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カテゴリー「NHK大河2000・葵 -徳川三代-」の42件の記事

2017年11月21日 (火)

プレイバック葵 -徳川三代-・(41)御対面

花は散り星は流れても、我が胸に深くひとすじの道
『彰往考来』往きたるを彰らかにし来たるを考う。

例によって訃報である。

元和10(1624)年2月29日、
幕府重臣・板倉勝重死去、享年80。

寛永元(1624)年7月13日、元広島城主・福島正則
信濃川中島の配所にて死す。享年64。

9月6日、高台院北政所、京都にてご逝去、享年83──。

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2017年11月17日 (金)

プレイバック葵 -徳川三代-・(40)親ごころ

まずはこのごろご他界の方々のご冥福をお祈り奉る。

12月17日、武家伝奏 従一位・広橋兼勝他界、享年65。
二十余年にわたり朝廷と幕府の仲介役を務めた功労者であった。

元和9(1623)年3月20日、出羽米沢城主・上杉景勝逝去、享年69。
「巨星落つ」かつて天下を揺るがした戦国の風雲児もついに旅立つ。

8月4日、筑前福岡城主・黒田長政が京都で卒去、享年56。
知謀人に優れ、関ヶ原の合戦では裏の立役者であった──。

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2017年11月14日 (火)

プレイバック葵 -徳川三代-・(39)将軍家光

まずは元和8(1622)年にご他界の方々のご冥福をお祈り奉る。

5月9日、江戸城内比企尼屋敷で見性院逝去、享年77。
見性院は武田信玄の息女で、徳川家康五男信吉の異母、
そして徳川秀忠の御落胤・幸松丸の庇護者でもあった。

7月1日、伊達家家臣・支倉常長が仙台で死去、享年52。
ローマ法王に引見しキリシタンに帰依したため
殺害されたかもしれない、という噂。

7月3日、加賀金沢城で前田利常正室・珠姫逝去、享年24。
珠姫は秀忠次女で、生母お江の悲しみはいかばかりか。

10月2日、宮中にて皇子賀茂宮が薨去、享年5。
賀茂宮とは、後水尾天皇が於与津御寮人に生ませた皇子で
これにより天皇の子は梅宮ただひとりとなった──。

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2017年11月10日 (金)

プレイバック葵 -徳川三代-・(38)宇都宮釣天井

お江:
「将軍家に世継ぎ生まれざる時には
尾張家・紀伊家より将軍を立てるべし」と
これが家康公のご遺命じゃな?

水戸光圀:
仰せの通り──。

お江:
しからば、忠長の身分はどうなる?
もし三代家光が子を得ざれば、弟の忠長をもって
四代目を継がせるのが筋道ではあるまいか?

水戸光圀:
そは家康公のご本意ならず。
将軍の座にかのうは、将軍家・尾張家・紀伊家の
“御三家”の嫡男のみにござり申す──。

お江:
長子相続か?

水戸光圀:
御意にござります──。

佐々介三郎:
あの……お言葉ながら“御三家”とは
尾張家・紀伊家・水戸家と心得まするが?

水戸光圀:
さにあらず。水戸家を御三家に加えて
将軍家を別格扱いにしたのは後の世のことだ。
もっと勉強せい──。

佐々介三郎:
ははっ。

お江:
例えば、家光が忠長に譲ると言うてもダメか?

水戸光圀:
恐れながら、後陽成天皇も後水尾天皇も弟君への御譲位を
お望みでございましたが、幕府はこれをはねつけました。
はねつけましたからには、
忠長公の将軍家ご相続もあり得ませぬ──。

お江:
あい分かった。

安積覚兵衛:
恐れながら、五代将軍綱吉公は四代家綱公の弟君にござります。

水戸光圀:
だからその時は大もめにもめたのじゃ。

安積覚兵衛:
大もめにもめた、とは?

水戸光圀:
たわけ。先のことを申すな!

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2017年11月 7日 (火)

プレイバック葵 -徳川三代-・(37)忠直の乱心

元和6(1620)年6月18日、
二代将軍徳川秀忠の第五女・和姫は
その名も和子(まさこ)姫と改め
後水尾天皇の女御となった。

これで徳川家康の悲願は成就し
天皇家と徳川家は婚を通じて親戚となった。

この時、秀忠とお江の方との間には二男五女があり
17歳の嫡男竹千代は元服して徳川家光の名を賜った。
15歳の次男国千代も元服し、徳川忠長の名を賜った。

豊臣秀頼と死別した千姫は播州姫路城の本多忠刻に再嫁し
次女珠姫は加賀金沢城の前田利常の正室、
三女勝姫は越前北の庄城の松平忠直の正室、
四女初姫は越前小浜城の京極忠高の正室。

五女和姫は後水尾天皇に嫁いだのである。
さらにお江には先夫羽柴秀勝との間に完子があり
関白九条忠栄の正室である。

そして秀忠にはお手つきの侍女・お静が生んだ幸松がおり
秀忠は内々に信州高遠に遣わし、保科正光の養子とした──。

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2017年11月 3日 (金)

