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2025年7月 4日 (金)

プレイバック八代将軍吉宗・(25)男の花道

紀州熊野灘のくじら獲りは、太地浦を中心に隆盛を極め申した。昔は海流に乗って回遊してきたくじらを浅瀬に追い込んで捕らえるためでござったが、慶長年間より「突き取り法」が始まり申した。突き取り法は水軍の戦法よろしく20艘前後の船団でくじらを追い、刃渡り4尺の銛(もり)を体当たり同様に打ち込んで仕留める漁法でござる。されどこれでは取り逃がすこと多く、大物には歯が立ち申さぬ。

そこで光貞公の御代に開発されたのが「網取り法」でござる。すなわち大きな網を張り、囲い込んだくじらを突き取り法にて仕留め申す。網取り法は網船・銛船を合わせて50艘60艘という大掛かりな漁法でござる。さればでござる。吉宗公の天下取りは、この網取り法でござった! この大きな網で将軍の座を囲い込み、江戸城に乗り込んで銛を打ち込む!

さて吉宗公は、いかなる銛をご用意なされたか。まずはご覧あれ──。


お話いよいよクライマックス。正徳6(1716)年4月30日、7代将軍家継公は肺炎にかかってご危篤と相なり、後継者と目される紀伊吉宗公が、慌ただしくお城に召され申した。吉宗が登城の途中、すでに登城した尾張継友には水戸綱條が「きわめて不本意かと存ずるが」と断った上で、引き際が肝要と引導を渡します。即答はできないと抵抗する継友ですが、どうすることもできません。

黒書院に現れた徳川吉宗は、綱條と継友に挨拶しますが、継友の様子を見れば何を言われたか容易に推測できます。綱條が“天下の副将軍”として、吉宗に将軍家継の後見をお願いしたいと見据えますが、家柄筆頭の継友も家康の玄孫であることを理由に固辞し、綱條も任にあらずと首を振る中、吉宗は誰の意向であれ辞退すると言い出します。「貧乏くじは引きとうござらぬ」

すでに家継が亡くなったことを知っている吉宗は、わざと拝謁を求めます。未だ将軍家は絶えていないと言い張る間部詮房を睨みつけた吉宗は、17歳以下の大名の急養子はご法度であり、8歳の将軍に急養子も後見人もないと、家康の遺命に従って御三家だけで談合して次の将軍を決めると主張します。そこに側用人次席の本多忠良が、天英院さまがお待ちかねと吉宗を呼びに来ました。

大奥の御対面所で吉宗と対面する天英院は、家宣の遺言として辞退せず受けてほしいと頭を下げます。承知する吉宗ですが、将軍家の相続を受けることには難色を示します。何が不服かと天英院はいらだちますが、吉宗にさして不満はなさそうです。「祝いののしあわびじゃ。この国の治世を託すお方は紀州どのを置いて他にはございません。これ以上の辞退は許しませぬぞ」

黒書院に戻った吉宗ですが、なおも固辞する様子に詮房や土屋政直らが吉宗を掴んで上段に連れていきます。綱條は、吉宗が8代将軍になっても紀州藩は返上せずともよいと伝えます。紀州藩主についても吉宗に一任され、吉宗の中で山が……くじらが動きました。紀州藩邸に戻って相談すると立ち上がる吉宗を前に、みなが拝礼します。

紀州藩の控えの間に来た目付の稲生次郎左衛門は、吉宗が江戸城内にとどまることを伝え、吉宗の身の回りのものを江戸城へ引き渡しを要求します。「取り急ぎ二の丸へ。吉報でござる」 隣室の尾張藩控えの間にいた家老の成瀬隼人正(はやとのかみ)と竹腰正武は、紀州と次郎左衛門のやりとりに聞き耳立てています。

吉宗は紀州藩主に松平頼致、西城藩主にその弟万吉、老中若年寄は江戸城中に宿直を申し付け、出入りの厳重警戒を命じます。その上で、吉宗は“将軍家御養子の儀”を引き受けると返答します。吉宗は継友と綱條に対し、幕府の財政が困難なら御三家と力を合わせて国事に当たりたいと決意表明をします。吉宗公はそのまま供を従えて二の丸へお入りあそばした。

