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カテゴリー「NHK大河・葵 -徳川三代-」の24件の記事

2017年9月19日 (火)

プレイバック葵 -徳川三代-・(23)宮中重大事件

やんごとなき殿上人の中でも
摂政・関白の座に就くお家柄を
「摂関家」あるいは「五摂家」と言う。
(近衛・鷹司・九条・二条・一条)

“名門中の名門”の五摂家は鎌倉時代の中期に確立され
藤原氏の子孫によって脈々と受け継がれてきた。
この伝統を断ち切り、関白の座を横取りしたのが
武士の頭領・豊臣秀吉と豊臣秀次である。

徳川家康は、これをけしからんことだと心得て
関白の座を再び五摂家へ返上したのである。

しかし、武力財力ともに優位の江戸幕府は
露骨な人事介入を行い、今や五摂家の権威は有名無実、
関白の座と言っても形式的な飾り物と化しつつあった。
これは家康の謀略ではないか──。

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2017年9月15日 (金)

プレイバック葵 -徳川三代-・(22)大御所

江戸城は太田道灌によって創設され関東一の名城と
うたわれているが、それは150年も昔のことである。
天正年間に徳川家康が初めて入城したときの江戸城は
城も小さく堀も狭く門も塀も貧弱であった。

改築に改築を重ね、征夷大将軍となった
慶長8(1603)年には日本最大の本丸造営に着手。
慶長12(1607)年には天守閣を含めて
威風堂々の江戸城が完成したのである。

この時、本丸御殿、西の丸御殿のほかに
二の丸、三の丸、北の丸などが増設され
世継ぎ竹千代は二の丸に入り、
三の丸や北の丸には、将軍生母や側室たちが入った模様。

ちなみに大奥は本丸御殿内にあるが
いわゆる大奥制度が出来たのはもっと後のことである──。

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2017年9月12日 (火)

プレイバック葵 -徳川三代-・(21)偉大なる父

この世に生を受ける者あり。
永らえて世を去る者あり。
本当に人の一生というものは有為転変で
あたかも流れてゆく雲のようなものである。

慶長11(1606)年5月14日。
上野館林城主・榊原康政、死去。享年59。
奇しくも同日、伏見城で西郡局が急逝。享年59。

そして6月1日、江戸城で
新将軍・徳川秀忠の次男誕生。国千代と名付けられた。
嫡男・竹千代とは2歳違いの弟である──。

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2017年9月 8日 (金)

プレイバック葵 -徳川三代-・(20)二元政治

新田義重の子・義季が初めて徳川姓を称し
その子孫・松平親氏が松平家の養子となり
徳川家康までは代々松平姓を名乗った。

そして永禄9(1566)年、
三河を統一した家康は朝廷に願い出て、
由緒正しい本家の徳川家を称した。

……というのは真っ赤な嘘!?

徳川家は新田家の子孫ではなく藤原姓を名乗っていたが、
征夷大将軍は源氏の末裔でなければならないという
条件をクリアするため、こっそりと系図を変えていた。

系図詐称と大騒ぎすることなかれ。
この時代のこういった詐称はさほど珍しいものではなく
太閤秀吉も豊臣家の系図をでっちあげている──。

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2017年9月 5日 (火)

プレイバック葵 -徳川三代-・(19)将軍秀忠

朝廷とは神代の昔より侵せない存在であって
雅やかな王朝文化は万民一様に
かしこみ崇めるところであった。

その朝廷の臣下の筆頭は「摂政」「関白」であるが、
近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家が
回り持ちで務めていた。

武士というものは朝廷を守護するガードマンであったが
平安時代より武力が著しく増大し、
源 頼朝は鎌倉に幕府を開き
政治経済の荒事を担当するに至った。

天下人となった豊臣秀吉は自らを関白と名乗り
位人臣を極めた。

そして慶長8(1603)年、徳川家康は関白の座には目もくれず、
頼朝に倣って「征夷大将軍」の座につくや江戸に幕府を開いた。
「征夷大将軍」とはいわば、防衛庁長官(※)のようなもの。
(※)放送当時の名称。防衛庁から「防衛省」への移行に伴い
 平成19(2007)年1月9日より「防衛大臣」となっている。

ただし、この防衛庁長官(=征夷大将軍)は、
強大な軍事力を背景に総理大臣よりも実力があった──。

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2017年9月 1日 (金)