プレイバック葵 -徳川三代-・(36)和姫入内

元和5(1619)年4月、安芸広島城主・福島正則は
無断で居城の修築をしたのを幕府にきつく咎められたが
傲慢にもこれを軽視し、本丸の一部を破壊したのみで
新築の二の丸・三の丸には手もつけなかった。

6月2日、幕府はついに福島正則を改易処分とし所領を没収した。
ただし、正則のこれまでの功労を認めて
信濃川中島45,000石を与えて蟄居謹慎を命じます。

法を犯すものは大名と言えどもこれを許さず
これはすなわち、徳川秀忠の英断ではないだろうか。

(福島正則:) あいやしばらく!
広島城の改築については正則は本多正純に届け出ており
正純が握りつぶしたもので、これは陰謀に他ならない。

いや、本多正純はこのころすでに窓際族、
今や秀忠の信頼厚く、幕府の権勢を一手に握る人物は
土井利勝、ついで酒井忠世であり、
正則は頼るべき人物を見誤ったのである──。

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2017年10月31日 (火)

プレイバック葵 -徳川三代-・(35)竹千代の屈折

徳川家康薨去の際、存命である側室は11人いたが、
これら11人の去就をざっとお目にかけたい。

次男結城秀康の生母・於万は
落飾して「長勝院」となり、そのまま北ノ庄城に居住。
六男松平忠輝の生母・於茶阿は
「朝覚院」となって江戸市内に居住。

九男徳川義直の生母・お亀は
「相応院」となって尾張名古屋城へ。
十男徳川頼宣と十一男徳川頼房の生母・お万は
「養珠院」となって駿府城へ。

十一男徳川頼房の養母・お梶は
「英勝院」となって江戸城三の丸へ。
子を産まなかった阿茶局は
「雲光院」となって江戸城大奥に居住。

お仙は「泰栄院」となって駿府城に居住。
お竹は「良雲院」となって江戸城内比企尼屋敷に居住。
お六は「養儼院(ようげんいん)」となって
江戸城内比企尼屋敷に居住。

お夏は「清雲院」となって江戸城三の丸脇の屋敷に居住。
お梅は本多正純の江戸屋敷に居住。
お梅は家康存命中に下げ渡され、正純の妻となっていたのである。

将軍秀忠はお気の毒である。
父の側室11人まで相続することになったのである──。

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2017年10月27日 (金)

プレイバック葵 -徳川三代-・(34)御落胤

元和3(1617)年4月17日、徳川家康の御霊は
一周忌を期して駿府久能山より日光へ移され
盛大な遷宮の儀が執り行われた。
この日、日光山を埋め尽くした参詣者は3万人。

こうして家康は東照大権現の名において
神と崇め奉られたのである。

東照社……東照宮と称せられるのは
まだまだ後の世のことである。
東照の言われは、関東と東北を照らす役割だからで、
西は天皇がおわすので、東だけで問題はなさそう。

しかしなぜ不便な山奥に?
いずれ戦乱の世が戻ってくれば、
自分の墓は必ず掘り返されるであろう。
そう予測した家康は、わざと山奥の不便な場所を選んだ。

日光は要害、東照社は城。
万が一、江戸城が陥落した際には
日光に立て籠って戦う。

我、東照大権現、これを守らん!
徳川幕府は永遠に不滅なり──!

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2017年10月24日 (火)

プレイバック葵 -徳川三代-・(33)東照大権現

徳川家直系男子の命名には一種の法則がある。

徳川家康の「康」は、祖父・松平清康の「康」、
徳川秀忠の「忠」は、祖父・松平広忠の「忠」。
広忠の祖父は信忠、信忠の祖父は親忠と、
一代おきの諱(いみな)を継承していた。

三代将軍徳川家光の「家」は
祖父・徳川家康の「家」であるが、
おもしろいのは、家康の九男・義直、
十男・頼宣、十一男・頼房の命名である。

徳川義直の「義」は、源氏の流れを汲む
新田義重およびその一族のキーワードであり、
頼宣、頼房の「頼」は、家康が崇拝して止まない
源 頼朝の「頼」なのである。

家康は、徳川家の祖先が源氏であることを
わが子の命名によってアピールしたに違いない。
源氏でなければ将軍になれないからである──。

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2017年10月20日 (金)

プレイバック葵 -徳川三代-・(32)家康の死

物語は進んでますます佳境、
ここでは徳川家康の宗教観について語りたい。

当時の学問や思想は「神道」「仏教」「儒教」を根本とし
貴族から武家、庶民に至るまで、この3本柱を常識としていた。

家康の神道顧問は神龍院梵舜、
仏教顧問は南光坊天海と金地院崇伝、
儒教顧問は道春こと林 羅山であった。

ところが家康は、70歳を過ぎるや
仏教に深く傾倒して昼も夜も写経三昧。
高僧から仏法を聞くこと、天台宗15回、真言宗7回、
浄土宗3回、曹洞宗3回、華厳宗2回、法相宗1回。

そもそも徳川家は浄土宗に帰依し、
関東入部の家康は増上寺の存応上人より
「血脈(けちみゃく・教えを授かること)」を受けていた──。

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