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2025年11月21日 (金)

プレイバック八代将軍吉宗・(45)みかんの木

近松門左衛門でござる。
正月11日は恒例の年賀行事として、連歌興行が執り行われ申した。まず格式高いこの世襲の連歌師が五七五を発句し、将軍が七七と受け申す。当然ながら幕府の高官は歌が詠めなくてはなりませんな。ましてや将軍が二の句を継げなければ連歌興行は頓挫いたし申す。将軍在職29年間、さぞかし吉宗公はご苦労なされたことと拝察仕る。

さればでござる。吉宗公苦心の二の句を一部抜粋してお目にかけなん。
鳥を楽しむ 御園生の春 (享保4)
つきせぬ種を 植えし桃園 (享保7)
幸多かれや 春の海山 (享保8)
春ごとに巣を たてる雛鶴 (享保13)
雪おのずから 溶ける四方山 (享保15)
ご覧の通り三十代、四十代のお歌はすべてアウトドアの風景で、すこぶるお元気がよろしゅうござる。

おや? と思うのは御年50歳を過ぎてから。お世継ぎ問題を含め、悩み多き将軍のお心を反映してか、作風に陰影が出て味わい深くなっており申す。
うつる岩井の 陰も若水 (元文2)
竹はのどけき 代々のこの友 (元文3)
春を常にと しめん仙人 (元文4)
来る年の賀は あかぬ君臣 (元文6)
初花見鳥 うつる高殿 (寛保2)
特に元文2(1737)年のは秀逸。寛保2(1742)年のは“花見鳥”と“緑”が掛詞になっておりますな。ま、苦手の詠いも毎年やっていれば、いくらか進歩いたしますな──。


寛保元(1741)年8月12日、江戸城大広間にて家治ぎみ御元服の儀が滞りなく執り行われ申した。吉宗は世継ぎ家重を右大将、家治を大納言と称することに決めます。さらに松平宗尹には関白一条兼香の娘との婚約が調い、松平宗武の誠姫誕生も含めておめでた続きです。子はたくさんいたほうがいいと、吉宗は三兄弟に子作りを進めます。

茶室では久免が月光院に茶を点てます。家治の元服が早いことに、吉宗が近々隠居するのではないかと考える月光院は、吉宗は家重を9代将軍と心から思っているかを久免に尋ねます。「ここだけの話じゃが、衆目の見るところ器量においては宗武どのが上じゃ。これは天英院さまも仰せであった」 隠居を控え世継ぎについても考え直しをと、これは大奥の総意として久免に伝えてもらうことにします。

お月見の宴で、家重は「あういからあおいをもて」と言い出します。月に雲がかかり、辺りが少し暗くなります。何と言っているかお逸が分からず、田沢も侍女たちも分からず、家重は癇癪を起こします。急ぎ呼ばれた大岡忠光は、たちどころに「寒いから羽織を持て」と通訳し、家重はご機嫌になります。雲がかかった月が、雲が切れて明るさを取り戻します。

久免に諫言を断られた月光院は吉宗と対面し、目に余る不行状とやんわり家重を非難します。西の丸はもぬけの殻、相変わらず鷹狩りと称して小菅御殿に逗留しているというのです。初めて聞く吉宗は、小菅御殿に逗留中の家重のところへ、加納久通を向かわせます。

家重の望み通り、お逸を側室として西の丸に迎えたのに、御殿に執着するのか。お逸に飽きたかと久通は笑いますが、さにあらずと返答した家重は、庭のみかんの木の前に立ちます。母・お須磨の方が生まれ故郷の紀州から苗木を取り寄せ、赤坂藩邸の奥庭に植えたものを、家重がもらい受けて小菅御殿に移し植えたのです。これはまたいとこにあたる久通も初めて聞く話です。

家重が3歳の時にお須磨の方は亡くなり、母の顔は覚えていませんが、母の香りは覚えています。甘酸っぱいみかんの香りでした。「この木には、母上の慈悲の心が宿っておる……久通、わしは女々しいか?」 女々しくはございませぬ、と答える久通は、目に涙を浮かべています。家重は転がるみかんの実を手に取り、匂いをかいで母を思い出しています。

