プレイバック八代将軍吉宗・(47)大御所
目安箱へのご投書まことにかたじけない。今宵もまたこの近松が、謹んでご返答申す。
えーではさっそく。『吉宗公の羽織の紐の位置が高すぎてみっともない』 お答えいたす。時代考証によれば、武士は“乳(ち)下がり”と申して、この高さが正しゅうござる。おかしく見ゆるのは、体形のせいもございますかな。もっともご無礼を。それではお聞き申す。『大岡越前守が手にしていた“いろは四十七組の纏(まとい)”(→第30回「いろは四十七組」)は、もっと後の世のものである』 いやさすがはご達見。当時は“幟纏(のぼりまとい)”と申して、そっちが正しゅうござる。失礼仕った。あー、『吉宗公が鋳掛屋(いかけや)の夫婦に“役不足”と言うた(→第11回「赤穂浪士」)が、あれは“器量不足”というべきである』 これまた仰せの通り。すべて脚本家の不勉強。日本語は難しゅうございますな。
えー、まだまだこのようにたくさんいただいておりますが、今宵はこれにて打ち止め。えーなになに? 『近松の部屋にいた小女は何者か?』 はー、あれは実はお梶と申しまして、それがしの娘でござる。今は大坂の絹問屋に嫁いで幸せに暮らしており申す。お梶──。
延享2(1745)年7月、在位30年は歴代江戸幕府将軍として最長の徳川吉宗は、将軍を退き9代将軍に徳川家重を指名します。秋には隠居して本丸を明け渡し、年末にかけて代替わりの式典が続くため、しっかりと体を鍛えておけと家重に伝えます。物言いもなるだけ明瞭であるのが望ましいですが、将軍であれば寡黙がいいかもしれないと吉宗は思い直します。
貧乏幕府を立て直すために躍起になり、歴代将軍に後れを取るまいと功を焦りすぎ、結果的に失政を重ねました。周囲の優れた家臣に頼るしかありませんでしたが、褒められるとすればその家臣たちを信頼していたことでしょうか。「将軍は決して名君でなくともよい。驕ることなくくじけることなく、ひたすらまっすぐに歩めばよい。これだけは言うておくぞ。堪忍の二文字は決して忘れるな」
考えてみれば、吉宗は己の不徳を棚に上げて家重に多くを望みすぎたかもしれません。ただ今は将軍相続について家重にすると決めたことについて、一点の曇りもありません。幕府の行く末を家重に委ねたからには、そちの思うた通りの道を存分に歩め、と家重の背中を押します。家重は父を恨んでいたと、顔をぐしゃぐしゃにして謝罪します。
月光院は、後継者に家重が選ばれたことを松平乗邑に聞き、田安宗武に間違いないと楽観視した空気が流れていただけに愕然とします。諫言あるべしと直言しようとしますが、もはや手遅れで、乗邑はことを荒立てないように月光院をたしなめます。月光院は天英院に申し訳が立たぬと力を落とします。
宗武も怒り心頭で、吉宗の存念を聞きたいと加納久通に取り次ぎを求めますが、日を改めてと諭されます。家重に肩入れしていた久通に、裏工作の張本人は誰かと宗武は睨みつけます。「お控えなされませ。物の道理を忘れてこともあろうに裏工作とは笑止千万。ちとお見苦しゅうござるぞ」と久通に睨まれ、床を叩きつけた宗武は対面所を出ていきます。
この時、宗武どのの御簾中森姫さまは3人目のお子をご懐妊でござった。戻った宗武はイライラしながら、嫡男をあげるに及ばずと乱暴に懐刀を森姫に預けます。森姫は何があったのだろうと感じ取りつつ、何も言わずにただ宗武を見つめています。
早くも7月22日、高家長沢資親(すけちか)どのは、将軍の代替わりを朝廷に奏上する使者として上洛を命じられ申した。対応した乗邑は、それとは別に天皇に口頭で請願するよう申し渡します。「吉宗公隠居せらるるとも、政治向きのことについては大御所として新将軍をご後見あるべく、ご内旨賜りたし。決して忘れるな。幕臣の動揺を防がんがためである。構えて他言無用」
才人、才に溺る。不運にもこの功作が松平乗邑どのの命取りと相成り申した。すなわちこの長沢資親どのは京へ着くやいなや、母君の訃報に接して喪に服さざるを得ず。止むなく乗邑どのの密命を京都所司代に託したのでござる。9月1日、吉宗公は江戸城黒書院に、尾張・紀伊・水戸の御三家をお召しになり、新将軍への代替わりをご通達なされた。
そして同日。家重の本丸入りに備えて、吉宗は辞令を発表します。酒井雅樂頭忠恭(ただずみ)と松平能登守乗賢(のりかた)を老中に、西尾讃岐守忠尚を二の丸家治付老中に任命します。大岡出雲守忠光と高井但馬守信房は御用取次役に任命され、家重も胸をなでおろしたところです。ちなみに老中の乗邑と本多忠良はそのまま留任です。吉宗公苦心の人事はご覧の通り。手練(だ)れの老臣と清新の息吹に満ちた若手を取り混ぜてござる。