プレイバック葵 -徳川三代-・(18)異母兄弟

言うまでもなく「浅井三姉妹」とは
織田信長に滅ぼされた浅井長政の忘れ形見で
母親は信長の妹・お市の方である。

長女は太閤豊臣秀吉の側室・淀の方、
侍女は若狭小浜城主 京極高次の正室・お初、
三女は徳川秀忠の正室・お江。

浅井三姉妹の胸の内には、
名門浅井家の再興が悲願となっていた。

慶長8(1603)年7月現在、浅井長政の孫は6人。
淀の方が産んだ豊臣秀頼、
お江が先夫との間に産んだ完姫と
秀忠との間に産んだ千姫・珠姫・勝姫・初姫の4人である。

千姫はいとこの秀頼に嫁ぎ、
珠姫は前田犬千代に嫁ぎ、
勝姫は結城秀康嫡男の結城長吉丸に嫁いだ。
そして初姫はまだ産まれたばかり──。

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2017年8月29日 (火)

プレイバック葵 -徳川三代-・(17)千姫婚礼

徳川家康は慶長6(1601)年、
佐渡の金山を直轄とし伏見に銀座を設けた。
[貨幣制度の統一]

同年、朱印船制度を定める。
[貿易の許認可制]

慶長7(1602)年には東海道・中山道の宿駅に伝馬制度を設置。
[飛脚の定期便]

同年、江戸城中に文庫を建て、金沢文庫の書物を移す。
[文化遺産の保護]

金沢文庫(かねざわぶんこ)とは、
鎌倉時代に北条実時が鎌倉の金沢に創立した文庫で、
収められた壮大な書物は関東の学問の中心となった──。

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2017年8月25日 (金)

プレイバック葵 -徳川三代-・(16)秀忠の秘密

徳川秀忠の正室・お江は、
近江小谷城主・浅井長政と織田信長の妹・お市の方の
間に生まれた「浅井三姉妹」の末の妹である。

すなわち、上の姉は豊臣秀吉の側室で秀頼の生母・淀殿、
中の姉は若狭小浜城主・京極高次の正室・お初。

江の名は書物によってさまざまで
「江与」「達子」「江」「小督」「徳子」とある。
いったいどれが本当であろうか。

うち「達子」「徳子」は朝廷から賜った名前で
残り3つは、お江は3回も輿入れしているので
その度に改名したものと思われる。
……というのは多少うがった見方かもしれない。

ちなみに江戸に来て秀忠と結婚した時には
“江戸を与(あず)かる”から「江与」と名乗っていた。
……というのもなかなか当てにはならない。

「江与」も「江」も当て字で、正しくは「小督」である。
ただ、秀忠の姉にもたまたま同名の「督(ごう)姫」がおり
若い方のお江に小の字をつけて「小督姫」……?

謎は深まるばかりである──。

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2017年8月22日 (火)

プレイバック葵 -徳川三代-・(15)花嫁は三歳

関ヶ原の合戦で石田三成を滅ぼした徳川家康は
毛利輝元らの政敵を容赦なく追い落とし、
おおむね天下を手中に収めた。

しかし、太閤豊臣秀吉の遺児・豊臣秀頼と
その生母・淀殿は依然として大坂城に君臨し
家康にとっては目の上のたんこぶであった。

主君を“目の上のたんこぶ”呼ばわりするのは不忠の極み?
家康を謀反人のように言うのはよろしくない?

いやいや、家康が謀反人であるならば
秀吉もまた謀反人である。
秀吉は天下人になった折、
主君織田信長の係累をみな家来にした──!!

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2017年8月18日 (金)

プレイバック葵 -徳川三代-・(14)淀の面目

敗軍の将・石田三成は41歳を一期として
六条河原の刑場の露と消えた。
佐和山城には金銀財宝はおろか弾薬も米もほとんど残っておらず
ありったけの私財をすべて投げ打って関ヶ原を戦ったのだった。

戦とは、莫大な出費を要するもので
三成の誤算と言えば、大坂城に蓄えられた豊臣家の遺産を
引き出すに至らなかったことである。
そして徳川家康もまた、遠征に次ぐ遠征でかなり消耗した。

これらの軍用金は、東軍も西軍も多国籍軍であるため
大名それぞれの負担となったわけだが、
朝鮮の役で蓄えを使い果たし、手元不用意の大名もあった。

大戦となれば、商人のスポンサーも活躍する。
家康には京都の豪商・茶屋四郎次郎、
堺の有力者・今井宗薫などがつき、
三成には堺の天王寺屋、博多の島井宗室らが先行投資した──。

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