その話を聞いた吉宗は、31歳にもなって母恋しさに小菅通いとは、と呆れます。久通は、お変わりになられたとつぶやきます。「上様は類いまれなる名君にございまするが、惜しむらくは“もののあはれ”をご存じない。一人の人間の心の内は空よりも広く、海よりも深うござります」 吉宗も将軍に就任直後は万人に幸を与える君主たれと大きな夢を持つも、いざ治世に当たると専ら財政破綻に汲々とするばかりでした。26年の在位の間、殺伐とする荒野を駆け巡る野ネズミのようだった、とつぶやきます。青雲の志はだんだんと遠のいてゆく、と卑下します。

11月25日、21歳のご三男宗尹どのは、新築の一橋御殿を賜り申した。明けて寛保2年正月、ご次男宗武どのは吉宗公より一冊の書を賜った。宗武が手にする『式内染鑑(しきないそめかがみ)』は『延喜式』に記された染め方を復元した研究書で、吉宗の作です。最後に『公事方御定書』が仕上がれば、吉宗は将軍の座に思い残すことはないわけです。

そして1月19日、家重公ご愛用の小菅御殿全焼。御殿が焼け、母の形見の品も焼けたと家重は吉宗に訴えますが、天罰と心得い! と吉宗は突き放します。将軍世子たる者が気ままに城を出てだらだらと逗留するからだ、と吉宗は家重を叱りますが、家重は涙目で睨みつけます。「やはり付け火の張本人……あまりと言えばあまりにむごい仰せ……そこまで家重を憎うございまするか。生涯お恨み申しますッ」

 

さればでござる。8代将軍吉宗公待望の法令集『公事方御定書』は、寛保2年3月に至りようやく完成の運びと相成り申した。別名『寛保律』とも『御定書百ヵ条』とも申すこの大著は、刑法・民法・訴訟法など仕置き全般にわたるマニュアルをお収めでござる。かくしてこの『御定書百ヵ条』は、明治の御代に至るまで幕府の法律の骨格と相成り申す。

まぁ近松もこれを評するに、おおむね倫理・道徳の面を重視し、刑罰については従来よりむしろ寛容。まずは結構なものと存ずる次第。ただし、でござる! けしからぬことに幕府は、この御定書を三奉行のみ知る秘密文書とし、天下万民には明らかに致し申さず。は! 法律を知らずして法律を守れましょうや!

吉宗は、御定書が非公開であることに不服ですが、町奉行の石河(いしこ)政朝や勘定奉行の神尾春央(はるひで)が言うには、民や商人に知れれば法の抜け穴を探し悪用されるとのことです。寺社奉行の大岡忠相も、10両以上の盗みは全て死罪と決めたものの、飢えに泣く子を助ける盗みと遊興のための盗みでは違いがあると進言します。吉宗は、御定書は町奉行・勘定奉行・寺社奉行の三奉行に留め置くことにします。

松平乗邑は、来年隠居する予定である吉宗に、あと5年は幕府の陣頭に立って治世をお導きをと進言します。家重は病弱で行状にいささかの点があり、なおしばらくのご修養が必要と言い出したのです。これに久通が、吉宗は大御所として新将軍の治世を支えるから心配無用と反論します。

もし大御所と新将軍より2通の命令が下された時、家臣はどちらに従うべきかと乗邑は久通に問います。もし大御所の命令が重んじられるならば、新将軍は傀儡に等しいわけです。吉宗は乗邑の言い分も一理あると認めつつ、従うべきは大御所の命令でも新将軍の命令でもなく、この『御定書百ヵ条』と説明します。

久通は、乗邑が新将軍に宗武を推挙していることを挙げ、すでに後継者は吉宗の意向により家重と決まっているにもかかわらず、月光院など畏(かしこ)きあたりまで籠絡(ろうらく)しているのは不義不忠の極みと指摘します。目を閉じて聞いていた吉宗は目を見開き、一喝します。「ここは世継ぎについて議する場にあらず!」

いやいや! と反発したのは宗武屋敷を訪問中の月光院です。鼻毛は伸び放題、発言は判然とせず、家重が将軍では心もとないわけです。かといって周囲の者が宗武擁立を着々と進めているのに、宗武自身ものほほんと過ごしているのが月光院には少し気に食いません。御三家への進物も怠るなと発破をかけます。森姫が2人目を懐妊したと知り、月光院は吉宗に直接伝えると立ち上がります。