すでに亡くなっていた将軍家継を、危篤のまま生きていることにしていた詮房は、申の刻に薨去したと宣言します。これで“本当に”亡くなったことになり、月光院は家継の亡骸を見つめて涙を流します。

 

この日、憐れをとどめたのは尾張継友公でござった。見通しが甘いと申すのか、底抜けのお人よしと申すのか、我こそは8代将軍と思い込んでご登城のみぎり、鍛冶屋の前をお通りになると、この鉄を打つ音が“とってんかーん、とってんかとった、てんかとった、天下取った”と、これは幸先良しと喜び勇んでお城にお入りなされましたが、ご覧の通り天下を取ったのは吉宗公でござる。

当てが外れた継友公、しおしおとお帰りの途中、またもやこの鍛冶屋の前をお通りになると、焼けた鉄を水の中に入れる音が“しゅー、きしゅー、紀州”と聞こえ申したそうな。お後がよろしいようで。横で話を聞いていた近松家の小女は、ニッコリして手を叩いています。

継友が尾張江戸藩邸に戻ると、何たる醜態か! と正武は激怒し、隼人正はことの判断を見誤った江戸城付・水野彌次太夫の責任を追及します。隼人正と彌次太夫の言い合いの最中、ひとりの若武者が入ってきました。さて、これなる若者は尾張継友公のご実弟・松平通春どの。家老もだらしがないが兄上も情けないと、通春は継友や家老たちを睨みつけます。

なぜ紀州を引きずり降ろさなかったか、なぜ幕府の言いなりになったのかと通春は継友を責めますが、継友に反省点があるとすれば、詮房を頼りすぎたところにあるのかもしれません。綱條を中心にすでに根回しが済んでいて、見苦しい真似はできないと継友は判断したのです。

綱條がまとめ役と聞いて“枝豆”とこき下ろす通春は、吉宗に一矢報いると継友を見据えます。「知れたことよ。名古屋城に立てこもって弔い合戦を挑むのじゃ」 多くの大名と根(こん)を通じる尾張家は、反旗を翻せば呼応して参じる大名も多いというのです。左様、この通春どのこそ尾張宗春公にて、8代将軍の治世に真っ向から立ち向かう御仁でござった。

紀州江戸藩邸では、吉宗の養子として松平頼致に紀伊555,000石相続が、弟の万吉頼渡(よりただ)に西条30,000石の所領が認められます。江戸城から伝えに来た久世重之と井上正岑は、吉宗が二の丸に入ったことを報告すると、長年吉宗に仕えてきた豊島半之丞や小笠原胤次は万感の思いで涙を流します。

吉宗が将軍になると報告を受け、長福丸と小次郎の面倒を見ていたお古牟は、喜びよりも不安が勝っているようで、目を泳がせます。どこでどう聞きつけたか、この夜の紀州藩邸には祝いの客が引きも切らさず、留守を守るご家来衆は応接にご多忙を極め申した。明けて5月1日、幕府は家継公のご薨去を正式に発表。5月2日には紀伊吉宗公を上様と称し奉ることを決めて、いよいよ8代将軍吉宗公の誕生でござる。

吉宗は頼致と水野重上を労わります。特に重上は、吉宗とともに江戸城に上がれば付け家老として、ゆくゆくは老中にまで出世できる器量を持ち合わせていながら、それは叶えられません。重上は、水野家は家康の命で代々紀州家に仕える家柄のため、今後は頼致を支えていくと表明。吉宗は頼致を自分と思って支えてやってほしいと頼みます。

吉宗は紀州の家臣たちを集め、これからは紀州と特別の関わりを持たないと表明し、紀州の家臣であることは忘れるよう訓示します。ただ、紀州藩で培った武士の魂は忘れず、率先して改革の礎であることを肝に銘じて使えるよう命じます。吉宗とともに江戸城に上がるのは、胤次、有馬氏倫、可能久通、桑山五右衛門、桑原権左衛門──。この日、お城入りを命じられた紀州の家臣は合わせて42名でござった。

 

さればでござる。吉宗公は電光石火の早業にて幕府の改革にお手をお付けあそばした。家継の出棺にあたり「石槨(せっかく)の銘」をしたためた新井白石に対し、吉宗は白石に頼んだ覚えはないと断り、綱吉・家宣に倣って豪華に設えた棺も質素なものに取り換えるよう詮房に命じます。質素を求めながら将軍家だけが華美に走るわけにはいかないと、吉宗は詮房をけん制します。

