2024年12月13日 (金)

プレイバック春日局・(50)献身の生涯 [終]

【アヴァン・タイトル】

戦前の教科書には、今ではお目に掛かれない春日局の記述がたくさんありました。尋常小学校の『きそくにしたがへ』は、中でももっとも有名です。春日局は一般に賢婦人(けんぷじん)の鑑として扱われましたが、戦時中には朝廷を蔑(ないがし)ろにした悪女と教えられ、そのイメージを一変させられて戸惑った人々もいます。

京都花園にある麟祥院。東京湯島の麟祥院と並ぶ春日局の菩提寺です。寛永11(1634)年、息子正勝の死後、家光によって建立されました。庭の奥にひっそりとたたずむ御霊屋(おたまや)。春日局の死後、家光が局の菩提を弔って、局の木像をここに祀ったのです。春日局が没して350年、この長い歳月、微動だにせず、穏やかなまなざしを注ぎ続けるこの木像は、いま何を我々に語り掛けているのでしょうか──。

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2024年12月11日 (水)

プレイバック春日局・(49)女の生きがい

【アヴァン・タイトル】

凶作の原因は天災・人災を含めてさまざまありますが、江戸時代の凶作のほとんどは冷害によるものでした。江戸時代は全体に寒い時代といわれていますが、とりわけ寒い時期が40~50年周期で訪れるたびに、大飢饉になっていったのです。寛永の飢饉は東北・北陸地方を中心に、全国に波及していきました。農民の中には食料を求めて離村し、さまよい歩く人々も多く出たのです。

ところで江戸時代と現代とでは、米そのものに違いがあるのでしょうか。時代の異なる7種類の稲の長さにご注目ください。一番長いのが江戸時代のもので、時代の新しくなるごとに丈は短くなっています。丈が長いと倒れやすく、収量が落ちるのです。またこの時期の品種は収量的に安定している晩稲(おくて)が一般的ですが、生育が遅い分、天候に大きく左右されました。江戸時代の米は、冷害には極めて弱かったのです──。

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2024年12月 6日 (金)

プレイバック春日局・(48)直訴(じきそ)

【アヴァン・タイトル】

日本人の海外渡航禁止、ポルトガル船排除などの幕府の鎖国政策は、寛永18(1641)年、長崎出島にオランダ商館を設置することで、その完成を見ました。出島はわずか4,000坪の人口の島です。この小さな島から外に出ることを許されなかったオランダ人ですが、その裏には大きな見返りがありました。キリスト教と関わりなく貿易を図りたい幕府の意思に添うことで、対日貿易を独占することが出来たのです。

鎖国前と後の日本の貿易量を比べると、主要な輸入品である生糸を始めとした輸入総額は、鎖国後5倍以上にも増大しました。鎖国をしたからといって貿易が停滞したわけではなく、むしろその逆だったのです。鎖国は一方的に国を閉ざすということではなく、鉄砲伝来からそれまでの100年間に流れ込んだ西洋文化の中から、受け入れるものと排除するものを決め、幕藩体制を強化するその方策だったのです──。

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2024年12月 2日 (月)

プレイバック春日局・(47)反逆の理由

【アヴァン・タイトル】

長崎県島原半島の南部・南有馬町。原城跡は寛永14(1637)年の島原の乱の主戦場です。37,000の農民たちが10万の幕府軍を相手に、ここで戦ったのです。この地方は寛永11(1634)年から続いた凶作で、農民の生活はどん底でした。しかも領主の年貢の取り立ては緩められず、たまりかねた農民は乱を起こしたのです。この乱の総大将が16歳の益田四郎時貞。世にいう天草四郎です。

島原も天草もかつてはキリシタン大名の領地で、人々の間にはキリスト教信仰が強く根付いていました。幕府の強まる信仰への弾圧は、この乱をいっそう激しいものとしました。女・子どもを巻き込んだ農民たちは、最後の砦・原城で決死の戦いに臨みました。島原の乱は農民とそれを支配する武士との間の戦いで、徳川幕府にとっては初めて経験する本格的な内乱だったのです──。

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2024年11月27日 (水)

プレイバック春日局・(46)忘れえぬ面影

【アヴァン・タイトル】

ここは『春日局』でおなじみのコンピュータ・グラフィックス映像を作っている部屋です。今日はこのコンピュータを使って、江戸城の大奥を探検してみることにしましょう。「よろしくお願いします」「はい」

大奥で最も特徴のある建物、長局(ながつぼね)。ここは大奥に勤める女性たちの住まいで、中は同じような間取りの住居が何軒も並んだ、長屋のようになっています。一軒の間取りは、まず右側が炊事・洗濯など水回りのスペースです。ここは台所。廊下を渡ってここはお手洗い。その隣、壁の向こうは風呂場です。ここから奥は居間や応接の間などが続きます。ある程度の身分の女性はこうした住居をもらい、下働きの者とともに暮らしました。

多い時には数百人が住んだという長局。そこはまさに女性ばかりの集合住宅だったのです──。

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2024年11月22日 (金)

