プレイバック春日局・(13)戦後の家族
東西両軍、合わせて15万人の兵士が入り乱れた
「関ヶ原の合戦」は、文字通り“天下分け目”の戦でした。
家康は、敗走した西軍の主力、石田三成、小西行長らに対し
いつになく厳しい残党狩りを命じました。
この時、関ヶ原に埋められた兵士の数は、
4,000とも5,000とも言われています。
家康にとって、合戦後 最も重要な問題は
西軍方の大名に対する処置でした。
特に会津120万石の上杉景勝、
西軍の大将・毛利輝元に対しては慎重でした。
家康は、まず西軍の88大名を取り潰し、その上で
毛利・上杉の大幅な領土没収を決行したのです。
毛利輝元 120万石→[37万石]
上杉景勝 120万石→[30万石]
家康は、没収した630万石を東軍の大名に恩賞として与え
自らも日本最大の領国を手に入れました。
徳川家康 250万石→[400万石]
徳川家康、まさにこの時
天下人としての実験を握ったのです──。
最近のコメント