ちなみに久通は御用取次役から西の丸若年寄へ。異存はないと力む久通に、隠居の自分の世話係だと吉宗は笑います。家重は、老中首座に忠恭を置きたいと吉宗に申告します。新参の忠恭が乗邑の上座につくことはできないと吉宗が難色を示していると、家重に迫られて忠恭が吉宗に尋ねます。「上様は高家長沢資親どの上洛のみぎり、新将軍の治世ご後見の儀、朝廷よりご内旨賜るべくご伝奏あそばしましたか」
無論吉宗には覚えがないこと、隠居が治世の後見などもっての他という考えです。京都所司代は乗邑の名だけがあるのを見て、おかしいと幕府に問い合わせをしてきたことで発覚したわけです。幕府の行く末を案じての独断だったと認める乗邑に、家重は蟄居を命じますが吉宗はそれを引き止め、乗邑の仕置きは自分が預かると決定します。
思わぬ事態にご苦慮の吉宗公は、寺社奉行大岡越前守どのをお召しでござった。忠相は乗邑の失態は明らかで、家重の不興を被るのは当然と返答します。つまり新体制から乗邑を外せというわけですが、乗邑なしで幕府の治世が成り立つか、吉宗には不安しかありません。久通も年寄り3人が決めることなく、家重に任せるよう進言します。
8代将軍吉宗公は9月25日、在職29年4ヶ月にして本丸を明け渡し、大御所として西の丸へお移りあそばした。10月1日、本丸大広間にて将軍代替わりの式典がござり、家重公はめでたく9代将軍の座にご就任。奇しくもこの日、田安宗武どのにご嫡男のご誕生がござり、小次郎ぎみと名付けられ申した。大笑いする宗武ですが、キッと睨みつけます。「手遅れじゃ!」
10月9日、在職22年のご老中松平乗邑どのは、免職謹慎の上、昨年吉宗公よりご加増賜った1万石まで没収。ついに隠居の止む無きに至り申した。翌11日、吉宗公は本丸に招かれ、家重公とともに祝いの能をご覧あそばした。
雁の間に忠相の膳がなく、忘れたのではあるまいな? と親戚の忠光を引き止めます。たまたま通りかかった田沼意次に膳の件を尋ねると、芙蓉の間にあるとの返答です。これに忠相は激怒します。大名であるのに、旗本たちの間に膳が用意されていたわけです。老いたれとはいえ大岡越前守どの、あからさまな冷遇にもめげることなくご老中に談判に及び、目付の衆に頼み込んで雁の間の末席に祝儀の膳を運ばせ申した。すっぽん奉行の面目躍如でござる。大きな口を開けてほおばる忠相はとても満足そうです。
11月2日、朝廷より勅使のご下向これあり、将軍宣下の儀式がござった。11月13日、松平乗邑どのの後任に、堀田相模守正亮(まさすけ)どのが抜擢され申した。この時弱冠34歳。ご老中の新旧交代は着々と進み申した。
来春上洛する話に、家重は「もってのほか」と答えます。忠良は大御所吉宗の意向であり、畏(かしこ)きあたりに拝礼し宮中に誼(よしみ)を通じるのは後世のためにも意義があると説得します。しかし忠良は吉宗を“上様”と言ってしまい、家重の不興を買います。ご老中本多忠良どの罷免。溜の間詰めを仰せ付けられた。結局上洛の儀は、家重がオドオドしながら、よきに計らえと命じて事なきを得ます。
かくして吉宗公にお仕えの老臣はことごとく姿を消し、松平乗賢どのもこの年病没。新政権のご老中は、こなた酒井忠恭どの37歳、堀田正亮どの35歳、西尾忠尚どの57歳。表が変われば奥向きも変わり申す。吉宗公側室お久免の方は大奥を出て西の丸へ。家重公側室にてご嫡男の御生母お幸の方は月光院どのと同格の従三位に叙せられ、堂々と本丸大奥の首座に。ご次男のご生母お逸の方も同じく大奥へ。
ちなみに御年10歳にお成りの家治ぎみは二の丸にお入りあそばした。西の丸へ遊びに来た家治は吉宗と将棋を指し、久通は傍らでうつらうつら舟をこいでいます。パチンと王手をかけられると、吉宗はたちまちうろたえます。「こたびは角を引いたのが敗因にございます」と分析する家治に、吉宗は笑うしかありません。負けた罰として吉宗の耳たぶを引っ張る家治です。
こなたは逸材の呼び声高い寺社奉行松平武元(たけちか)どの。水戸家より館林家のご養子となられたお方でござる。吉宗と将軍争いをした6代家宣の実弟松平清武が館林城主に就任し、清武が亡くなると尾張藩から松平武雅を養子を迎え、武雅が亡くなると水戸家から迎えたのが武元でした。おもしろくない吉宗は武元を奥州棚倉へ飛ばしたという因縁があったのです。
そんな冷や飯を食わせていた武元も、少しも高い志を失わずたゆまぬ精進を続けて今日の人望を得てきました。吉宗は武元の器量を見込んで10代将軍の養育を任せたいと伝えます。病弱な家重の代はいつまで続くか分からず、健康で利発の家治に君主としての養育に力を注ぎたい考えなのです。武元も二つ返事で引き受けることにします。