プレイバック春日局・(45)三代目の力

【アヴァン・タイトル】

東京都千代田区紀尾井町。都心部に位置するこの一角には、広大な敷地を持つホテルや大学が立ち並んでいます。いずれも江戸時代の大名屋敷の跡地です。現在ほとんどの大名屋敷は、大きな公共施設などにその姿を変えています。

この一角は、紀伊、尾張、井伊の三つの大名家にちなんで、明治以降「紀尾井町」と呼ばれるようになったのです。寛永12(1635)年に制度化された参勤交代で、大名は長期の江戸滞在を命じられ、それにつれ大名屋敷が増えていきました。江戸の都市人口はおよそ50万人。武家地が全面積の7割を占める一方で、ほぼ同数の町人地は2割にも満たないものでした。

武士の消費生活を支えるために、多くの町人が狭い土地で活発な経済活動を行っていたのです。江戸の人口は家光の時代から40年後の元禄年間、100万を超え、江戸は世界一の消費都市になっていったのです──。

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2024年11月18日 (月)

プレイバック春日局・(44)おんなの目

【アヴァン・タイトル】

「それがしサンマを取り寄せて食したるところ、美味などとは程遠い代物じゃ」「いやぁそれは何かの間違いでござろう」「いや違いはござらぬ。特に本場と申す、房州から取り寄せたものじゃ」「いや、それはいかん。サンマは目黒に限る」

今年はサンマが大豊漁です。落語『目黒のサンマ』は、三代将軍家光がモデルと言われています。食文化研究家の永山久夫さんに、将軍家光と庶民の食事を再現していただきました。家光の夕食は、焼きマツタケ、鯛の刺身など、品数9つと現代人が見ても豪華なものです。しかし栄養面では麦めしや大根汁など、庶民の食事の方が質素にもかかわらず、たんぱく質ビタミンなどで遥かに優れていると、永山さんは評価しています。

一方将軍の食生活は栄養面で偏りがあり、しかも柔らかくさっぱりしたものが中心で、後代の将軍はあごが退化していったとさえ言われています。若い時のように外出もままならぬ将軍家光にとって、旬のサンマは二度と味わえぬ青春の味だったのかもしれません──。

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2024年11月13日 (水)

プレイバック春日局・(43)さらば吾子(わがこ)よ

【アヴァン・タイトル】

「改易」すなわち大名の取り潰し。世継ぎとなるべき男子がいない時や幕府への反逆を理由に、徳川幕府は改易を次々に断行しました。家康は関ヶ原以降41大名を改易、377万石を没収。二代将軍秀忠は41大名を改易、439万石を没収。そして三代将軍家光は49大名を改易、398万石を没収。三代に渡る131大名、1,200万石の改易は、実に江戸時代全体の6割も占め、30万人の浪人を出したといわれています。

それは改易の最大の目的が、豊臣恩顧の大名の取り潰しだったからです。特に秀吉子飼いの福島正則を築城違反の罪で、加藤清正の子・忠広を謀反のかどで改易したことは、豊臣への完全勝利となりました。改易という手段によって、徳川は大名統制力の強さを天下に知らしめ、300年の安定の基礎を築いたのです──。

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2024年11月 8日 (金)

プレイバック春日局・(42)身内を切る

【アヴァン・タイトル】

徳川幕府は家康・秀忠・家光と、三代に渡って諸大名の改易や転封など強硬措置を行い、覇権を確立していきました。その過程は徳川家の内部抗争の歴史でもありました。徳川の一門であることは、それだけで反乱勢力の旗頭となり得たからです。

一門切り捨て政策の最初の犠牲者は、家康の六男・忠輝です。越後高田60万石の城主忠輝は、幕臣を殺害した罪など数々の罪状を幕府に指摘され、兄・秀忠によって元和7(1621)年、伊勢朝熊(あさま)へ流されました。菊池 寛の『忠直卿行状記』で有名な、越前67万石の城主・忠直が二番目の犠牲者です。忠直は将軍家には支配されないと江戸出仕を拒否したため、元和9(1623)年、豊後萩原へ流されました。

体制づくりに懸命な努力を続けてきた徳川幕府。そして今家光は、弟、駿河大納言忠長との対立に直面しているのです──。

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2024年11月 4日 (月)

プレイバック春日局・(41)次男の憂鬱(ゆううつ)

【アヴァン・タイトル】

白虎隊で知られる福島県会津若松。会津藩は明治維新の動乱の中で、最後まで官軍に抵抗し徳川幕府に忠誠を尽くしました。その会津の初代藩主が保科正之です。

正之は二代将軍秀忠と側室お静の間に生まれました。秀忠は正室お江与の方をはばかり、正之を信州高遠城主・保科家の養子にします。秀忠の死後、会津藩主に取り立てた兄・家光の恩に報いるため、正之は家臣全員に教育を義務付け、子どものうちから将軍家への忠誠心を身につけさせました。正之が作った家訓。その内容は将軍家に対する忠誠心に貫かれ、これが「会津魂」の源になりました。

忠長とは対照的に、兄・家光を敬い慕った正之は、家光亡き後も四代将軍家綱の後見として重きをなし、会津と将軍家は明治維新まで深い絆で結ばれることになるのです──。

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