さっそくの吉宗の手腕に、天英院も納得です。特に質素を旨とするのは美徳と高評価です。そろそろ本丸に移っては? と吉宗に勧める天英院に、吉宗はこれからも大奥首座としてとどまってほしいと願い出、その心憎いほどの気遣いに感謝します。月光院については吹上御苑に新築の御殿に移ってもらい、お伝ら“おかかりびと”もそれぞれ屋敷を移ってもらう考えです。

“人格高潔にして身命を惜しまず奉公の誠を尽くした人物”の詮房について、元は能役者で家宣の寵愛を受けて5万石の大名と非難されることもあり。そう見抜く吉宗に天英院は、詮房を見捨てないよう進言しますが、6代7代将軍薨去の際に剃髪に及ぶべきだったと主張する荻生徂徠の例を持ち出すと、天英院は慌てて詮房をかばって弁明します。「ご安心くださりませ。腹を切らせるようなことはござりませぬ」

そのころ久通は阿部正喬から、紀州から江戸城入りした家臣の不調法について厳しく叱責を受けていました。久通は反抗せず、従順に手をつき詫びを入れますが、正喬の怒りはとどまるところを知りません。「上様は紀州より将軍家にお入りあそばしたが、その方らはただの用人じゃ! 大手を振って歩くのは身の程知らずと心得よ!」

内藤一郎太夫という小姓が老中に挨拶しなかったというのです。氏倫は、「俺なら堂々と“お気に召さずば上様にお言いつけなされませ”と言い返す」と言って、ケンカを売ってどうすると吉宗にたしなめられます。吉宗は老中を怒らせてはならぬと一郎太夫を紀州に帰し、蟄居を命じます。浄圓院つき侍女・瀬川の甥ではありますが、身内に厳正であってこそ外にも厳しく仕置きできると吉宗は考えているのです。

正徳6年5月15日、7代将軍家継公のご葬儀は増上寺にてしめやかに執り行われ申した。享年8歳。ご法名『有章院殿』。これにて徳川ご本家のお血筋は絶え尽きたわけでござる。そしてご葬儀の翌日16日。側用人間部詮房に雁之間付きを命じ、新井白石には職を免じて出仕に及ばずとのお達しです。白石は顔面蒼白でうつむき、城を後にします。

満城花柳半凋残
(満城の花柳 半ば凋残し)
人生行路難嘆息
(人生行路の難を嘆息す)
ひたすらに理想の政治を目指し、学問の鬼と言われた新井白石どの。この時60歳。

雁之間詰めとなった詮房は、閑職ゆえお目にかかることもないと月光院に挨拶します。吉宗によるあからさまな意趣返しに月光院は立腹します。先代のご生母だから粗略にすることもないという詮房ですが、自分を大奥から追い出そうとしていると気に入りません。詮房は、吉宗には礼を尽くし天英院を立て、心穏やかに過ごすことを勧めます。「お指図はご無用。月光院には月光院の生き方がございます」

うたかたの夢消えて、去り行く姿はさながら一曲の舞のごとく。間部詮房どの、この時50歳。
5月22日、吉宗公は二の丸をお出になり、本丸へお移りあそばした。お話ますます佳境、8代将軍の政治改革にご期待あるべし。

 

作:ジェームス 三木
音楽:池辺 晋一郎
語り・近松門左衛門:江守 徹
題字:仲代 達矢
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西田 敏行 (徳川吉宗)
小林 稔侍 (加納久通)
柄本 明 (松平頼致)
すま けい (有馬氏倫)
秋野 太作 (阿部正喬)
羽賀 研二 (徳川継友)
山本 學 (久世重之)
寺田 農 (成瀬隼人正)
黒沢 年男 (水野重上)
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名取 裕子 (月光院)
細川 ふみえ (お古牟)
草笛 光子 (天英院)
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名古屋 章 (土屋政直)
山本 圭 (徳川綱條)
佐藤 慶 (新井白石)
石坂 浩二 (間部詮房)
中井 貴一 (松平通春)
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制作統括:高沢 裕之
演出:清水 一彦

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』
第26回「美女お断り」

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