吉宗は武元を二の丸老中とし、家重の来春の上洛時に、大納言家治を世継ぎとして朝廷に奏上する考えを宗武と一橋宗尹に伝えます。先日の勅使下向の際、従一位の叙任を固辞した吉宗ですが、それは4代家綱以降は座して叙任してきた経緯があり、それは申し訳ないと返答したわけです。
その代わり、宗武と宗尹を参議に叙せられたいと要望を出していました。ゆくゆくは万次郎を加えて“新御三家”を創設し、将軍家の血筋が絶えた時は三家から将軍を立てると宣言します。“新御三家”の構想こそ、後の「御三卿」の始まりでござった。吉宗は田安家と一橋家にそれぞれ10万石を与えることにします。一方、家治のいないところで次々と決定していくことに、何が将軍か分からんではないか! と家重はすっかり拗ねてしまいます。
延享4(1747)年 春。64歳にお成りの吉宗公は病を得て床にお就きでござった。宗武は父の名代として上洛すると家重に報告しますが、思い上がるなと家重は反対します。すでに吉宗の許可は得ているし、上洛をなくせば朝廷への礼を失するわけですが、家重は宗武にそっと近づき、何を企んでおる? とささやきます。「都へ上ってわしの悪口を申す所存か? よう覚えておけ。わしに隠れて僭越の振る舞いあらば、今後は厳罰に処す」 かくして吉宗公のご上洛は見送りと相成り申した。
万次郎とともに舞を楽しむお逸ですが、そこにお幸が入って来て舞を止めさせます。お逸としては万次郎が田安家と一橋家と同格になった祝いと思って宴を催していたわけですが、お幸に言わせれば騒ぐほどのことでもないし、いるはずの家重は加減が悪く欠席しているなら遠慮せよと当たり散らします。「さても出自の卑しき者は慎みを知らぬ。げに嘆かわしきことよの」
話を聞いた家重は、またお逸をいびったな!? とお幸の寝所に怒鳴り込みです。たしなめたと弁明するお幸ですが、家重はお幸の首根っこを捕まえて、その性根が気に入らないと引きずり出そうとします。お幸に引っ張られた勢いで畳に額を打ち付けた家重は、逆上してお幸を足蹴にし、掴みかかります。
お幸を打擲(ちょうちゃく)の上、二の丸へ蟄居させたと吉宗は報告を受け、家重を西の丸に呼び出します。しょんぼりする家重ですが、家治の生母だから許してやれと勧めると、自分は将軍なのにそう指図をされると嘲りを受けると聞きません。お久免は額の傷に薬を塗ってやりますが、それを見て吉宗は何度も舌打ちして嫉妬します。
あろうことか家重は、宗尹の子小五郎を福井藩主松平兵部太夫宗矩(むねのり)の養子に出せと命じます。これは一橋だけの話ではなく、田安家においても男子が生まれればことごとく養子に出せとのお達しで、血迷うたかと宗武は吐き捨てます。田安も一橋も一代限りとしようとする家重に、宗武は「わしはもう我慢ならぬ! あやつを将軍の座から引きずり下ろし、まるごと塩ゆでにしてくれるわ!」と激怒します。
4月16日正午ごろ、江戸城二の丸にて出火。大名火消し総出で消火に当たるも火の勢いますます強く、大混乱のうちにおよそ7,000坪の御殿が全焼と相成り申した。「家治じゃ……家治があぶない! ぐずぐずいたすな!」と吉宗は二の丸へ急ぎます。
作:ジェームス 三木
音楽:池辺 晋一郎
語り・近松門左衛門:江守 徹
題字:仲代 達矢
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西田 敏行 (徳川吉宗)
小林 稔侍 (加納久通)
中村 梅雀 (徳川家重)
山下 規介 (松平宗武)
宍戸 開 (松平宗尹)
天宮 良 (大岡忠光)
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黒木 瞳 (お久免)
寺島 しのぶ (お逸)
松原 千明 (お幸)
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阿部 寛 (松平乗邑)
香川 照之 (松平武元)
名取 裕子 (月光院)
滝田 栄 (大岡忠相)
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制作統括:高沢 裕之
演出:尾崎 充信
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』
第48回「祭ばやし」(最終回)
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