2024年9月18日 (水)

プレイバック春日局・(31)終戦と女たち

【アヴァン・タイトル】

豊臣の天下から徳川の天下へ。その政権の移行の裏には、秀吉と家康の子どもの数の差があります。秀頼しか後継者のいない豊臣家を尻目に、家康が多くの男子をもうけたのは、彼の政権安定への執念の表れです。

家康は自らの後継者に三男の秀忠を指名し、60代にもうけた3人の男子を秀忠を支援する存在として、それぞれの要所に配しました。九男義直は尾張に、十男頼宜は始め駿河に、後に紀伊に加増転封し、そして十一男頼房を水戸に配したのです。尾張は東国への玄関口で、西国・北陸を控える戦略上の要。紀伊は京都を睨み、九州島津を牽制する海上交通路の抑え。水戸は東北伊達の構えで、日光の警護も兼ねていました。

秀忠とそれを囲む尾張・紀伊・水戸の御三家から代々の将軍が誕生し、徳川政権は盤石の構えを築いたのです──。

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2024年9月13日 (金)

プレイバック春日局・(30)ああ大坂城

【アヴァン・タイトル】

大坂の陣で、豊臣家が苦戦を強いられた背景には、頼みにしていた豊臣恩顧の大名たちの離反が、大きく絡んでいました。しかし諸大名の側にもやむを得ない状況があったのです。

大物大名がここ2~3年の間に相次いで他界したことも、そのひとつです。慶長16年の浅野長政を始めとして、同じ年、秀頼の身を最も案じていた加藤清正が、慶長18年 池田輝政が、翌19年には前田利長が世を去っていきました。薩摩の島津義弘はこの時80歳、家督は息子に譲っており、世は既に秀吉とは縁の薄い二世の時代でした。

一方、生き残りの有志である黒田長政、加藤嘉明、そして秀吉子飼いの大名・福島正則らは、力があるだけに家康にとっては侮れない存在でした。そこで家康は、江戸城修築を理由に彼らを江戸に足止めしたのです。

こうして豊臣恩顧の大名たちは、家康の巧みな豊臣包囲網に完全に抑え込まれてしまったのです──。

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2024年9月 9日 (月)

プレイバック春日局・(29)大坂攻め

【アヴァン・タイトル】

和歌山県 伊都郡 九度山町、関ヶ原の戦いの後、この地で蟄居していた真田幸村。今はここ、真田庵が住居跡として、唯一足跡(そくせき)を残しています。世に聞こえた幸村も、真田ひもで糊口(ここう)を凌(しの)いでいたとされるが如く、寂しい浪人生活を送っていました。しかしその後、大坂冬の陣・夏の陣と、豊臣方の軍師として再びその名をとどろかせました。

幸村が大坂城に入城する際に支払われた一時金は、なんと2,000両あまり。冬の陣の折、豊臣方は関ヶ原の戦いで主君を失うなどした浪人10万人を金で集めました。その一時金だけでも膨大な金額になります。それにもかかわらず、大坂城には10万人の兵が籠城しても、330日間、ほぼ一年間はゆうゆうと食べていけるだけの兵糧が蓄えられていました。

莫大な財産と優秀な人材。家康は豊臣方の底力のすごみを充分に感じ、恐れながらも開戦を決意したのです──。

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2024年9月 4日 (水)

プレイバック春日局・(28)和平か決戦か

【アヴァン・タイトル】

天正14年、豊臣秀吉が京都東山に建立した方広寺。本尊は身の丈19mの巨大な仏像でしたが、後に地震と火事でこの寺は倒壊。秀頼が再び立て直したのは慶長19年の夏でした。現在の方広寺。すでに大仏はなく、ただひとつこの大きな鐘が、建て直された当時の面影を今に伝えています。

この鐘には銘文が刻まれています。「京都の東の山すそに、空にそびえる美しい寺が再建(さいこん)された」という意味で始まるこの文章は、南禅寺の清韓長老の作品です。国家の平静や子孫の繁栄など、いわば救世の願いを込めた内容でした。しかしこの銘文が、東西の緊張を一気に高める大問題となり、ついには開戦の危機を迎えることとなるのです──。

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2024年8月30日 (金)

プレイバック春日局・(27)舅(しゅうと)から嫁への手紙

【アヴァン・タイトル】

関ヶ原の戦いの後、家康は譜代大名の大半を江戸から京都の間に置き、天下の中心地を固めました。そして外様大名の反乱に備え、一番重視したのが京都からの東海道、そして東北からの奥州街道でした。中でも西は小田原城、そして東は宇都宮城が江戸幕府を守る最後の要衝となりました。その小田原城には大久保忠隣が、後の元和5年、宇都宮城には本多正純が配属となりました。江戸幕府創業期のこの二人の重臣、いかに信頼されていたかが分かります。

本多正純は駿府の大御所・家康の執事として最高の実力者。そして江戸の将軍・秀忠の執政として腕を振るうは大久保忠隣。当時この二人は、駿府と江戸の政治を実際に動かす両輪でした。しかし両雄並び立たずというとおり、二人は対立関係を深め、ついには幕閣を揺るがしていくことになるのです──。

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2024年8月26日 (月)

