると家宣を励まします。家宣は病の床から未来を見据え、君主幼少にして国治まらずの例えもあり、4歳の鍋松に将軍が務まるだろうかとつぶやきます。
そこで家宣は鍋松の将軍後継について、2つの案があると白石に相談します。一つの案はまず7代将軍を尾張吉通に譲り、鍋松が首尾よく成長したら吉通の同意をもって8代将軍を継がせる。もう一つは鍋松が成長するまで将軍を空位とし、吉通を江戸城二の丸に入れて後見人とする。鍋松が没すれば吉通を7代将軍に就かせる。
熙子から学問の師として本心での答えを求められた白石は「どちらも是といたしかねます」と答えます。幼少でも鍋松は家宣の子であり、鍋松が7代将軍の座に就くのが筋道である。それ以外の案は天下の人心を二分する恐れがあり、幼少の将軍を近臣がお守りすれば幕府は揺るがないと答えます。鍋松が短命で没した時こそ、権現家康の遺命に従って御三家から将軍を立てればいい話です。家宣は天井を仰ぎます。
間部詮房は白石に、今回の家宣とのやりとりは他言しないようくぎを刺します。もし公になれば諸大名はことごとく吉通になびき、鍋松が蔑ろにされてしまうという危惧からです。白石はそれに賛同し、“次の次の将軍”は詮房の腹中に収めておき、当て馬を立てれば治世のかじ取りに役立つと提案します。「なるほど、やじろべえか」
詮房は左京の局(喜世)と対面し、家宣の回復は望めず、そう遠くない時に鍋松が7代将軍になると伝えます。左京の局は将軍生母として、江島(美代)は大奥取締役として重い役を果たすことになるため、普段の言動に一段と気をつけるよう注意を促します。その上で詮房は鍋松に、なるべく庭で遊び、食事は好き嫌いなく何でも食べるよう諭します。
家宣は幕閣の家臣たちを集め、鍋松が幼少ゆえに将軍の座が移ってもそのまま役目を続けさせると伝えます。そして代々の将軍が上野寛永寺に眠る中、2代秀忠のみが増上寺に葬られ、軽んじられているという理由から、自分も増上寺に葬るようにと指示を与えます。また献上品は鍋松の御代も同様に留意して無駄を減ずるようにせよ、と。
翌日、慌ただしく御三家のご当主が召され申したが、すでに上様はご危篤にあらせられ、お目見え叶い申さず。この時吉宗公は紀州にござった。江戸城に登城したのは、尾張藩主徳川吉通、水戸藩主徳川綱條の2人だけでした。
夢の中で家宣は能衣装に身を包み、熙子の前に現れます。人生五十一年、思えば一曲の舞にも似て長かったのか短かったのか。四年足らずの治世にはいささか心残りもあるが、そなたと過ごした日々には満足しておる。苦しい時も励まし、哀しい時の慰みは、そなたなくしてこの家宣はなかった──。「もったいのうございます」と熙子は深々と頭を下げます。別れの時、家宣は霧の中に吸い込まれていきます。
夢から覚めた熙子は号泣していました。そこに侍女が、詮房からの知らせで家宣がみまかったと伝えます。熙子はがっくりと力を落とします。正徳2年10月14日、6代将軍家宣公はご薨去あそばした。ご葬儀は11月2日、芝増上寺にて厳かに執り行われ申した。諡(おくりな)は学者将軍にふさわしく「文昭院殿」。江戸の町は悲しみにくれ、音曲停止35日間。
和歌山にて訃報をお聞きの吉宗公は、取り急ぎ江戸へご出立なされたが、ご葬儀には間に合い申さず。12月11日にようやく鍋松ぎみとご対面がござった。鍋松の後方に介添え役の詮房が座る中、御三家の3人が鍋松に頭を下げます。そして詮房が家宣の遺言として、鍋松を7代将軍とするにあたり御三家の力添えをいただきたいと伝えます。
すると鍋松は立ち上がり、鼓を叩くしぐさをして、たしなめる詮房や江島の言葉にはイヤイヤを発動します。仕方なく鍋松を外に連れ出し、遺言の続きを伝える詮房です。鍋松に万一があれば、尾張五郎太もしくは紀州長福丸を養子に迎え、その父を後見人になすこと、と見据えます。綱條は、第一養子が五郎太、第二が長福丸かと念を押しますが、詮房は“尾州もしくは紀州”と言葉を濁します。