久通は、吉宗に意見した乗邑の振る舞いは将軍家のためにはならないと、老中罷免を進言します。それができないのであれば、乗邑に拮抗し得る実力者を任官すべきと、久通は京都所司代・土岐頼稔(よりとし)を推薦します。お灸の最中の吉宗は、うーうーうなっていますが、久通はうなっている場合ではないと吉宗の手を叩きます。6月1日、京都所司代・土岐丹後守頼稔どのがご老中にご昇進なされた。

小菅御殿は吉宗が立て直し、みかんの木もそのまま残しています。ここまでしてようやく、家重は御殿の付け火は吉宗ではないと思うようにはなりましたが、代わりに脳裏にちらつくのは宗武です。吉宗はそんなことを考えるより、お幸とお逸の側室同士の不仲をなんとかせよと命じます。下がれと言われておずおず退出しますが、雷の音に腰を抜かす家重です。

8月1日、関東全域を巨大の雨台風が襲い申した。集中豪雨で浅間の山は崩れ、利根川の氾濫は申すに及ばず、江戸では綾瀬川・浅草川・隅田川の堤防が決壊し、大洪水と相成り申した。老中たちがお手上げ状態の中、視察した宗武と宗尹は堤防までありったけの船を出してほしいと吉宗に懇願します。吉宗は宗武を頼もしく見つめます。その間、家重は寒さや音に怯え、屋敷で丸まっていました。

豪雨は容赦なく七日七晩にわたって降りやまず、甚大なる被害をもたらし申した。上野・下野・武蔵の三国だけでも、およそ80万石の米が失われたのでござる。洪水の後始末に町方復旧工事、川普請、物価の急上昇など、吉宗には頭の痛いことばかりです。『御定書百ヵ条』の前には天変地異は何の効果もないとため息です。

今回の大洪水で活躍した宗武と宗尹を吉宗は労わります。大地震や風水害は突然やってくるため、上に立つ者は器量を問われると吉宗は諭します。宗武は古書を調べ潰したところ、立春から数えて210日ごろにしばしば風水害が生じていると説明し、“秋の大嵐は210日”というのは必ずしも迷信ならずと、日々の天文気象を記録し、後世の天災予知に役立つのではと提案します。

11月25日、ご三男宗尹どのは一橋御殿にてめでたく華燭の典をお挙げでござった。御簾中俊姫さまの御父ぎみは時の関白一条兼香公にて、210日にはあらねどこれも大きな風よけには違いござらぬ。

年改まって寛保3(1743)年の春、ご次男宗武殿の田安御殿にておめでたがござった。田安家の次女としてお生まれの姫ぎみは「淑姫(よしひめ)」さまと名付けられ申した。吉宗公3番目のお孫さんでござる。男か! と期待していた宗武は、姫君と聞いて「やんぬるかな……」と頭を抱えます。

9代将軍についていよいよ決めねばならぬときが来ました。いっそ宗武が先に生まれていればという気もしますが、髪の毛が抜けるほど悩む吉宗はお久免に意見を求めます。当たり障りのない返答に終始するお久免ですが、所詮は他人だからの、と言われて拗ねてしまいます。直接の母ではありませんが、今でも三兄弟の母のつもりでいるからこそ誰とは言えないわけで、天英院や月光院とは立場が異なるのです。

 

作:ジェームス 三木
音楽:池辺 晋一郎
語り・近松門左衛門:江守 徹
題字:仲代 達矢
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西田 敏行 (徳川吉宗)
小林 稔侍 (加納久通)
阿部 寛 (松平乗邑)
中村 梅雀 (徳川家重)
山下 規介 (松平宗武)
宍戸 開 (松平宗尹)
天宮 良 (大岡忠光)
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黒木 瞳 (お久免)
寺島 しのぶ (お逸)
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名取 裕子 (月光院)
佐々木 功 (神尾春央)
西岡 徳馬 (松平信祝)
滝田 栄 (大岡忠相)
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制作統括:高沢 裕之
演出:大橋 守

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』
第46回「決断」

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