プレイバック春日局・(26)生き残る道

【アヴァン・タイトル】

大阪平野にそびえ立つ大阪城。昭和34年から始まった大阪城総合学術調査。今も続くこの調査から、それまでの大阪城に対する常識が覆されました。豊臣時代と徳川時代とでは、大坂城は全く違うものであることが分かったのです。

大坂夏の陣で勝敗の決着がついたあと、豊臣時代の建築物は全て壊され、土に埋められました。その上に徳川大坂城は建てられたのです。石垣すらも基礎から新たに積み上げられ、地上に豊臣時代の遺構は何ひとつ残されませんでした。

では、豊臣時代の大坂城はどのようなものだったのでしょうか。城の周りには二重三重に堀がめぐらされ、さらに北に天満川、東に平野川、そして西には大阪湾と、自然の要害に囲まれた難攻不落の大城でした。その広さは2km四方、豊臣方が最後の頼りとしたこの秀吉の大いなる遺産は、天下統一を目指す家康を最後まで苦しめることとなるのです──。

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2024年8月21日 (水)

プレイバック春日局・(25)こころの教育

【アヴァン・タイトル】

徳川家康が江戸に来て20年、町は大きく様変わりしました。江戸城から海に流れ出る日本橋川、家康はこの川の周囲を商業地域に定め、全国から商人や職人を呼び集めました。川には商品を運ぶ船が盛んに往来し、町人の活気で町は賑わいました。当時の地図を見ると、店を構えた町人たちの職業が一目で分かります。呉服町、桶町、畳町、炭町。ふるさとの地名をつけた町もあります。

現在の日本橋川は高速道路の下です。流れをさかのぼってゆくと、江戸一番の繁華街・日本橋に差し掛かります。日本橋のそばには魚市場が設けられました。市場の活気が日本橋をさらに賑やかにしたのです。江戸の人口はこの時すでに十数万、町は日の出の勢いで成長を続けていたのです──。

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2024年8月16日 (金)

プレイバック春日局・(24)母ふたり

【アヴァン・タイトル】

私たちの心に深く刻まれた“おふくろの味”。竹千代、後の将軍家光にもそんな味がありました。育ての親・おふくの「七色めし」です。七色めしとは、病弱だった家光のためにおふくが選んだといわれる7種類のご飯のことです。

麦めし。粟めし。赤小豆めし。青菜を入れた菜めし。いずれもビタミン豊かな健康食です。一度茹でたご飯を蒸した湯取りめし。米粒を細かく挽いて炊いた挽き割りめし。どちらも柔らかく、病気の時には最適です。炊いたご飯を乾燥させた乾飯(ほしいい)は戦の時の携帯食です。幼いころ、これを食べて生き延びたおふくは、その体験を家光に伝えたかったのかもしれません。

健やかに、立派にお育ちするよう、おふくの願いのしみ込んだ七色めしは、家光終生の思い出になったに違いありません──。

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2024年8月12日 (月)

プレイバック春日局・(23)悲劇の予感

【アヴァン・タイトル】

神奈川県小田原市は人口19万人。古くからの城下町で、江戸時代は箱根の関を控えた江戸の西の守りの要衝でした。寛永9年、ここの城主となったのが、おふくの子・稲葉正勝。幼名千熊です。竹千代誕生時に小姓となった少年たちの中で、目立って出世をしたのがこの千熊でした。千熊は小姓組番頭などを経た後、27歳の若さで要職に抜擢されました。千熊に次いで松平長四郎、後の信綱も老中に就きました。

こういうケースは彼らだけではなく、後世名高い2人の人物、五代将軍綱吉に仕えた柳沢吉保と、九代将軍家重に仕えた田沼意次もまた、小姓出身でした。千熊たち小姓は、主君竹千代の遊び相手、かつ学友であると同時に、身辺を警護する親衛隊の重要な職務を任されていました。幕府に信任の厚い彼らは、やがて幕閣を支える中心人物に成長してゆくのです──。

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2024年8月 7日 (水)

プレイバック春日局・(22)名ばかりの将軍

【アヴァン・タイトル】

静岡市の真ん中に位置する駿府城あと。この春、ここを舞台に徳川家康の駿府城築城400年を記念する博覧会が開かれました。家康は生涯に三度駿府に住みました。一度目は子どものころの今川人質時代。二度目は江戸入城前。そして最後が晩年の大御所時代です。この時家康は、本多正純ら譜代の側近とは別に、当時の日本を代表する多彩の人材を登用して、強力な大御所政治を推し進めました。

金地院崇伝 (外交)・天海 (寺社行政)・林 羅山 (文教)・茶屋四郎次郎 (貿易)・後藤庄三郎 (財政)・角倉了以 (運輸)・伊奈忠次 (農政)・大久保長安 (鉱山)・ウィリアム・アダムス (外交)・ヤン・ヨーステン (外交)

家康はなぜ駿府に政治の中心を置いたのでしょうか。江戸の将軍政治は幕府の基礎作りが目的で、関東を支配するだけで手いっぱいでした。全国支配を目指す家康にとっては、東の幕府を助け、西の外様勢力を牽制(けんせい)できる東と西の中間点が駿府だったのです。駿府での晩年の日日、家康は天下和平の最後の仕上げに邁進(まいしん)していたのです──。

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