江戸藩邸に戻った吉宗は長福丸をあやしながら、どえらい子を産んだやもしれぬぞ、と須磨をみつめます。紀州藩主はおろか、この長福丸は将軍になる……? 一瞬表情がこわばる須磨ですが、プッと吹き出してしまい、吉宗もつられて笑います。長福丸を肩車している吉宗は、捕らぬ狸の皮算用はもうこりごりとつぶやきますが、たちまち表情がゆがみます。「いかん。しょんべんじゃ……ああ……」
夜、松平頼致、水野重上、小笠原胤次、有馬氏倫が膝を寄せ合います。“鍋松は生まれながら病弱で短命に終わる”ともっぱらのうわさです。今度こそ将軍の血筋が絶え、紀州から将軍が出る可能性も出て来ました。重上は、尾張に抜け駆けされないように打つべき手は打っておきたいと、尾張に草を放つという氏倫の主張に賛同します。
一方尾張江戸藩邸では、尾張と紀州をならべたのは側用人詮房の策略ではないかと成瀬隼人正は推測します。形勢を握るのは、新将軍の介添え役で生母喜世の覚えめでたい詮房であることから、本寿院は顔つなぎのために詮房に進物を届けるよう命じます。吉通は、藩主を差し置いての指図は面目に関わると機嫌を損ねます。
ああああ、『女賢(さか)しゅうして牛売り損のう』の例えあり、ああああ……。ご無礼申し上げた。さればでござる。江戸城大奥では家宣公のご薨去に伴い、御台所熙子さまは「天英院」さまと申され、側室お古牟の方は「法心院」さま。お喜世の方は「月光院」さま、お須免の方は「蓮浄院」さまと、それぞれお改めでござった。
鍋松ぎみは師走23日、時の上皇のご命名により、7代将軍家継公とおなりあそばした。月光院は天英院に、忙しない大奥よりもゆっくり過ごしてもらいたいという真心から三の丸行きを勧めたわけですが、それに老中たちが噛みつきます。月光院には著しく増上慢のきらいがあり、煙ったい天英院を三の丸に追い出し、大奥を意のままにしようとして詮房をそそのかした、と。
月光院は分をわきまえていると激怒します。後見人の申し分はそのまま将軍のご意向であり、それを覆した不届きな老中は遠慮なく罷免すればよいと鼻息荒いです。老中には老中の立場があると、詮房は事を荒立ててはならぬと諭します。「なかんずく大久保忠増どのは目障りでなりませぬ。大奥は風紀が乱れているとかもっと倹約せよとかいちいち当てこすりを申しました。この月光院を目の敵にしておりまする」
一方、お古牟どのとお須免どのは大奥より馬場﨑御用屋敷へ移され申した。ありていに申せば“ご用済み” “お払い箱”にございますな。同じ側室の身なれど、子を持つと持たぬとでは雲泥の相違でござる。天英院は2人を労わります。2人が気がかりなのは喜世の思い上がりですが、「手に負えぬ時は助けを求めるかもしれぬ」と天英院はニヤリとします。
明けて正徳3(1713)年3月、家継公の元服・お袴着のお祝いがござり、続いて7代将軍宣下の儀がござった。日が経つにつれ、幼君家継公を抱え込む間部詮房どのと月光院さまの権力は、いやが上にも強まり申した。たまりかねた天英院は詮房を呼びつけ、大奥首座の任に堪えられず、都へ引き上げると宣言します。
お気に触りましたか? ととぼける詮房に、“御座所に陣取り指図をする女”は一人しかいないと指摘します。一族の者を次々取り立て、音曲や芝居にうつつを抜かし、禁制の献上物はもらい放題。奥女中まで羽目を外し近習や医者を局部屋へ密かに誘い込むありさま。月光院に言い聞かせると頭を下げる詮房に、天英院は突っぱねます。「もうよい。家宣公亡き後の江戸には、いとうない!」 4月、朝廷は天英院さまに従一位を贈り、月光院さまには従三位を贈られた。申すまでもなく、間部詮房どののしたたかなご配慮にござる。
尾張藩では7代将軍は吉通だと言いふらし、いざ家継が7代将軍に決定すると不満を漏らしたとして、老中土屋政直と忠増は尾張藩家老を呼びつけ叱りつけたそうです。『あつあつと 尾張大根 盛りはせで 味の悪さの 小鍋立つかな』『鳶(とび)が鷹 たかが尾張を 養わで ひよこに譲る 跡の危うさ』という落首が出回るほどで、紀州藩では老中と結託して尾張藩を追い詰める作戦に出ます。
ひよこと聞いて吉宗は「また産まれるぞ」と家臣たちに報告します。須磨が2人目の子をみごもったのです。そのころ、新しい子の命を宿した須磨のまなざしは、侍女たちに囲まれて庭で元気よく走り回って遊ぶ長福丸に注がれていました。
将軍からのお達しで、謹慎を命じられたことに吉通は反発します。君側の奸物が幼君を祀り上げて権勢をむさぼる、開幕以来の不祥事と吉通の暴言は止まりません。将軍家と尾張家は同格と考える吉通は、朝廷を後ろ盾に腐れ切った幕府をひっくり返して見せると泥酔します。「東証大権現さまは御三家を立てるにあたりかく仰せられた。将軍家滅亡のみぎりは、名古屋城に立てこもり新たに幕府を開くべし」
そのことは尾張藩邸に潜り込んでいた草から老中の耳に届き、尾張藩家老はさっそく呼びつけられます。主人は酒乱の気があるからと隼人正らは弁明しますが、忠増は酒を呑んでこそ本音が出ると厳しい表情のまま、政直はあきれ果てて開いた口がふさがりません。「本寿院どのといい吉通どのといい、尾張家の不行状はなんとしたものか」
隼人正は責任を取って切腹をすると言い出しますが、忠増は冷静に、家老が切腹しても尾張家のためにはならないと返します。尾張家には五郎太がおり、たくさんの兄弟がおり、遠回しに吉通に隠居を迫ってきたのです。直後の宴で酔って気持ちよさそうに舞う吉通は、周りで舞う女を巻き込みながら血を吐いて倒れ、亡くなってしまいます。
吉宗は吉通の死を悼みます。弔問の使者を立てるべきところですが、紀州藩が刺客を放ち吉通は暗殺されたともっぱらの噂です。確かに吉通の死でもっとも得をしたのはどこかを考えれば、その噂が立つのも道理です。幕府に申し出て疑念を晴らさねばと焦る胤次ですが、吉宗は断ります。「おもしろいではないか。何とでも申しておくがよかろう」
白石は、やじろべえが大きく傾いたと詮房のところに飛んできます。当て馬紀州が大きく暴れ出す前に、尾張藩のテコ入れを図らなければなりません。そこに吉宗が詮房に面会を求めてきました。
詮房は、吉通は変死だと吉宗に伝えます。幕府から派遣された医師による検視では、倒れた吉通を医者に見せた様子がなく、遺体は一昼夜放置されたままで、大名にあるまじき死にざまだったというのです。紀州が疑われていることを知る吉宗は詮房を見据えます。「詮議あらば受けて立つ。ただし濡れ衣ならばただでは済まぬ。おのおの方とは袂を分かち、紀州に幕府を構えるがそれでもよいか?」
詮房は、紀州家は武門の家柄であり、忌まわしい不祥事に何の関わりがあるだろうかと返答します。了承した吉宗は去り際、詮房に念押しします。「そなた、尾州もしくは紀州と申したな?」 答えに窮する詮房に、それでよい、と言って吉宗は去って行きます。
作:ジェームス 三木
音楽:池辺 晋一郎
語り・近松門左衛門:江守 徹
題字:仲代 達矢
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西田 敏行 (徳川吉宗)
賀来 千香子 (須磨)
柄本 明 (松平頼致)
すま けい (有馬氏倫)
堤 真一 (徳川吉通)
秋野 太作 (阿部正喬)
黒沢 年男 (水野重上)
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名取 裕子 (喜世)
五月 みどり (本寿院)
あべ 静江 (江島)
草笛 光子 (熙子)
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細川 俊之 (徳川家宣)
名古屋 章 (土屋政直)
山本 圭 (徳川綱條)
佐藤 慶 (新井白石)
石坂 浩二 (間部詮房)
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制作統括:高沢 裕之
演出:尾崎 充信
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』
第22回「裏工作」
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